※当作品はFF12ネタバレ要素を含みます。
王都ラバナスタの街並みを一望できるダルマスカ城のテラスには、夏の生暖かい風が吹きつける。
厳しい日差しが照りつける中、その光を受けて輝く銀色の髪を、アーシェは見つけた。迷いなくテラスに足を踏み出したのは、そこにいるのが自分の愛する者だと知っているから。
手摺に手を置いて遠くを見つめていた銀髪の青年が、アーシェの接近に気づいてこちらを振り返り、その端整な顔立ちに穏和な微笑みを浮かべた。アーシェはそれに微笑み返すと、彼の隣に並んで城下に広がる街を見下ろす。
「ナブラディアとダルマスカ――その同盟を象徴しての政略結婚。誰もがそう言っている」
少し悲しそうに呟いた青年は、眉を顰めて溜息をついた。
「象徴、ですか」
一方のアーシェも、声のトーンを落として青年の言葉を繰り返す。
ナブラディア王国とダルマスカ王国の同盟を象徴しての政略結婚――そう囁かれているのは他の誰でもない、自分たちの結婚のことである。
此度同盟を結ぶことになったのは、その二つの小国を挟む大国、アルケイディア帝国とロザリア帝国の戦争が激化するのに備えてのものだった。
ナブラディアもダルマスカもその二つの大国の戦争が激化すれば、戦場になってしまうことは避けられない。一度戦場になってしまえば、国が廃墟同然にまで破壊されることは確実。現にランディス共和国という小国が、戦場にされてしまったために滅んでいる。
だが、小国同士が手を結んで立ち向かえば、国の崩壊を防ぐことができるかもしれない。此度の同盟は互いの国を守るためのものなのだ。
――でも、それと私たちの結婚は関係ない。
アーシェは指にした銀色の指輪に視線を転じる。
誰もが自分と隣にいる彼との結婚を政略結婚だと呼称するが、本当は違う。アーシェは間違いなく彼を愛しているし、彼も自分のことを愛してくれているのだ。互いが魅かれ合って叶った、恋愛結婚。政略結婚とは全然違う。それなのに――
「王家の義務さ。役割を演じるのは、疲れるな」
互いが王族だからこそ、同盟の象徴と――政略結婚だと称されてしまう。アーシェの父も、そして彼の父も、自分たちを同盟の象徴という役割だとしか思っていない。
「守ります」
アーシェは、彼の大きな手に自分の手を重ねた。
同盟の象徴として縛られる人生を彼には歩んでほしくないし、自分も歩みたいとは思わない。
「君でよかった」
日光を受けて輝く彼の銀髪が本当に美しい。だが、それ以上に優しく微笑む彼が美しい、とアーシェは思った。
――そして、この人が世界で一番愛しい人だ、と。
Kiss Me Good-Bye
「――おはようございます、アーシェ殿下」
ドアをノックする音と同時に、聞き慣れた女史の声がする。
いつもより起こしに来る時間が早いな、と疑問が頭に浮かんだが、それもすぐに消えていった。
「そうか、今日は戴冠式」
破魔石の戦争から一年、様々ないざこざを乗り越えて、今日ようやくアーシェは正式にダルマスカの女王の座に就く。齢二十にして背負うものはあまりにも大きいが、それから逃げるほどアーシェは弱い人間ではない。ダルマスカ王族最後の一人となった自分にしか背負えぬもので、そして守り抜かなければならぬものだ、と心に刻み込んでいる。
その新たな道を歩む最初の日だというのに、アーシェの気分は優れなかった。この先の未来に対する不安、そして責任の重み――だが、彼女を悩ませているのはそれだけではない。
「過去を断ち切れば、自由……」
小さく呟いた言葉は、寝室の静かな空気に呑み込まれていった。
「大いなる父の名において、汝を、ダルマスカを統べる者とみなす。恵み深き神の祝福が汝の行く道に、永久にあらんことを――ファーラム」
ダルマスカ城内の大聖堂。厳粛な空気に包まれた空間が、僧官の言葉が終わると同時に、歓声の渦に変わる。堂内に集まった観衆はおよそ五千人、その人数分の歓声は王冠を授かったアーシェが一歩引いてしまうほどの迫力だった。
(これほどの人を、私は守っていかなければならないのね)
ようやく実感した王位継承の重み。アーシェは目を閉じ、決意を胸に刻み込むが――決意の言葉とともに浮かんでくる“彼”の姿に、思わず息を詰まらせる。
(そう、あなたとともにこの国を支えていくのが私の夢だった……)
浮かび上がる“彼”は、やはりいつもの穏和な微笑みを浮かべていた。亡くす前と変わらぬその姿は、彼が現実にないことをアーシェの心中にひどく実感させる。
それでもアーシェは彼の想いに縛られ、心の片隅に暗いとばりを残したままであった。すなわちそれは、過去を断ち切れていない、ということ。リドルアナ大灯台で確かに断ち切ったはずの想いは、実はまだアーシェの心中から離れていないのだ。
