終. シュユ卿が好きだ、エイトが好きだ




『朱雀のすべての民とあの少年一人の命、この二つのどちらか一つを選択しなければならないとき、汝はどちらを選ぶのだろうな?』

 偽シュユにそう問われたとき、決して口には出さなかったが、シュユの中では即座に答えが出た。
 少し前のシュユならば、何の迷いもなく朱雀の民を選んでいただろう。朱雀のルシとしてそれは当然のことであり、むしろそちらを選ばなければ自らの存在意義を否定することになる。
 だが、シュユは思い出してしまった。誰か一人を特別に思う感情を。他の誰よりも優先して守りたいと思う感情を。だからもしもいま先ほどの選択を迫られたら、シュユは間違いなくエイト一人の命を救うことを選ぶだろう。
 結局のところ、シュユはルシである以前に一人の人間なのだ。他の人間たちがそうであるように、貫き通したい我儘を胸に持っている。


 ◆◆◆


 嗅ぎ覚えのある花の香りに導かれ、シュユはゆっくりと目を覚ました。
 最初に目に映ったのは、見慣れた無機質な天井だ。それでここが自分の部屋だと理解し、周りを見回せば少し離れたところに、椅子に腰かけた女の姿があるのに気づく。

「やっと起きたか、シュユよ」

 年齢不詳だが十分に美しいと言える顔が、こちらに気づいて声をかけてくる。

「ずいぶんと無茶をしたようだな。いまはもうすっかり傷も塞がっているようだが、我が駆けつけたときはひどい有様だったぞ」
「……あのとき救ってくれたのはセツナだったのか」

 偽シュユに追いつめられていた中、突如出現した光の筋。まるで奇跡そのもののように状況を逆転してくれたあれは、セツナの魔法だったようだ。

「感謝する」
「気にするな。あれはクリスタルの意思だ。ちなみに一緒にいた少年も無事だぞ」

 少年、と言われて思い浮かんだ顔に、シュユは複雑な思いを抱く。もちろんエイトが無事だったことは嬉しいし、安堵も感じている。すぐにでも彼の元へ駆けつけたいという思いもあるにはあるが、逆に少しだけ顔を合わせ辛くもあった。
 大事にしようと、守っていこうと心に決めたはずなのに、あのとき守り切ることができなかった。セツナの助けがなければ彼も、そしてシュユ自身も闇に飲み込まれてしまっていただろう。
 意識を失う直前に見た、倒れて動かないエイトの姿が目に焼きついて離れない。あんな目に遭わせてしまった自分に、彼のそばにいる資格などあるのだろうか?

「シュユ……?」

 雪花石膏のように白いセツナの手が、シュユの頬にそっと触れる。

「どうしてそんな悲しそうな顔をする? お前もあの少年も無事だったのだぞ?」
「我は……エイトを守れなかった」

 偽シュユに負かされかけた悔しさが、大事なもの一つ守れなかった自分に対する憎しみが、心の底から湧き上ってくる。

「エイトどころか、自分自身でさえ守れなかった我に、存在する価値などあるのだろうか?」

 ルシは人を、あるいは国を守るために存在するものだ。その一番重要にして唯一の宿命である“守る”ということができなかった以上、シュユにはルシとしての存在価値などないのではないか?

「ルシとしては確かに、存在価値を疑わざるを得ないのかもしれない」

 セツナの抑揚を欠いた声が、冷たい事実を告げた。

「しかし、お前は全力を尽くしたのだろう? これが手を抜いて招いた結果であるなら、本当にルシとしての価値などない。だが、お前は必死に守ろうとした。結果的に少年の命は救われたし、何も失わずに済んだはずだ」
「しかし……」
「我の助力がなければ救うことなど叶わなかった、か? 我はそうは思わぬ。あのとき我が現れずとも、お前はどうにか止めを刺せただろう。なぜなら、お前はまったく諦めてなどいなかったからだ」

