03. 笑いたい、笑ってほしい


「待っていたぞ、シュユ」

 用を済ませて帰室したシュユに、誰もいないはずの部屋から誰何がかかった。室内を見回せば、シュユお気に入りのマッサージチェアにどこか浮世離れした雰囲気の女が、生まれたときからそこにいたかのように平然さでふんぞり返っている。

「セツナ……鍵をかけておいたはずなのに、どうやって入った?」
「そこはこう、ちょいちょいっとハッキングしてな」
「ハッキングではない。それはピッキングだ」

 朱雀を守るルシの一人がそんなコソ泥めいたことをしていると知れば、民衆はさぞかし失望することだろう。最もシュユにとってそれはいつものセツナなので、特に疑問を呈すことはなかった。

「何の用があって、また人の部屋に勝手に上がり込んだ?」

 語気を少し荒くしてみるが、セツナはそれをまったく気にしたふうもなく、ゆっくりとした動作で机の上を指差す。

「お前のためを思って……いや、これはあの少年のためになるのか? 二人の関係が前進するようにと、わざわざ我自らクリスタリウムに赴いてお前の教本を探してやったのだ」

 本の表紙は白一色とかなり地味だが、代わりにタイトルがでかでかと記されている。シュユはそれを口に出して読んでみた。

「“男同士のセックスマニュアル”……?」
「お前のことだ。どうせセックスは子孫を残すためだけの行為とでも思っているのだろう?」

 セックスそのものがどういった行為かはシュユも知識として知っているが、セツナの言うとおり、人間が子孫を残すための手段としか認識していない。それ以外にいったいどういった意味合いがあるのか検討もつかないシュユは、セツナの問いに頷いた。

「セックスとは、互いの愛情を確かめ合い、深めるための行為でもあるらしい。詳しいことはいまの我には理解できないが、お前にはもっと理解できないだろう? そもそもセックスのやり方すら知らないだろうと思って、その本を借りてきてやったのだ。お前がこの間借りてきた本と照らし合わせて読めば、きっと役に立つことだろう」

 どこか馬鹿にされたような気がしないでもなかったが、シュユのためを思ってとセツナがしてくれた施しに文句をつける気は起きなかった。

「これ以上のことはもうしてやれない。ルシとして長く生きた我には恋沙汰などあまりにも縁遠い。助けが必要なときは我ではなく、人間に頼ることだな」
「……感謝する」
「感謝などいらぬ。ただ、お前が失った感情を取り戻すことができたら、それは我の希望になる。だから背を押してやりたいと思ったのだ」
「セツナにも取り戻したい感情があるのか?」

 ある、とセツナは頷いた。静かに天井を見上げた瞳には溢れそうなほどの優しさが灯り、雪花石膏のような白い手を虚空に伸ばす。

「我はルシになったことを後悔などしたことはない。だが、お前と同じように、感情を少しずつ失っていくのには嫌悪を感じていたと思う。いまでこそそれを受け入れ、身も心もクリスタルに預けてしまっているがな」

 ルシになって百年余りのシュユに対して、セツナは五百年もの歳月をルシとして生きてきた。言葉のとおり、彼女はいまでこそ模範的なルシになっているものの、いまのシュユと同じ年の頃には同じような理由で苦しむこともあったのかもしれない。

「ルシとはある意味で最も悲しい存在なのかもしれない。だがそんな悲しい存在にも希望があるのだとしたら、それを信じてみたくなるだろう? だから我はお前に希望を託すことにした。――シュユよ、お前が最も失いたくなかった感情を取り戻して来い」
「ああ」


 ◆◆◆


 セツナが借りてきた本はそのタイトルのとおり、男同士での性行為のやり方がわかりやすくイラスト付きで事細かに記されていた。
 記憶が正しければ、相手が男女どちらだろうと性行為の経験がないシュユにとっては、確かに教本になる。しかし、この本もシュユ自身が借りてきた本も、性行為はあくまで終着点であり、互いの想いが通じ合うまでやるべきではないと指摘していた。つまり、いまはまだエイトに対して恋愛感情というものを抱いていないシュユには、その教本が本当に必要になるのはもう少し先の話になるわけだ。
 いや、そもそも本当に自分の中に恋愛感情というものが生まれるのかもわからない。ただ、どうも“愛着”というものはエイトに対して持っているらしく、たとえば寝るときはあの小柄な身体を無意識のうちに抱きしめるようになっていた。
 それはすでに恋愛感情なのかもしれない。だが、そう確信するにはまだ何かが足りないような気がして、結局シュユは自分の心が読めないままだ。

「――帰りました」

 ノックもなしに開いた扉から、赤みがかった茶髪の少年が姿を現した。
 この部屋でともに暮らし始めて一週間の少年――エイトの顔にはどこか元気がない。元々落ち着いた性格をしてはいるが、それを差し引いても今日のエイトはどこかしょげているように見えた。

「何かあったか?」

 え、とエイトは驚いたような顔でシュユを見返す。

「どうして?」
「汝の表情が少し暗いように感じられたからだ」

 夕刻を迎えた空のような色をした瞳が、シュユの瞳をじっと見る。しばらくの間互いに何も言葉を発さぬまま、ただ意味を持たない時間が二人の間を過ぎていく。やがてエイトが小さく笑い、和やかな空気が再び二人を取り巻いた。