純白に金や銀の宝石が散りばめられたドレスは女王には付きものだが、アーシェはそれを見て首を横に振った。それを着ることすら恥辱にすら思えてしまうのは、やはり王族の生活から長い間離れていたせいだろう。
これくらい見栄えのするものでなければお客様に失礼です、という女史の警告を無視し、アーシェは数多いドレスから一番地味なものを選んだ。
大聖堂で催された戴冠パーティーにはダルマスカの国民だけでなく、他国の貴族方も招かれている。
「――この度はダルマスカ王位の継承、本当におめでとうございます」
背後からかかったのは、聞き覚えのない若い男の声だった。誰だろう、と振り向いた先に見出したものに、アーシェは思わず目を瞠る。
肩ほどまで伸びた黒髪の下にあるのはまだあどけなさの残る少年の顔で、それはアーシェのよく知っている者だった。アルケイディア皇帝、ラーサー・ソリドール――十三歳にして大国を統べる若き主君である。
彼を最後に見たのは一年前、ダルマスカ解放の時以来で、顔つきこそあまり変わっていないものの、あんなに低かった身長はアーシェのそれに近づいている。成長期真っ盛りの少年だからその変化は当たり前のものだが、低く男らしくなった声はアーシェに違和感さえも覚えさせた。
「こちらこそわざわざ足を運んでいただ――」
「いや〜、相変わらずお美しいですなぁ。アーシェ殿下」
アーシェが謝辞を述べようとしたのに割り込んできたのは、声変わりを終えたばかりの少年の声ではなかった。
アーシェのすぐそば、いつの間にか接近してきていた浅黒い肌の男が、そこにいるのが当たり前のような平然さで立っていたのである。アーシェの全身を舐めるような視線で見回したあと、恭しく一礼した。
これが最近ロザリア帝国の外交官に就任したアルシドであるとは、おそらくほとんどの人間が気づかないだろう。気障ったらしくウインクしている様は、大国の外交を受け持つ者というよりも、自信過剰なプレイボーイにすら見えてしまう。
「お二人とも、遠路はるばるお越しいただき、本当にありがとうございます」
「いえいえ、なんのなんの。私たちはあなたのそのお美しい姿を見られると聞いただけでも光栄です。どうぞ、お気になさらず〜」
「そうですよ。本来なら僕たちのような部外者がこのような祝典に出席することは許されないのですから」
アルケイディアにロザリア帝国――両国は少し前まで敵対関係にあったが、ダルマスカ解放をきっかけに和平条約を結んだのだった。そして孤立していたダルマスカもアーシェの王位継承を期に二国と和平を結ぶことになり、これによって三国の均衡が保たれるのである。
とはいえ、三国の内、力の小さなダルマスカの女王就任の祝典に彼ら二人を招くのは失礼な話かと思ったが、こうして快く足を運んでもらえたどころか、招かれたことを光栄に思ってくれていることに今はほっとしている。
「そういえばアーシェ殿下」
アルケイディアの若き主君は、あどけない顔に微笑みを浮かべると、たくさんの人々が点在するフロアを指差した。
「あの中に懐かしい方がいらっしゃいましたよ。貴女にとても会いたがってました」
「懐かしい方? どなただろう……」
「会ってみれば分かります。さ、行きましょう」
アーシェは差し出された少年の手に、自分の白い手を乗せる。
「おやおや、ラーサーちゃんはエスコートまでできるようになったんですね〜」
揶揄するように言ったのは、そばで黙って様子を見ていたアルシドだった。ラーサーはそれをねめつける。
「僕だって女性のエスコートくらいできます」
そうやって意地を張っているところが子どもっぽいな、とアーシェは心中で呟いた。
ラーサーの手に引かれてやって来たのは、広いフロアの隅のテーブル。王家専属のシェフによって作られた色とりどりの料理にありついている少年とそれを止めようとしている少女、そしてそれを穏やかな微笑みを浮かべて眺めている男は――。
「もう! 行儀悪いよヴァン! 周りの人が見てるー。小父さまも笑ってないで止めてください!」
「お前も食えよ。これ美味いぞ」
少年少女の服装は、この大きなパーティーにおいてはずいぶんと貧しいものだった。いささか失礼とも言えるだろう、しかしアーシェは別段気にしたふうもなく、一つ溜息をついて彼らに歩み寄る。
「久しぶりね。ヴァン、パンネロ」
まるで二日ぶりに餌を与えられた犬のようにご馳走にありついていた少年と、それを宥めていた少女、そしてそれを黙って見ていた男の視線が、いっせいにアーシェのほうに向けられた。
「アーシェ!」
少女――パンネロの顔が、希望の光でも見つけたかのようにぱっと明るくなった。
「おめでとう、アーシェ! ついに女王さまね!」
「ありがとう。来てくれて嬉しいわ。ヴァンも」
「おう」
ご馳走にありついていた少年――ヴァンは行儀悪くも口の中に食べ物を入れたまま返事を返す。
「えっと、そちらの方は……」