 セツナの言うとおり、シュユはあの絶体絶命な状況でも決して諦めていなかった。偽シュユが斧を振り上げたとき、魔法で攻撃して隙をつくり、止めを刺す算段を立てていたのだ。

「だからあまり自分を責めるな。胸を張って、堂々としていればいいのだ。それにあの少年のほうは心底お前に会いたがっていたぞ? お前が療養中ということで一時的に候補生寮のほうへ戻していたのだが、毎日ここに来てはお前の寝顔を眺めていた」

 心配そうな顔をして椅子に座るエイトの姿が目に浮かぶ。もしも本当に自分の目の前でそんなふうにしていたら、後ろからそっと抱きしめてやりたい。

「そういえばそろそろ来る時間だな。邪魔者は早々に退散するとしよう」
「――セツナ」

 椅子から腰を上げたセツナを、シュユは呼び止める。

「感謝する。いろいろと」
「ふん。礼はリフレのマンゴープリンでいいぞ」



 セツナが部屋を出た数分後、彼女の予告どおり、シュユが最も会いたかった少年が姿を現した。
 少年――エイトはシュユの顔を見るなり、安堵したような、それでいてどこか泣き出しそうな顔をして駆け寄って来る。飛び込んできた小柄な身体をシュユは造作もなく受け止め、きつく抱きしめた。
 二人とも、交わす言葉はない。互いの存在を確かめ合うようにきつく抱き合い、まるで時が止まったかのように、しばらくの間じっとそのままでいた。

「……すまなかった」

 やがてシュユの腕の中から謝罪の言葉が上がる。

「なぜ汝が謝る?」
「だって、あのときオレが冒険しようなんて言わなければ、あんなことにはならなかった」
「汝が謝る必要などない。あれは運が悪かっただけだ」

 その言葉に嘘偽りはない。シュユたちが遭遇した強大な敵の正体は、“朱雀の闇”と呼ばれるものだ。詳細は未だに謎に包まれているが、世界各地にランダムに出現してはファントムを回収しているらしい。一生のうちに一度出会うか出会わないかという遭遇率らしいため、本当に今回のことは運が悪かったとしか言いようがない。

「怪我は完治したのか?」
「オレのほうはそれほどひどくなかったから、もう大丈夫だ。それよりシュユ卿のほうこそ、もう起き上がっても大丈夫なのか? かなり重傷だと聞いていたけど」
「問題ない」

 傷跡そのものは消えていないが、傷口は完全に塞がっており、痛みも感じない。それはルシだからこその回復力であり、普通の人間ならば治るのにもっと膨大な時間がかかっていただろう。
 服を捲ってみせると、エイトはその生々しい傷跡にそっと触れ、さすってくる。

「跡が残ってしまったな」
「元々傷の多い身体だ。少し増えたところで気にしない。それにこれは我の力不足によるものだ。己の無力さを呪うしかない。――我は自分の身も、エイトのことも守ることができなかった。すまない」

 決して慢心になっていたわけではない。持てる力を出し尽くしたし、絶体絶命の状況でも諦めはしなかった。だからこそ敵に打ち勝つことができなかったことが悔しいし、己の無力さを恨めしく思っている。

「シュユ卿は無力なんかじゃない」

 自嘲気味にシュユが呟いた言葉を、エイトは否定した。

「さっき自分で、運が悪かっただけって言ったじゃないか。それにオレはシュユ卿に守ってほしいなんて思わない。自分の身は自分でちゃんと守れるようになる」
「……つまり我は必要ではないということか?」
「そうじゃない。自分の身を自分で守れないようじゃ、シュユ卿も一緒にいて心配だろう? それにこの間の戦闘のときだって、オレのことを時々気にしながら戦っていたから、隙ができてしまったんだろう。そういうふうに足を引っ張るのは嫌なんだ」

