05. 抱きしめたい、渡したくない




(エイト……)

 シュユが茶髪の少年の姿を見つけたのは、ちょっとした用事を済まして自室に戻る途中のことだった。候補生たちの学び舎と、シュユの部屋のある建屋との間の中庭で、エイトは一人ぽつんとベンチに腰かけていた。
 顔を見るのは一週間ぶりのことだろうか。せっかく会えたのだから、少しだけでも話をしてみよう。そう思ってシュユは中庭に足を踏み出すのだが――

「エイト〜!」

 少年の名を叫ぶ誰かの声に、踏み出しかけた足を止めてしまう。
 中庭の奥のほうから背の高い影が躍り出てくる。おそらく声の主は彼なのだろう。短めの金髪をリーゼントのように後ろに撫で付けており、その下の顔はずいぶんと若い。エイトと同い年くらいか、もう少し上くらいだろう。
 金髪の少年は実に嬉しそうな笑みを浮かべながら、無遠慮にエイトの隣に腰を下ろした。

「明日のテスト、わかんないとこあるから教えて〜」
「……ジャックに教えても、ちっとも理解してくれないから拒否する」
「ひっどいな〜。僕だってちゃんとやればできる子なんだから〜」
「ちゃんとできたところを見た記憶がない。――で、どこがわからないんだ?」
「えっとー、全部かな〜?」
「……まったく」

 ――ズキッ

 楽しそうに談笑する二人を眺めながら、シュユは自分の胸からそんな音が聞こえたような気がした。
 焦りにも似た気持ちが身体の奥底から湧き上がってくる。それはやがてどす黒い塊になって、シュユの心を大きく揺さぶった。

(そんなに……楽しそうにするな)

 シュユらしくない言葉が次々と浮かび上がり、胸の内に憎憎しげな声が響き渡る。

(それ以上エイトに近づくな。それ以上エイトに話しかけるな。それ以上――)

 津波のように押し寄せる激しい情動に、シュユは思わず混乱してしまう。なぜ自分がそんなふうに思っているのか? いつもなら見れば安心するエイトの笑顔を、なぜこんなにもいまは見たくないのだろうか?
 いっそあの金髪の少年を力ずくで引き剥がせば楽になるのかもしれない。しかし、それは絶対にやってはならないことだと本能が訴え、シュユは諾々と踏み出しかけた足を引っ込めた。
 これ以上はもう見ていられない。そのうちきっと我慢できなくなってしまう。シュユはすべての情動を飲み込み、中庭を離れることにした。

 自室に帰り、布団の整えられたベッドへと倒れ込む。ひんやりとしたシーツの感触が心地よいが、それでも心は乱れたままだ。

「エイト……」

 胸が苦しい。鼓動はいつもよりずいぶんと速まっていて、それが耳の中で潮騒にも似た音を響かせていた。
 沸々と湧き上がる破壊衝動。それを誤魔化すように枕を強く抱きしめ、小さく唸りのような声を上げる。

 エイトはシュユのことを好きと言ってくれた。それならなぜ、シュユ以外の人間と親しくする必要がある? それともあの告白は気の迷いか何かで、すぐに気移りしてしまうようなものだったのだろうか?

(もしそうだとしたら、我は――)

 自分からエイトが離れていくのを想像すると、どうしようもないくらいの虚無感を抱いてしまう。
 この腕の中の枕がエイトだったら、荒れた心中も穏やかになっただろうか? しかし、無機質な寝具は温もりもなければ柔らかくもなく、虚しさは大きくなるばかりだ。

(会いたい……)

 いますぐ会いに行って、あの小柄な身体を抱きしめたい。しかし、もしもまだあの金髪の少年と談笑していたら、きっと自分の中の何かが壊れてしまう。そんな気がしてシュユは動くことができなかった。

 ――ノックの音がしたのは、シュユが深い溜息をついたときだった。

 ベッドにうずくまっていたシュユは、音がした瞬間に飛び起きる。そして、もしかしたらエイトが来たのかもしれない、という期待を胸いっぱいに膨らませ、出入り口の扉に駆け寄った。

「あ、あの、院長からシュユ卿への文書を預かってきました」

 だが、残念ながら扉の向こうにいたのは、シュユの会いたかった茶髪の少年ではなかった。
 歳の頃はきっとエイトと同じくらいだろう。濃い茶色の髪を肩より少し長めに伸ばし、こちらを見上げる顔は誠実で優しそうな印象を受ける少女だった。ストールのように首に巻いたマントはエイトのと同じ赤色だ。