アーシェは二人の背後に黙って立っていた男に視線を向ける。短い金髪にまだ若い端整な顔立ち、見覚えのない顔に首を傾げた。その問いに答えてくれたのはパンネロだった。
「ほら、やっぱりアーシェだって分からないじゃない。この人、こう見えてバッシュ小父さまよ」
「えぇ!?」
バッシュといえば、かつてダルマスカの将軍を務めていた男であり、そしてダルマスカ解放のためにアーシェとともに戦ってくれた仲間である。この一年彼の顔を見ていないとは言え、かつての仲間の顔を忘れるはずがない。今目の前にいる男は、かつての仲間とはまったくの別人――
いや、よく見ればそれはアーシェの知っているバッシュの顔だった。髪は短く、髭が綺麗にカットされてはいるが、その男独特の端整な顔立ちはあのときと変わらない。
「……その、ずいぶんと変わったわね」
「このほうが陛下もよい、と」
「そう。確かに、あの人に似てるものね」
バッシュには双子の弟がいた。故郷を捨てたバッシュを怨み、数々の暴挙を仕掛けてきた男である。それでも戦乱の末には互いに理解し合えたのだが、それが最期。ひどい傷を負ったために息を引きとったのだった。
“ラーサー様を頼む”――弟の遺志を継いで、バッシュは現在アルケイディアのジャッジマスターを務めている。
「おめでとうございます、アーシェ殿下。ダルマスカは私にとっても故郷のようなもの。殿下の女王就任は大変喜ばしいことです」
「うん、ありがとう」
アーシェを敬うバッシュの態度は、一年前とまったく変わっていない。それがどこか懐かしくて、冷え切っていた心が一気に温まった気がした。
それでも心の隅にわだかまった“あの人”への想いは消えない。蒼く、冷え切ったそれは決意を固めたはずのアーシェの心に大きな空洞をつくっている。
「アーシェ、どうかしたの?」
パンネロの声で我に返ったアーシェは首を横に振った。
「……そういえばバルフレアたちの姿が見えないわね」
数少ないかつての仲間のうち、ベテラン空賊二人の姿が見えないことに気づいて訊ねる。
「ああ、あの二人ならはずせない用があって来れないって」
「そう……」
そもそもパーティーという柄ではない彼らだが、それでもアーシェは来てほしくて招待状を、ヴァンを通じて渡したのである。
自由に空を駆け巡る彼らの生き方にアーシェはとても憧れていた。特に自分の過去を断ち切って自由を手に入れたバルフレアには心魅かれたものである。もしかしたら、自分とまったく違う立場にいる彼に惚れていたのかもしれない。でも今は――
テラスから眺める景色は夜の闇に染まっている。ところどころに点在する民家の明かりはまるで夜空に浮かぶ星のよう。本物の星はすでに天空に散りばめられていた。
「――なんか元気ないな」
「ヴァン……」
いつの間にかついて来ていたらしい少年を振り返り、アーシェは微笑む。その微笑みに力がないことを自覚してはいるが、こんな沈んだ気分ではどうすることもできない。
「どうしたんだよ?」
「疲れてるだけ。ここのとこよく眠れなかったから」
「ふ〜ん」
ヴァンはアーシェの隣に立つと、手摺にもたれて遠くを見つめる。月光を受けて輝くブルーグレイの瞳は何を映し出しているのだろう――そんなことを思いながら、アーシェも同じように手摺にもたれた。
「……あなたはもう過去から解放されたみたいね」
ん、とこちらを向いた顔は、十八歳の男子にしてはあどけない。
ヴァンは三年前の戦争で兄を亡くしている。その兄への思いに縛られて彼が帝国に復讐してやる、と言っていたのは一年前。アーシェと同じような心情で戦い、アーシェと同じタイミングで復讐の無意味さを知った彼の姿は、仲間の中で最も印象深かった。
「アーシェは違うのか?」
「私は……まだ縛られているみたい。どうしても断ち切ることができないの」
どう足掻いても過去は変えられぬことなど、過去に想いを馳せて苦しんでいる自分が一番よく知っている。それなのに、隙さえあれば彼の姿を思い浮かべてしまう。彼を愛した記憶が蘇ってしまうのだ。
「オレもアーシェと同じかな」
「え?」
「今も寝る前に兄さんのこと思い出すし、兄さんがいた頃の夢を見る。でもそれは過去を断ち切れないんじゃなくて、思い出に浸ってるって言うんじゃないのか? アーシェのもきっとそれだよ」
「そうかしら?」
うん、とヴァンは頷いた。
「アーシェは王子のことを忘れようとしてるみたいだけど、そんなこと絶対にできない。オレだって兄さんのこと忘れられないし、これから先もずっと兄さんのことを時々思う。でもそれは悪いことじゃないだろ? 復讐とか、そういうんじゃないなら死んだ人のこと考えるのも悪くないって」
「……そうね」
でも、とアーシェは思う。思い出に浸っているのなら、なぜ己の決意が揺らぐのだろうか? 思い出に浸ることで自身が弱くなっていく気がするのはなぜだろう?