 エイトは一呼吸置くと、台詞の続きを紡ぎ出す。

「片方が片方を守るとかじゃなくて、オレはシュユ卿と対等でありたいんだ。そりゃ、ルシと普通の人間の差はあるかもしれないけど、シュユ卿が安心して背中を任せられるようになりたい。シュユ卿が好きだからこそ、そう思っている」
「……こんな愚かなルシでも、まだ愛していると言うのか?」
「こんなとか言わないでくれ。オレにはシュユ卿以外に考えられないんだから。どうしようもないくらい好きで、ずっとそばにいたいと思うよ。でも、そろそろシュユ卿の気持ちを聞かせてほしい。答えがまだ見つからないのならいいけど」
「いや、答えならもう出ている」

 自分の気持ちに確信を持てたいま、答えを伝えることを先延ばしにする意味などない。ただ、どういう言葉を用いてその気持ちを表現すればいいのかわからず、シュユはしばらく沈黙する。
 シュユの知っている言葉の中から台詞を模索している中、唐突に思い出したのは一番初めにエイトに告白されたときのことだ。思いつめたような顔で彼が言い放った台詞は、実にシンプルだった。

「エイトが好きだ」

 あのたった一言だけで心を動かされ、様々な感情を取り戻すに至ったのだ。だからシュユも同じ言葉を選び、エイトに告げた。
 まだ大人になりきれていない成長途中の少年の顔が、驚きの表情に歪んだ。見開かれた瞳からは一粒の涙が零れ落ち、頬に軌跡を描いていく。

「泣くほど嫌なのか?」
「そんなわけないだろう。すごく嬉しいんだ。こんなに嬉しいと思ったことなんて、いままで一度もない」

 次々と溢れ出る涙をシュユは手で拭ってやる。

「本当はずっと不安だったんだ。シュユ卿が本当にオレのこと好きになってくれるか自信なかったし、実は疎ましく思われているんじゃないかって。でもシュユ卿は優しいから、それを言い出せないだけだったらどうしようって思うこともあった。それでもあれだけ一緒にいたらもう離れることもできなくなってしまったし、シュユ卿のいない生活なんて考えられなかった」
「そうだったのか……。長い間不安にさせてすまなかった」
「いいんだ。オレのほうこそいきなりの告白だったし、シュユ卿をずいぶんと困らせてしまっただろうから」

 嬉しそうに笑ったエイトを見て、シュユもまた嬉しくなる。それを表情にすることはまだ上手くできないようだが、自分の中にその感情がちゃんと生まれたことに安堵した。そしていつかは彼の笑顔に笑顔を返せる日が来るといい、とシュユはまだ見えぬ未来に希望を馳せる。

「ありがとう、シュユ卿。オレのことを好きになってくれて」
「礼を言うべきは我のほうだ。汝のおかげで失っていた自分の心をようやく見つけることができた」

 喜び、悲しみ、怒り、そして誰かを愛する心――忘れたくなかった感情の数々を失い、取り戻すことなどとうに諦めていた。そんなシュユにエイトの告白は希望を与え、それを信じた結果がいまこのときだ。

「守る、とは言わない。ただ、汝の支えをなる存在になりたい。汝が安心して心と身体を預けられる、そんな存在に」
「もうなってるよ。そんな人、この世にシュユ卿ただ一人しかいない。もしもシュユ卿が心を病むようなことがあれば、オレが支えになるよ。そうやって支え合いながら生きていきたい」

 気持ちが通じ合うということが、こんなにも嬉しい。愛し、愛される存在がいることが、こんなにも頼もしい。

「シュユ卿、少し屈んでくれないか?」

 あえて理由を聞かずに言うとおりにすると、エイトの両手がシュユの頬に触れてくる。しばらくの間、炎の色をした瞳と見つめ合い、次に瞬きをした瞬間にエイトの唇がシュユの唇に重なった。
 柔らかな感触。そしてそこから流れ込んでくる、大きな愛情。そのすべてを自分の中に受け入れ、シュユもまた同じものを返してやろうと小柄な身体を強く抱きしめる。

「シュユ卿が好きだ」
「エイトが好きだ」

 そして離れた唇が、二人の原点となった台詞を口ずさんだ。




終わり









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