「……感謝する」

 差し出された手紙を、自分の荒れた感情を悟られぬよう極力優しく掴み取り、シュユは短い礼を告げた。

「はい。では、失礼します」

 礼儀正しく頭を下げた少女は、踵を返して立ち去ろうとする。

『助けが必要なときは我ではなく、人間に頼ることだな』

 そんな少女の背中を見つめながら、シュユは先日セツナに言われた言葉を唐突に思い出した。
 助けが必要なとき――それはいまではないだろうか? 自分ではこの訳のわからぬ情動を理解することができないし、このまま一人思い悩んでいるのも嫌だ。

「待て」

 気づけばシュユは少女を呼び止めていた。自分に何の用があるのだろうかと不思議そうな顔をしている彼女に、シュユは己の頼みを口にする。

「少し我の話を聞いてくれないか?」



 少女の名前はデュースというらしい。シュユの予想どおり、エイトとは同じ0組の学友で、幼い頃からの付き合いだと言う。
 そんな出会ったばかりの少女に、シュユはエイトに告白されたことやともに暮らしていること、そして先ほど中庭で目にしたものと、それから自分の胸の内に生まれた感情のすべてを話した。

「シュユ卿はエイトさんのことがとっても大事なんですね」

 シュユの悩みにデュースは一つの答えを告げる。

「エイトさんのことを大事に思うあまり、嫉妬しちゃってるんです。そう、それは嫉妬ですよ」
「これが嫉妬……」

 嫉妬というものがどういう感情か知らないわけではない。だが、まさか自分がそんな感情を抱くとは思ってもみなかったので、納得すると同時に驚きを禁じ得なかった。

「でも、私にはシュユ卿がどう言った意味でエイトさんのことを大事に思っているのかまではわかりません」
「どういう意味とは?」
「友達として大事に思っているのか、それとも恋人として大事に思っているのか。あるいは別の意味合いなのか。好きという感情にも、いろんな意味合いがありますから」
「違いがわからない……」

 シュユが困ったようにぼやくと、デュースもまた困ったように苦笑する。

「私にもあまりよくわかりません。友達を大事に思う気持ちまではわかるんですが、恋愛的な意味で誰かを好きになったことはないので」

 普通の人間でもよくわからない感情を、果たしてルシである自分が理解できる日が来るのだろうかと少し心配になる。しかし、自分がエイトのことをちゃんと大事に思えていることを確認できただけでも、目の前の少女に相談したことはプラスになった。何よりさっきまで胸の中にとぐろを巻いていた重い感情の正体を知れたことが、シュユにとっては一番の収穫だった。

「クラスでのエイトはどのような感じなんだ?」

 シュユは基本的に自室にいるときのエイトしか知らない。外ではいったいどんな候補生なのだろうかと気になり、訊ねてみる。

「エイトさんは、あまりお喋りは得意じゃないみたいです。でも、とっても優しいところもあるんですよ。それと真面目で、頭がよくて、頼りになる人です。あ、そうだった。エイトさんってクラスで一番足が速いんですよ! それだけじゃなくて、運動全般はエイトさんが一番すごいです!」

 確かにすばしっこそうだと、小柄な少年の姿を思い浮かべながら心中で呟く。

「それからエイトさんは、思い込んだら一途な人だと思います。やると決めたことは最後まで一生懸命に打ち込みますし、絶対に中途半端に放置したりしない。きっとシュユ卿のことも一途に想っていると思いますよ」

 デュースはまるですべての生命の母のような優しい笑みを浮かべ、言葉を紡ぐ。

「だからどうか、エイトさんを幸せにしてあげてください」


 ◆◆◆


 柄にもなくそわそわしている自分に気づいて、シュユは嘆息した。しかし、その興奮は抑えようにもなかなか収まるようなものではなく、視線はちらちらと出入り口の扉へと向いてしまう。
 今日で候補生たちの試験週間は終わりだ。つまり、試験勉強のために本来の自分の部屋へと戻っていたエイトが、ようやくここに帰ってくるというわけだ。
 ノックの音がした。シュユが返事をするよりも先に扉が開き、廊下の明かりをバックに茶髪の少年が姿を現す。
 どこかあどけなさの残る顔を目にした瞬間、シュユの心に温かいものが流れ込んでくる。それは安心感なのか、それとも嬉しさなのか――いや、むしろ両方なのかもしれない。

「おかえり」

 帰ってきたら最初に告げようとずっと思っていたフレーズを口ずさむと、エイトは柔らかく笑んだ。

「ただいま――って、シュユ卿!?」

 小柄な身体を抱きしめると、エイトは少し驚いたように声を上げたが、抵抗はまったくしなかった。
 無機質な枕にはなかった体温が、柔らかい感触が、熱い吐息が、腕の中に感じられる。おずおずと背中に回ってきた手の感触を感じながら、空っぽになりかけていたシュユの心は徐々に満たされていった。



続く……









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