アーシェはそんな戸惑いを振り払うようにそっと目を閉じた。
「――アーシェ殿!」
大聖堂に響き渡る甲高い声。幼いアーシェはその声を聞いてはっと振り返る。
「ラスラ様! いらしたのですね!」
ステンドガラスから差し込む日差しを受けて彼の銀髪が輝いていた。そして、彼の浮かべる穏和な微笑みもまた輝かしい。年に一、二度しか彼と顔を合わせる機会がないアーシェにとって、その微笑みこそ宝そのもの。うっとりと見惚れてしまうのを抑えられない。
「お久しゅうございます。お変わりなくお過ごしでしょうか?」
「はい。ラスラ様もお元気そうで何よりです」
ぎこちない敬語で挨拶を返すと、ラスラの白い手がアーシェの小さな手を握る。
「アーシェ殿、庭園に行きましょう。綺麗なお花が咲いておりました」
「え? ――あっ、ちょっと!」
アーシェが返事をするより早くラスラは握った手を引いて走り出した。その強引さに少し驚いたアーシェのことなど気に留めるふうもなく、白く美しい顔は無邪気に微笑んでいる。
あまり城の外に出ることのないアーシェにとって、自宅の庭園も冒険の地。色とりどりに咲く見たことのない花々に興味津々だった。
「それは“サンビタリア”」
じっと見つめていた黄色い小さな花を指差してラスラが語る。
「日当たりがよくて、排水のよい土地にしか咲かない花です」
「へえ。お詳しいのですね」
アーシェが頭一つ分ほど高いところにある端整な顔立ちを見上げると、ラスラは照れくさそうに笑った。
「母に教えてもらいました。そっちの赤いのは“アマリリス”。その隣のが“エケベリア”――」
尚もそこらに咲き誇る花を紹介するラスラだが、アーシェの視線は紹介される綺麗な花ではなく、紹介しているラスラのほうに注がれている。それがなぜだか、このときはまだ幼いが故に分からなかった。
「あ! これ、見て下さい!」
こちらを振り返ったラスラと視線が一瞬交じり合って、アーシェはドキっとした。慌てて視線をラスラの指差している赤い花に向ける。
「ガルバナの花。こんなところに咲くなんて珍しいですね。本来なら砂漠にしかならないのに」
その花は百合によく似ているが、花弁がそれよりも少し大きい。少し桃色のかかった赤はなぜか優しさを感じさせる。
ラスラは咲いているガルバナのうち、最も大きなものを摘み取った。そして、にこやかにアーシェに歩み寄ってくると、それをアーシェの長いベージュ色の髪に挿す。
「素敵な髪飾りのでき上がり! とてもお似合いです。天使みたいだ」
本人は悪気などないのだろうが、アーシェにとっては恥ずかしすぎる言葉である。ラスラに言われたのなら尚更。
だって私は――
「あの人のことが好きだから」
彼が死んでもその想いに縛られるくらいに――。
「好きなやつのこと忘れられるわけない。そんなのみんな同じだぜ」
そうね、とヴァンの言葉に頷いて、アーシェは再び夜に染まったラバナスタの街並みを眺める。
「ま、元気出せよ。お前が落ち込んでたらみんな心配するだろ」
「……“お前”はやめて」
◆◆◆
「――本当に行ってしまうの?」
うん、とラスラは頷いた。その真剣な眼差しに迷いはない。
先日、彼の祖国であるナブラディア王国は、アルケイディア軍の侵攻により壊滅的ダメージを受けてしまった。最終的に原因不明の大爆発が起こってナブラディアは物理的に消滅――そしてその危機は、ここダルマスカにも迫りつつあった。
「私が行かなければならない」
その最前線であるナルビナにラスラは赴くことになっている。祖国を――家族を死に追いやった敵を討つために。
「行かないで」
アーシェは夫の広い背に抱きついた。
「あなたに万が一のことがあったら、私……」
「アーシェ……」
ラスラがこのまま戦場に行ってしまったら、もう二度と会えないような気がする。もう二度とこの温もりに触れられなくなってしまう気がする。そんな不安と心配が涙になって溢れ出た。
「心配しないで。必ず帰ってくる」
逞しい腕がアーシェの細身を包み込む。それでも溢れ出る涙は止まらない。
「私にはこの国を守る義務がある。この国を守るということは、君を守るということだ」
「でも……」
「君がいるから強くなれる。君がいる限り、私は死んだりしない」
「本当に?」
うん、とラスラは優しく微笑んだ。
「約束だ」
「絶対よ」
