02. わかりたい、触れ合いたい


『恋愛とは、人間が他人に対して抱く情緒的で親密な関係を希求する感情である。また、その感情に基づいた一連の恋慕に満ちた態度や行動を伴うものである。』

 クリスタリウムで借りてきた本は、そんな文章から始まっている。
 一文目はなんとなく理解することができる。情緒的で親密な関係を希求する感情というのは、相手のことをもっと深く知りたいと思ったり、逆に自分のことをもっと知ってもらいたいと思ったりすることを指しているのだろう。そうして互いを理解し合うことにより親密な関係が生まれるという原理はシュユもわかっている。
 しかし、二つ目の文章はさっぱり意味がわからない。恋慕に満ちた態度や行動とはいったい何なのだろうか? どんなに考えてみても答えは出ず、堪らず本を机の上に投げ出した。

「――帰りました」

 まるでそれを見計らったかのようなタイミングで、今日から共に暮らすことになったエイトが帰室した。
 どこかあどけなさの残る顔をした少年の額からは汗が流れ落ちている。仄かに鼻を突く酸っぱい臭いはきっとそれのせいだろう。

「風呂はすでに準備してある。入ってくるがいい」
「シュユ卿はもう入ったのか?」
「いや、まだだ」
「そうか。まだなのか……」

 エイトは拳を握り、親指のあるほうを顎に押し当てて、何かを考えるように目を伏せる。

「その……まだならオレと……オレと一緒に……」

 もごもごと何かを呟く彼の顔は、俄かに赤く染まっている。熱でもあるのかと額に触れれば、小柄な身体がぴくりと跳ね上がった。

「熱はないようだな。どこか具合でも悪いのか?」
「い、いや、ななななんでもない! 風呂に入ってくる!」

 さっきよりも更に赤くなった顔を横にぶんぶんと振って、少年はそれを隠すように風呂場の扉をくぐっていった。
 いまのエイトの慌てぶりはなんだったのだろう? それにさっきはいったい何と言おうとしていたのだろうか? もしかしたら本当は体調が優れないのを、シュユに心配をかけまいとして隠したのかもしれない。

 ――と言うのはどうやら杞憂だったらしい。
 エイトが風呂から上がったタイミングでちょうど夕食が部屋に運び込まれ、それを食べ始めた彼の食欲はとても病人のそれではない。シュユの倍近いスピードで次々と料理を口に運ぶ様子は、まるで早食いの競争でもしているかのようだ。

「よく食べるな」
「そうか? オレのクラスメイトたちはこれくらい普通だぞ」

 素直な感想を口にすると、エイトはさも当たり前というような顔をしてそう答えた。

「シュユ卿はあまり食べないんだな」
「……これが普通だと思うが」

 エイトの食べっぷりは逆にこちらが胃もたれしてしまいそうだ。

 会話もそこそこに食事が終わると、エイトは真面目に自主勉強を始めた。昔の自分もこうやって食事が終われば机に向かっていたな、ともう何百年も前のことを思い出す。
 テキストを睨むように眺めているエイトの顔は真剣そのものだ。時折ペンを置いては握り拳を顎に押し当てるのは、どうやら何か考えるときの癖らしい。他にも何か癖はないかと彼の横顔を眺めていると、炎の色をした瞳がちらりとこちらを向いた。視線が交わった瞬間、険しい表情は一変してなぜか気恥ずかしそうにはにかむ。

「あまりじっと見ないでくれ。集中できない」

 どうやら自分がいては彼の勉強の邪魔になってしまうらしい。何か満たされないような感覚を感じながらも、シュユはエイトのそばから離れることにする。
 この間に風呂に入ることにしたのだが、身体を洗っている間に脱衣所のほうから人の気配がしたのはきっと気のせいだろう。



「もしかして、シュユ卿と一緒に寝るのか?」

 エイトがそう訊ねてきたのは、就寝の時間が迫り、寝室に案内したときのことだった。

「そうだが、何か問題があるか?」

 シュユのベッドは大人の男二人どころか、三人並んでも若干スペースが余しそうなほど大きい。エイトは小柄なため、自分たちが二人で寝ても狭さを感じることはないだろう。

「ベッドはこれ一つしかないし、ソファで寝るのは身体に不具合が出るかもしれない」
「そうだが……。ほら、何か間違いがあるかもしれないじゃないか? 別にオレはそういうことになってもいいと思っているが、少しばかり心の準備ができていない」
「間違い? 何のことだ?」
「あ、いや、なんでもない……」

 シュユから視線を逸らした顔は、なぜだかまた赤くなっている。先ほども風呂に入る前に同じような顔色になったが、その理由がシュユにはまったくわからない。

「どうして赤くなった?」

 わからないまま放置しておくのもなんだかおもしろくないし、そう何度も赤くなられてはやはり理由が気になるのも無理ないだろう。
 触れた頬は少しだけ熱を帯びていたが、決して高い熱を出しているわけではなさそうだ。

