07. 失いたくない、好きでいてほしい




 足の先から徐々に湯に溶け込んでいく。冷えた身体を湯に沈めたシュユはまさにそんな感覚に包まれていた。
 建物の外側に面した壁は一面がガラス張りになっており、彼方まで広がる雪原を眺めることができる。いったいこのガラス一枚を隔てて、どれほどの気温差があるのだろうかと考えると身震いしそうになるが、とりあえず今日はもう外に用はないので、寒さを恐れる必要はない。
 窓ガラスが結露しないのは、おそらく特殊な加工が施されているからだろう。景色がはっきり見えるのはいいことだが、これでは外からこちらが丸見えなのではないかと少し不安になる。

「湯加減はどうだ、シュユ卿?」

 身体を洗い終えたエイトが、浴槽に入ってくる。自分から一緒に風呂に入りたいと誘っておきながら、最初は服を脱ぐことを恥ずかしがっていたエイトだったが、しばらくするとその恥じらいも薄らいだ――あるいは諦めた――のか、いまではすでに堂々としている。

「実に心地いい」

 それこそ先ほどまでいた白銀の世界がまるで別次元の存在だと思えるくらいに。

「ああ〜、本当だな。とても気持ちいい」

 エイトはシュユのすぐ隣に身を沈め、感嘆の息を吐いた。
 浴槽は、エイトが小柄だということを差し引いても十分スペースに余裕がある。壁一面をわざわざガラス張りにしているのも合わせると、おそらくこのホテルの売りの一つにしているのだろう。
 ちなみにホテルの手配や旅行の計画を立てるのはすべてエイトがやってくれた。丸投げしてしまったことを申し訳ないと思いながらも、シュユにはその手のことがさっぱりわからないので仕方がない。

「本当はずっとこうしてシュユ卿と一緒に風呂に入ってみたいと思ってたんだ」

 穏やかな声がいつもより近い距離でそう告げる。

「なぜだ?」
「やっぱり好きな人の身体って興味があるだろ? シュユ卿の身体も見てみたいと思ってたんだ」
「身体を見てどうする?」
「どうするって……興奮する、かもしれない」

 いつもと変わらぬ落ち着いた声でそう言った瞬間、エイトの顔が瞬時に赤くなった。

「いや、いまのは忘れてくれ。少し大胆だったというか、すごく恥ずかしいことを言った気がする」

 何がどう恥ずかしいのかシュユには理解できなかったが、耳まで赤くなっている辺り、よほど恥ずかしかったらしい。視線はどこか頼りなさげに水面を見つめ、背を丸くして小さくなっている。
 それから二人の間には特に会話はなく、静かな空気が時間とともに流れていった。どちらともなく上がろうと言い出したのは、ちょうど一時間ほどが経過した頃だった。
 シュユの目の前で、エイトが自らの身体をタオルで拭く。風呂に入るときは特に気に留めなかったのだが、改めて見ると、小柄で子どものような身体をしているとばかり思っていたエイトのそれは、しっかりと筋肉をまとっている。シュユのような重さを感じさせるようながっちりとした造りではないが、十六歳の少年にしては完成された身体と言ってもいいだろう。
 まだ青年になる途中のどこかあどけなさの残る顔をしているのに、この逞しい身体。そのギャップに意表を突かれる中で、別の感情がシュユの中に浮かび上がる。
 それが何なのか理解する前に、無意識のうちにシュユはエイトの身体に手を伸ばしていた。

「!?」

 指先が肌に触れた瞬間、小柄な身体がぴくりと反応した。いきなりなんだと、驚きと困惑を混ぜたような顔でシュユを仰ぎ見るが、それ以上にシュユのほうが自分のしたことに驚いている。

「きゅ、急にどうしたんだよ、シュユ卿」
「……」

 なんと答えていいかわからず、シュユは沈黙を返す。
 自分でもどうしてそんなことをしたのかわからなかった。ただどうしようもなくエイトの身体に触りたいという感情が湧き上り、身体が勝手に動いていた。

「シュ、シュユ卿?」

 何も言わないシュユにエイトが困ったような表情を向ける。だから手を離さなければと思うのに、本能がそれを赦さない。それどころか小柄な身体を引き寄せ、両手の中に包み込んでしまった。

(何をしてるのだ……)

 生で感じる地肌の温もり。密着した部分が熱を帯びてきて、それが下腹部に集まってくるのがわかる。そして気づけばシュユの性器は最大の硬さと大きさまで膨張し、エイトの腹の辺りに押しつけられていた。
その生理現象がなぜ起こるかくらいはシュユも知っている。ルシとはいえど、身体のつくりは普通の人間となんら変わりない。起床時に下着の擦り切れで勃起しているなんてほぼ毎日のことだし、精通だってきちんとした周期で訪れる。
 だが、いまシュユの股間が硬くなっているのはそんな外部からの刺激が原因ではない。

(興奮……しているのか?)