自然と重なり合う唇。指きり拳万の代わりに交わされる、長い、長いキスだった。
――でもあなたは帰って来なかった……。
約束は必ず守るはずの彼が、唯一守れなかった約束。もう永遠に果たすことのできぬ約束。そして、永遠に交わすことのできぬ約束――。
気がつくと、アーシェの頬を温かい雫が伝っていた。
「やだ、私……」
慌ててそれを拭って、辺りを見回してみる。夜の闇に支配されたテラスに自分以外の人影はなかった。そうして安堵の息をつく。その直後――
「――しっかりしろよ。王女さまはお強いんだ」
その聞き覚えのある男の声は、意外なほど近くからした。いつの間に現れたのだろう、向こうの手摺に若い男が、生まれたときからそこにいたかのような平然さで腰掛けていた。
「おっと。今は女王さまだったな」
「バルフレア……」
会わなくなってずいぶんと久しいその顔。なぜだろう、他の仲間たちと再会したときには感じなかったのに、この男に再会した途端に安心感が湧いてくるのは……。
「いつからそこに?」
「“なんか元気ないな”ってヴァンが声かけてたとこからかな」
「…………つまり、最初からいたのね」
ということは、アーシェが涙を流しているところも見ていたのだろう。まったく、油断も隙もない。
「ヴァンもたまにはいいこと言うな。過去を断ち切れないんじゃなくて、思い出に浸ってるとか」
「ええ。でも私は、思い出に浸る度に弱くなっていく気がするの」
「困った女王さまだな」
過去を断ち切れば自由になれる、と教えてくれたのはバルフレアだった。自由に空を駆け巡る空賊――立場や責任という言葉の存在しない世界に彼はいる。そんな世界の人間だからこそ、破魔石の戦乱の際はアーシェに多くのヒントを教えてくれた。そして、今回もきっとこの想いを断ち切る方法に関するヒントを教えてくれるに違いない。
「……悪いが、俺にはなんとも言えねえよ」
だが、彼の口にした言葉はアーシェの想像とはまったく異なるものだった。
「ヴァンの言っていたとおり、想いを断ち切るなんてこたぁできねえ。一つ言うんなら、お前さんのそれは“心の成長期”ってやつかな。ガキの頃の成長期のとき、身体のどっかが不調になったりするだろ? それと同じで心の成長期でもどっか不調なところが出てくる。あんたの場合は旦那を愛した記憶だな。けどそれは弱いのとは違って、成長するのに絶対起きる不調だ。その愛した記憶をバネにして、あんたの心は大きくなる。――分かったか?」
「……分かる気がする」
つまりアーシェは今、大きく成長しようとしているのだ。この苦しみさえ乗り越えれば、生まれ変わった新しい自分が待っている。
「想うのは自由さ。相手が死んでいようと、な」
「そうね。――ありがとう」
お安い御用さ、とバルフレアは気障ったらしくウインクする。
やはり彼は答えに繋がるヒントを――いや、答えそのものを教えてくれた。自由に生きている反面、過去に苦しい思いをしてきたからこそ、人の苦しみを理解できるのだろう。自身の経験を通して学んだことを、一言一言に滲ませたような彼の言葉は、アーシェの心に安らぎさえも生み出した。
「……確か白いやつだったな」
いきなり何の話題が持ち上がったのか分からなかったアーシェは首を傾げた。
「お前の旦那だよ」
「ああ……」
確かにラスラは白い。肌が白っぽい上に身にまとうものも白く、そして何より心が純白で綺麗だった。
「会ったことがあるの?」
「いや、結婚式のときに見かけただけだ。いい男だったな。攫ってやろうと思ったけど、さすがに警備が厳しくて諦めた」
「攫うって……まさかあなた、そんな趣味が」
するとバルフレアは、何か悪い冗談でも聞かされたように顔を顰めて、
「バーカ。男を喰う趣味なんかねえよ。けど、あの王子だったら分かんなかったかもな。――って言ったら怒るか?」
「当たり前じゃない! もしも本当にそうなったら私、あなたを呪い殺すわ」
「怖い女王さまだ。心配しなさんな。そんなことあり得ねえ。あんたの旦那はもういないんだからな。だからこそ強くなるんだろ?」
「……そうね。私は強くなりたい」
愛した記憶が強さに変わるから――決して忘れることのない彼と過ごした日々のことを力にして、自分はこの国を守っていく。
「んじゃ、女王さまの悩み事も解決したみたいだし、俺は帰るな」
「ええ。本当にありがとう、バルフレア」