「恥ずかしいからだ」
「恥ずかしい? 何が恥ずかしいのだ?」
「一緒に寝ることがだ。好きな人と一緒に寝るのは、嬉しい半面でやっぱり最初は恥ずかしいんだと思う」

 エイトはシュユの手を両手で包み込み、甲をじっと見つめている。

「いつもよりずっと肌が近いし、やはり一緒のベッドにいると先のことを考えてしまうだろう? ……と言っても、シュユ卿にはわからないかもしれないが」
「……すまない」
「あ、いや、責めるつもりはないんだ。ただオレのよこしまな妄想が膨らんでしまうだけだ」
「よこしまな妄想?」
「いつかシュユ卿がオレのことを好きになってくれたら、そのときに話したい」

 それだけ言ってエイトは自分の枕をベッドに投げるや、シュユより先に布団の中に潜り込んでいった。シュユも明かりを消し、エイトと同じベッドに身体を預ける。

「おやすみ、シュユ卿」
「……おやすみ」

 それを最後に互いに何も言葉を発することもなく、シュユは眠りに就こうと瞳を閉じる。
 肌が近い夜――確かにそうかもしれない。手を伸ばせばすぐに届くほど近くで誰かが眠っているなんて、なんだか不思議な感覚だ。シュユとエイト、二人分の体温で布団の中は温まり、まるでぬるま湯に浸かっているかのような心地よさが身体を包み込む。
 そしていよいよ眠りの世界の堕ちようかというときになって、誰かの手がシュユの背中に触れた。いや、誰と言わずともそれがエイトの手であることはわかる。その手はシュユの背中を優しく撫でたあと、今度は頭が背中に押しつけられる感触がした。

「眠れないのか?」
「お、起きていたのか!?」

 声をかけた瞬間にエイトの手と頭は引っ込み、身体をシュユとは反対側に向けてしまった。

「か、勝手に身体に触ってすまない」
「別に構わない。好きなだけ触るがいい。だが、なぜ我の身体を触っていたのだ?」
「……好きな人には触りたくなるものなんだ。その人の体温を感じて、すごく幸せな気持ちになる」

 ただ触るだけでそんな気持ちになるというのがよくわからないが、エイトがそうしたいのならシュユは止めないし、触られることが不快だとも思わない。

「シュユ卿は誰かのことを好きになったことはないのか?」

 唐突な質問に、シュユは少しばかり返答に窮す。
 誰かを好きになったこと――少なくともルシになってからは一瞬も抱いたことのない感情だ。それ以前はどうだったかというと、どんなに思い返してみてもそんな記憶は出てこない。仮に誰かに対して恋愛感情を抱いたことがあったとしても、百年以上前ならばいまはその対象も生きていないだろうし、生きていないということは、当時は人であったシュユの記憶には絶対残っていない。
 それをそのままエイトに伝えると、彼は再びこちらに身体を向けて、シュユからしてみれば小さな手のひらが頬に触れてくる。

「なら、人を好きになるってことがどんなことなのか、オレが教えてやる。と言ってもオレだって恋愛のイロハを理解しているわけじゃない。ただ、シュユ卿が好きだという気持ちは自分でも痛いほどわかっているし、シュユ卿にもわかってほしいんだ。それで最後にはシュユ卿にオレのことを好きになってもらいたい」

 そんなふうに自分の気持ちに正直なところが、そして誰かを愛せる自由な心が、シュユは羨ましいとさえ思った。それと同時に、彼の気持ちにどんな答えも出すことができない自分の縛られた心が申し訳ないと思った。

「汝はいままで他人に対して恋愛感情を抱いたことがあるのか?」
「もちろんあるさ。でもシュユ卿ほど強烈な想いを抱いたことはないな。ちょっと気になるくらいでいつも終わっていく。告白したのだって初めてなんだぞ?」

 顔面が触れ合いそうなほど近くで、エイトは恥ずかしそうな笑みを浮かべる。

「あのときはとても勇気が要った。きっと拒否されるだろうと思っていたし、ルシという崇高な存在に好意を向けるなんてすごくおこがましいことだと思っていたから。でもいまはその勇気を出してよかったと心底思っている。こうしてシュユ卿のそばにいられるのだから。仮にこの先シュユ卿にオレの告白を拒否されるのだとしても、後悔なんてしないと思う」
「……おこがましいなどと思うことはない。汝の心は汝のものであって、何をどう思おうが自由だ。相手の立場がどうであれ、汝がその者に対して愛を抱くのも嫌悪を抱くのも、制限されることなどあってはならないことだ」

 自分のように心をクリスタルという存在に捕らわれ、あらゆる感情を制限されてしまうことなど、人間たちにはあってはならない。制限されることに苦しみを覚えることなど、あってはならない。その苦しみさえもいつかは消えていくのかもしれないが。

「ありがとう、シュユ卿。やはりオレは……あなたが……好き、だ……」

 少年の声が途切れ途切れになったかと思うと、やがてそれは沈黙してしまう。代わりに聞こえ始めたのは小さな寝息で、彼が眠りに落ちたのだとシュユは理解した。

「おやすみ」

 そんなエイトの背中にシュユは手を伸ばし、彼もまた少しずつ眠りの世界へと意識を吸い込まれていく。小柄の少年の身体と、そこに宿る純粋な恋愛感情を腕に抱いたまま――。



続く……









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