 自分の中から消えてなくなったとばかり思っていた、性的な欲求。それがエイトの裸を改めて見た瞬間に、爆発的に心の奥底から溢れ出した。
 いつもなら感情が生まれたことに安堵しているところなのだが、この自分の中の火傷しそうなほどに熱い感情をどうしていいのかわからず、自分自身困惑していた。
 硬くなった性器を、本能のままエイトの腹に擦りつける。下を見るとエイトの性器も同じような状態になっていた。

「興奮しているのか?」
「だってシュユ卿がいやらしいことをしてくるから……」

 互いに同じ気持ちになっているのなら、もっと自分のしたいようにしていいのだろうか? これ以上のことをエイトも望んでいるのだろうか?
 わからない。どうすればいいのか、わからない。しかし、このまま全身に漲ってくる情動を放っておけばおかしくなってしまいそうだ。
 シュユはエイトを抱きかかえる。

「シュユ卿!?」

 エイトが驚いたように声を上げるが、シュユは何も言わずに歩き始める。そしてベッドにゆっくりと小柄な身体を下ろし、自分はその上に覆い被さった。

「エイト」

 こちらを見上げた瞳は、まだ事態を飲み込めていない様子だった。

「上手く伝えることはできない。ただ、エイトの身体に触れたいと思った。どうしようもないくらい、興奮してしまった」
「シュユ卿がオレに……?」
「ああ。だからもっと全身でエイトの身体を感じたい」

 そのまま背中の下に腕を潜らせ、体重をかけすぎないように身体を密着させる。勃起したもの同士を重ね合わせ、ゆっくりと腰を動かすとざわっと鳥肌が立つのがわかった。
 気持ちいい。長い間忘れていた快感が急速に蘇って、シュユの理性を奪っていく。
 このまま続けるとどうなるか知っている。きっともっと気持ちよくなって、最後にはこの爆発的に溢れ出す気持ちも、熱くなった身体も落ち着きを取り戻すだろう。

「嫌だっ」

 だが、その快感を伴う行為も長くは続かなかった。
 エイトの鋭い声が耳朶を叩き、シュユは一瞬にして失いかけた理性を取り戻す。

「オレはシュユ卿の気持ちを何も聞いていない。それを聞く前に勢いだけでヤってしまうのは嫌だっ」

 困惑した表情から一変、エイトの顔はいまにも泣き出しそうだった。それがシュユの心に大きな罪悪感を植えつけ、本能のままに行動しようとした自分が急に憎くなる。
 確かに自分にしようとしたことは、恋愛教本に書かれていたあらゆる手順を吹っ飛ばしていた。セックスは互いに心が通じ合ってからするものだとわざわざ太線で記されていて、ちゃんとその手順を守ろうと思っていたはずなのに、何をしているのだろうかと反省する。

「すまない……」

 エイトを傷つけた。エイトを怖がらせた。大事にしていこうと自分の中で約束したはずなのに、その約束をこうも簡単に破ってしまった。
 ひどく申し訳なくて、ひどく情けなくて、いますぐ消えてしまいたいと本気で思ってしまう。

「頭を冷やしてくる……」

 シュユはベッドから下りると、衣類を手早く身に着け、エイトを残して部屋を後にした。
 二重になったロビーの扉を抜ければ、地獄のような寒さが身体を襲ってくる。いますぐにでもホテルの中に戻りたいと思うけれど、そんな甘えを赦すわけにはいかない。
 路上に積もった雪を眺めながら、シュユはさっきのエイトの顔と台詞を思い出す。

(嫌われてしまっただろうか?)

 エイトの意思も確認せずに自分勝手にしようとしたことが恨めしい。あんな顔をさせてしまった以上、彼の中にあったシュユに対する恋愛感情も霧散してしまったかもしれない。
 そう思うとひどい虚無感に苛まれる。いつの日かエイトと彼の同級生が談笑している姿を見たときに感じたものより、ずっと大きなものを。
 シュユがエイトのことを大事に思っていることは間違いない。しかし、それを恋愛感情と確信するにはあと一歩何かが足りなくて、結局彼の欲している答えを口にすることができないままだ。
 ここで歩み寄りつつあった二人の関係が壊れてしまったらどうしようか? エイトに切り捨てられたらどうすればいい? そんな不安ばかりが心の中に生まれ、シュユは思わず頭を抱えたくなる。
 そんなとき、背後の扉が開く音がした。振り返ると、コートまでしっかり着込んだエイトがこちらに向かって歩いてくる。

「外はやっぱり寒いな」

 何と話しかけていいか悩んでいたシュユより先に、エイトが白い息とともに言葉を吐き出した。

「こんなところにいたら、風邪をひいてしまうよ。部屋に戻ろう」
「しかし、我は……」

 まるでさっきのトラブルがなかったかのように、エイトはいつもと変わらぬ笑顔を見せる。

「オレだって本当はシュユ卿とい、いやらしいことしたいと思ってるよ。でも、オレが一番欲しいのはシュユ卿の身体じゃなくて心なんだ。まずは気持ちが通じ合うことから始めたい」

 シュユの右手が、一回りほど小さなエイトの両手に包まれる。握られた瞬間に心地いいほどの温かさが伝わってきて、それを逃さないようシュユもまた柔らかく握り返した。

「好きだからこそ、ちゃんと段階を踏んでいきたい。だからシュユ卿がオレのことどう思っているのか、ちゃんと聞かせて」
「もう少しだけ……もう少しだけ待ってくれないか?」
「うん。いつまでも待ってるよ。それまでオレの気持ちはずっと変わらないから。さっきみたいに喧嘩することもあるのかもしれないけど、オレはシュユ卿をずっと好きでいる」

 その一言だけで、シュユの胸を支配しつつあった不安が溶けていく。
 嫌われていなかった。自分は決して、エイトの中から切り捨てられてなどいなかった。変わらずに好きでいてくれた。
 握った手から伝わる体温とともに、安心感がシュユの身体に流れ込んできて、ホッと胸を撫で下ろした。

「部屋に戻ろう、シュユ卿」
「ああ」



続く……









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