「あんまり言いなさんな。照れるだろ」
はにかむように笑ったバルフレアの顔を見て、アーシェも笑った。
「明日の舞踏会でまた会おうぜ」
「来てくれるの?」
「当たり前さ。招待状もちゃんともらったわけだし、なんつっても俺の愛人が主催した舞踏会だからな」
「愛人って……私そんなんじゃ!」
怒るアーシェなど無視して若き空賊は後ろ手に手を振る。一つ瞬きをしている間に、夜闇の向こうへと姿を消してしまっていた。
一人テラスに佇むアーシェは大きく息を吐く。
「ラスラ……」
無意識に囁かれた彼の名は、吹きつけた一陣の風に攫われていった。
「いないと分かってる。でも、私はもう一度あなたに逢いたい」
夜空に点在するたくさんの星。まるでそれらに話しかけるかのように、アーシェは空を見上げる。
「あなたに逢って伝えたいの。言えなかった言葉――」
“彼”のことがとても愛しい。生前もその想いは抱いていたが、“彼”の死後、それが更に強くなった気がする。無理だと分かっていても、逢いたくて、逢いたくて――猛烈に彼を求める自分がいた。
アーシェの瞳から大粒の涙が零れ出したとき、一瞬だけ夜空に一筋の軌跡が浮かび上がった。
◆◆◆
昨日に引き続いての祭典、今宵は華やかな舞踏会が催される。煌びやかなドレスの女に引き締まったタキシードの男。貴族の男女がゆったりと踊る様子をアーシェは気のない目で眺めていた。
「――おやおや、女王さまは踊らないのですかい?」
流れる曲のテンポが速くなり、踊る男女の動きも少し機敏になった景色に割り込んできたのは、タキシードに身を包んだ若い男だった。
「バルフレア……」
よう、と手を上げた目の前の男は、昨夜テラスで話した空賊と同じ人物だったが、その舞踏会に合わせたタキシード姿は別人にすら見えてしまう。
「予告どおり来てやったぜ。さ、踊ろうか」
「……遠慮するわ。踊るのはあんまり好きじゃないの」
そもそもアーシェは過去に踊った経験すらない。幼い頃から何度もここで開かれていた舞踏会も遠くからただ眺めていただけ。踊るのはきっと好きになれないと分かっていた。
「主催者がそんなんじゃ盛り上がんねぇだろうが」
尚も食い下がろうとするバルフレアに、アーシェは首を横に振り続けた。
「分かってるけど、でもいいの。ここで見ていたい」
「そうかいそうかい。んじゃ、俺も一緒に見ててやるよ。――これ飲むか?」
差し出された赤ワイン入りのグラスを受け取る。仄かなぶどうの香りが心地よい。口に含むとその香りはより確かなものになって、濃厚な味とともにアーシェの口の中に広がった。踊るよりもワインの味や香りを感じているほうが楽しいかもしれない。
「――ん? なんだぁ?」
ワインの味比べでもしてみようか、と思い立ったアーシェのそばで、バルフレアが短い疑問符を上げた。目を細めて見ている先は大聖堂の出入り口。先ほどまで軽やかなステップを踏んでいた貴族たちも足を止め、そうでない者も動作を停止し、出入り口に視線を向けている。――正確には、そこから入ってきた人物に。
出入り口から一番離れているアーシェたちからは、その入ってきた者の風体がよく見えない。照明の光を受けて輝く銀髪――確認できるのはそれだけ。
胸騒ぎがした。それがなぜだがアーシェは自分自身、分からなかった。それは楽しみにしていた日がもう間近に迫ってきているような感覚によく似ている。
突然の来訪者は、自分に集中している多くの視線など気にするふうもなく、まっすぐにアーシェのほうへ歩いてくる。迷いのない歩みが近づくにつれ、徐々にその容貌が露になる。
照明の光を受けて輝く銀髪はまるで王冠を戴いたかのようで美しいが、浮かび上がった男らしい端整な顔立ちに比べれば飾りにすぎない。頬のところだけ少しふっくらとした、なめらかな輪郭、形の綺麗な高い鼻、細い唇も品よく美しい。
身にまとっているのは白い皮に縁が金でできたもの、派手でなく、また地味でもない。
「嘘……」
堂内はしん、と静まり返っていた。流れ続けていたオーケストラの演奏までも沈黙し、皆の視線がその美男子と、それを信じられないものでも目撃したような目で見ているアーシェに注がれている。
実際、アーシェは信じられないものを目の当たりにしていた。死んだはずの“彼”を ――死して尚アーシェの心を掴んで離さない最愛の人を。
「ラス……ラ……?」