「シュユ卿はすごいな。しょげているつもりは全然なかったんだが、表情からそれを読み取るなんてすごい」

 エイトは少し嬉しそうにはにかみながら、シュユの手を握ってくる。

「オレもシュユ卿の感情を読み取れるようになりたい」
「……それはとても難しいだろう」

 シュユは感情が希薄なために表情の変化も乏しく、そこから何かを感じ取るのは至難の業だ――と自覚している。

「聞かせてくれないか? お前が表情を暗くしている理由を」
「……笑わないでくれるか?」
「ああ」

 エイトはしばらく視線を彷徨わせたあと、苦笑しながら話し出す。

「今日、健康診断があったんだ。そのとき身長も測ったんだが、半年前に測ったときとほとんど変わってなかった。同じクラスの他の男子たちはどんどん伸びていっているのに、オレだけ小さいままでショックだった」
「身長が低いことなど、気にすることはないと思うが?」
「シュユ卿は背が高いから、この気持ちはわからないさ。オレなんかクラスの男子の中で一番小さいし、しかも結構差があるんだ。同じものを食べているはずなのに、みんなに追いつけないことがとても悔しい」

 しゅんと項垂れるエイトに、シュユはなんと言葉をかけていいかわからなかった。どうやったら彼は元気を取り戻すのだろう? どうやったら喜ばせることができるのだろう? そう必死に言葉を模索するも、エイトの言うとおり身長の高い部類に入るシュユには低い人間の気持ちなどよくわからない。
高くても得することがないと言ったところで、それはエイトにとって嫌味にしかならないことくらいわかっているし、仕方なく身体の成長に関して自分の持つ知識を吹き込むことにした。

「男は二十五歳くらいまで身長が伸びる可能性があるらしい。十代のうちに低ければ低いほど、二十代になってぐんと伸びる可能性が高いと聞く。もしかしたら汝もいずれは我やクラスメイトたちよりも長身になるかもしれない」
「それは本当か!?」

 暗く淀んでいたエイトの瞳が、一瞬で輝きを取り戻す。

「本当だ。ただ、実例を見てきたわけではないから過信はするな」
「いや、きっと事実に違いない。何せシュユ卿の持っている知識だからな」

 それこそあまり過信してほしくないが、嬉しそうに笑うエイトにそんな言葉は投げかけられなかった。
 笑うと、いつもの凛々しい表情から一変して少しあどけない印象を受ける。いまのシュユにはできない人間らしい表情に少しの間見惚れながら、自分の心になぜか安堵が広がっていくのを感じた。



 エイトが食後に必ずコップ一杯の牛乳を飲んでいることは知っていたが、それが身長を伸ばすためだというのは、先ほどの会話を経て初めて気づいたことだ。
 気づいたところでそれをわざわざ本人に確認する必要はないと判断したシュユは、いつものように無言で目の前の料理を口に運ぶ。対するエイトもシュユと同じく、食事のときは無言でスプーンとフォークを動かす。いや、食事のときに限らず互いに無口な二人の間には沈黙が舞い下りることが多いが、シュユはもちろんのこと、エイトも特にそれを気にした様子はなかった。
 そしてこの日も、何事もなく静かな空気のまま食事が終わるものと思っていた。しかし何気なくシュユが投げかけた言葉が、ちょっとしたハプニングを生むことになってしまう。

「汝は我と性交渉をしたいと思うか?」

 シュユにとっては本当に、ただちょっと気になったことを訊ねてみたにすぎない。たがエイトにとってその話題は“ちょっとしたこと”ではなかったらしく、質問をした瞬間に飲みかけた牛乳を思いっきり噴出した。

「い、いきなり何を……」

 ナプキンで机と自分の口を拭うエイトの顔は真っ赤だ。

「我の質問がそんなにおかしかったか?」
「おかしいって言うか、いきなりだったからびっくりした。どうしていきなりそんなことを訊いてきたんだ?」
「少し気になっただけだ」
「気になっただけって……」

 表情は見る見るうちに険しくなっていく。何も言葉を返して来ないまま、シュユの視線だけが一方的にエイトを見つめ、時間が過ぎていく。
 エイトはしばらくうろうろと視線を動かしたあと、何か観念したように溜息をついた。

「オレだって年頃の男だ。そういうことをしたいと思わなくもない」

 少し声を上擦らせながらも、一句一句噛み締めるように口にする。

「でも、どれだけシュユ卿のことが好きでも、やっぱりシュユ卿がオレのことを好きになってくれない限りはしたくない。身体を繋げることよりも、きっと気持ちを繋げることのほうが重要だとオレは思っているから」

 そこでエイトはようやく表情を緩め、少しだけ微笑んだ。

「シュユ卿はしたいのか? そういうこと」
「わからない。しかし、興味はある。だからもしも我が汝に対して好意を抱く日が来たら、そのときは相手になってほしい」

 ようやくエイトの顔色も落ち着いてきたと思っていたが、いまの台詞で再び一息に赤くなってしまった。

「シュユ卿……そういう台詞は思っていても口にしないでくれ。とても恥ずかしい」
「恥ずかしいのか?」
「ああ。オレはそういう話題には慣れていないから……。でも、さっきのシュユ卿の台詞にはちゃんと答えておくよ。もしもシュユ卿がちゃんとオレのことを好きになって、オレとしたいって言うなら、そのときは喜んでシュユ卿と身体を重ねる」

 恥ずかしそうな笑顔。その笑顔に引き込まれている自分に気づいて、シュユは胸に希望が宿るのを感じた。
 きっと自分は彼のことを好きになることができる。なくしてしまった愛情というものを、取り戻すことができる。
 もしもシュユの中にもっと人間らしい感情が残っていたら、シュユもまた笑顔を浮かべていたかもしれない。



続く……









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