銀髪の美男子はアーシェの目の前まで来るとその歩みを止める。そして美しい顔に穏和な微笑みを浮かべ、左手を差し出した。
薬指にはめられた銀の指輪は、アーシェの左手の薬指にはめられているものと同じである。愛を誓ったあの日に交換した大切な宝物。
「私と踊ろう、アーシェ」
低く男らしい声は、ここ数年夢の中で何度も聞いたものだったが、実際に聞くとなぜだか懐かしさを感じさせる。
アーシェは差し出された手を取った。自分が踊れないのは重々承知しているが、ここで彼の手を取らなければ、二度とその手に触れることができないのではないかと思ったから。
その反面、これは夢ではないか、と疑う。彼に対する想いが強すぎるあまり、心地よい夢の世界に陥ってしまったのではないか、と。だが、彼の手の温もりがそうでないことを実感させた。長年触れることのできなかった、優しさそのもののような温もりをアーシェは今確かに感じている。
そして、彼のシンボルとも言える美しく、優しい微笑み。これが昔はアーシェの心に大きな安らぎを与えていた。そして今も、それのおかげでアーシェの心はとても穏やかになっている。
彼がそっとアーシェの手を引いたとき、呆然としていたオーケストラが慌てて新たな曲を演奏し始める。
いつの間にかフロアにできていた広い空きスペースに、主役の二人が降り立った。
「私、踊ったことなんてない」
小声でそう伝えると、ラスラはいつもの優しい微笑みを浮かべる。
「大丈夫。私がリードするから」
ラスラの右手がアーシェの華奢な身体を引き寄せる。周りには多くの観衆、そしておそらくはそのすべての視線が自分たち二人に注がれていることだろう。こうして密着しているのを見られると堪らなく恥ずかしい。
繋がれた彼の左手と自分の右手を肩より少し低い高さに突き出して、互いの腰に手を回す。ダンスの基本スタイルをとった二人はゆっくりと動き出した。
死んだはずの彼がなぜここにいるのか、そんな疑問はとっくの昔に頭の中から消し去られている。今大切なのは、足をもつれさせないようステップに集中することと、彼の全身から伝わる温かさを感じ取ること。そして、繋がれた手を決して離さぬこと。
川の流れのような緩やかな音楽と、ラスラのステップ。踊ったことなどないはずなのに、アーシェの足はそのステップに合わせて機敏に動いていた。
「上手だよ」
耳元で囁かれた声に顔を上げると、ラスラが微笑んでいる。実際は彼のリードあってこそのこの動き。アーシェのダンスが上手なのではなく、彼のダンステクニックが素晴らしいのだ。
(夢みたい……)
繰り返されるステップと流れる動きに慣れてきた頃、アーシェはようやく彼に再会できたことの嬉しさを感じた。驚愕ばかりが支配していた胸の中に、懐かしさと嬉しさが広がっていく。彼を失ってから満たされることのなかった心の穴が、一気に満たされていくような、そんな気がした。
「――アーシェ」
ふと気づくと、流れ続けていたオーケストラの演奏が止み、大聖堂はまた元の静寂を取り戻している。
目の前には、美貌を笑みに染めたラスラが立っていた。
「ありがとう。楽しかった」
その言葉は自分を賛辞しているものなのに、アーシェはなぜだか言い知れぬ不安を覚えた。楽しみにしていた日が終わろうとしているときの寂しくてどうしようもない気持ち。そして、大好きな人と別れるときの胸に穴が空いたような苦しさ。
そしてそれは決してアーシェの心中だけで展開する想いではない。現実に、彼はアーシェから離れようとしていた。少しずつ、微笑みを絶やさない彼との距離が開いていく。
「じゃあね」
ラスラが踵を返した。夢で見慣れた後姿は、夢のときのようには振り返らない。迷いのない歩調で一歩一歩、アーシェから遠ざかっていく。
「駄目! 行かないで」
このまま別れてしまえば彼とはもう二度と会えない――そんな根拠のない思いが大聖堂を出て行こうとしているラスラを引き止めた。ドレスの裾を手で上げて、笑顔でこちらを振り返った彼に向かって走り出す。そうして腕に大きく捕まえた温もりは、アーシェの気持ちを察して優しく包み込んでくれる。
根拠のない思い、と言ったが、これが実は根拠のある現実だとアーシェは知っていた。ここにいる夢でも幻影でもないラスラとは別れなければならない、と。そしてもう二度と会えないこともよく分かっている。
別れまでの僅かな時間、その間ずっとこの温もりに触れていたい。今まで離れていた分と、これからもう触れられない分を埋め尽くすために。
だが、時間とは冷酷なものだ。待てと願うほど早くに過ぎ、早く過ぎれと願うほどゆっくりと流れる。
もう行かなければ、と耳元で囁かれた声はやはり優しかったが、どこか寂しさを孕んでいたのが胸に痛い。それが今度こそ本当に別れるのだと、アーシェに実感させる。
見上げた顔にはやはり穏和な微笑みがあった。だからアーシェも微笑む。――微笑もうとするが、それは失敗に終わった。白い頬に透明な雫が、流れ星のごとく軌跡を描いて落ちていく。
(駄目よ。みんなが見てる……)
だが、アーシェの意志とは裏腹に、それは止めようとするほど瞳から零れ出す。悲しくて、悔しくて……彼を亡くした日から抱いていた様々な想いが混合して、留められぬ涙をつくっていた。
きっと今自分はくしゃくしゃのひどい顔をしているだろう。嗚咽まで漏らして泣きじゃくっている姿は女王としてだけでなく、一人の女としてみっともない。そう思うのにそれを止められないのは、彼との別れがとてつもなく辛いからだ。
そのとき、彼の手がアーシェの頭に触れた。一瞬撫でられるのかと思ったが、そうではない。軟らかい何かが、アーシェのベージュ色の髪に添えられている。
手に取ると、それは百合によく似た花だった。だが、反り返った花弁は百合のそれよりもやや大きく、百合にはない桃色のかかった赤色をしている。
「「ガルバナの花」」
ラスラと口をそろえて言った言葉は、この花の――アーシェとラスラがこの世で最も愛す花の名前だった。
「本来なら砂漠にしか咲かないらしいのだけど、なぜかここの庭園に咲いていたよ」
ラスラは、幼い頃に庭でこの花を見つけたときと同じような台詞を口にする。そして一つ微笑んで、大きな手をアーシェの肩に置いた。
「――君なら大丈夫。きっとこの国を守っていけるよ」
それは、この世界で誰よりも彼にかけてほしかった言葉だった。――いや、彼でなければならなかった、と言ったほうが正しい。たくさんの人々や仲間たちの応援を受けても完成することのなかった未来というパズルが、ラスラの優しさと温かさを兼ね備えた言葉という最後のピースを見つけて、ようやく完成した。
「私はずっと君のそばにいる。君の目に映らなくても、君に触れられなくても――ずっと見守っているよ、アーシェ」
ラスラはおそろいの指輪をはめたほうの手でアーシェの涙を拭うと、そのまま頬に手を滑らせて、いつものように微笑む。
自然と触れ合った唇は、互いを熱烈に求めて離れない。そしてそれが最後だと分かっているから、尚更離れられないのだ。
結婚式での誓いのキス、毎日のように交わした、触れるだけキス、そして戦場へ行く彼と指きり拳万の代わりに交わしたキス――そのどれよりも長く、熱かった。
「さようなら」
ようやく離れた彼の唇が、短い別れの言葉を口ずさんだ。アーシェはそれに頷くだけ。別れの言葉はいっさい口にしない。それよりも、言わなければならない大切な言葉がある。
「――私」
嗚咽の名残で震える唇を動かしたアーシェは、今度こそ心の底から微笑んだ。
「あなたでよかった」
◆◆◆
やはり、とアーシェは思った。それは目覚めると自分が泣いていたことに対してでもあるし、ラスラに再会するという甘い夢を見ていたことに対してでもある。
ラスラはもう、この世にいない。毎朝のように自分に言い聞かせていたその言葉が、今日はいつもと違うイントネーションに聞こえた。
「……そっか。ラスラはいる――ここに」
左胸に置いた手に、きらりと光るものがある。日光を受けて光る“彼”の銀髪のような色の、指輪。反対の手でその手を握り締めて、アーシェは目を閉じた。
不安、恐怖、迷い。そんな心の空白が、今朝は綺麗さっぱりなくなっていた。あるのは未来への希望と、二度と揺らぐことのない堅い決意。アーシェはダルマスカを守っていく、と再度己に――あるいは心の中にいる“彼”に誓った。
“彼”の言葉が夢の中でもらったものだとは分かっているが、それでも確かな自信と安心感が生まれたのは間違いない。手を伸ばした先に、彼の存在はあったから。
アーシェは身体を起こしてベッドから降りる。そのとき、枕元に何かが置いてあることに気がついて、そっとそちらに視線を向ける。
――ガルバナの花、だった。