09. 伝えたい、届かない




 肌に伝わってくる、強大な魔力。決して油断はできないと、シュユは己の武器――炎を宿した巨大な斧を強く握り締める。
 敵意と戦意を滲ませた瞳を向けるシュユと、シュユとまったく同じ姿をし、同じような目でシュユを見据える敵。――両者交わす言葉はない。

「はっ!」

 鋭い一声とともにシュユは高く跳躍した。その尋常とは思えぬ跳躍力を前に、偽シュユは無表情に佇んでいる。だが、その手にはシュユとまったく同じ、巨大な斧がいつの間にか出現していた。
 落下のスピードと重さをかけての一閃は、偽シュユの斧に当たって高い金属音を上げる。

「愚かなルシだ」

 冷えきった声が暗い空間に響き渡った。同時に、シュユの身体がおもちゃのように吹っ飛んだ。

「一人の少年に固執するなど、ルシとしての使命から逸脱している」

 偽シュユの姿が文字どおり、掻き消えた。そうかと思えば魔法のような唐突さで、起き上がったシュユの背後に出現し、斧を振り下ろしている。
 シュユはすぐに身を翻すと、斧でそれを防御し、次いで後方に跳躍して間合いを取ろうとするが――

「遅い」

 シュユが着地するよりも早くに偽シュユの一閃が炸裂し、背中から岩肌に叩きつけられた。

「ぐっ……」

 口の中に血の味が広がる。だが、ここで動かなければ殺されてしまう。力を振り絞って身を起こすと、いましもシュユを襲おうとしていた斬撃をぎりぎりのところで避けた。
 次の一振りを斧で防ぎ、それを振り切って相手の内側に入ろうとするが、偽シュユが後方に跳躍するほうがわずかに早かった。

「人と交われば交わるほど、汝は弱くなるだろう」

 あくまで冷静な声は暗闇の中から聞こえた。

「それを理解していて、それでも人とともに生きるなど、愚かと言わずになんと言おう」

 もしも斧を盾にしていなければ、疾風のような一振りにシュユの首は吹き飛んでいただろう。ぶつかり合った二つの凶器は、高い鉄の音を上げるとともに火花を散らした。

「そこの小僧になんの価値があるという」

 強い力で押し切ろうとする偽シュユは、シュユには決してつくることのできない“微笑み”を浮かべる。だが、そこにエイトや他の人間たちに感じる温かさはない。滲み出るのは底意地の悪さと底知れぬ悪意だ。

「汝には言っても理解できないだろう」
「ふん。違いない」

 シュユは半身を捻って偽シュユの斧を躱すと、その内側に入って武器を旋回させる。だが、あと少しで刃が届くというところで相手が跳躍。それを追ってすぐに高く跳ぶと、空中で攻撃を繰り出した。
 連続して斧を振るうも、すべて正確に弾かれる。
着地した瞬間、偽シュユの薙ぎ払いが襲ってくるが、それを屈んで避け、シュユもまた強力な一撃でやり返した。

「朱雀のすべての民とあの少年一人の命、この二つのどちらか一つを選択しなければならないとき、汝はどちらを選ぶのだろうな?」

 嘲笑混じりの台詞を聞き流しながら、シュユはどうすれば敵を倒せるか考える。

「少年一人の命を助け、己の欲望を満たすか、あるいは少年を捨ててルシとしての使命を全うするか――非常に興味深い」

 真っ向から跳び込んでくる偽シュユ――シュユはその動きをしっかりと見極め、正確に攻撃を弾き返した。それで態勢を崩したところに更に一撃くらわせると、偽シュユの肩口から鮮血が飛び散った。

「くっ……」

 背中から地面に叩きつけられた巨漢が小さく呻く。
 ここですぐに攻撃を叩き込んでいれば、確実に相手の息の根を止めることができただろう。しかしシュユは一瞬だけ背後で戦うエイトの様子が気になり、その足を止めてしまった。

 ――その一瞬がすべてを決めた。

 斧をきつく握り締め、再び駆け出したときには呻く偽シュユの姿はない。先程の一瞬で態勢を立て直したらしく、禍々しい気配はシュユから離れたところに佇んでいる。

「他人の心配をする暇など汝にはないはずだ」

 再び偽シュユの姿が掻き消える。その亜音速に迫るスピードは、普通の人間の動体視力では補足することなどできないだろう。
 シュユはこちらに迫りくる気配に全神経を集中させ、それが間接距離に入ったところで斧を旋回させた。
 重い衝撃が刃を通してシュユの腕に伝わり、一瞬だけ斧を手放しそうになる。そして、またしてもその一瞬がすべてを決めた。
 下から掬い上げるようにして振り上げられた斧が、シュユの斧を弾き飛ばした。手から離れてしまった己の武器を追ってシュユはすぐに跳躍するが、それを偽シュユが見逃すはずがない。悪意をまとった影はあっという間に間接距離に入ってきて、斧を旋回させる。
 鮮血が飛び散ると同時に、シュユの左胸に鋭い痛みが走った。

「ぐっ……」

 バランスを失って地面に落下し、そこでシュユは傷口を押さえる。

「終わりだな、朱雀のルシよ」

 氷柱さえ彷彿とさせる冷たい声が、シュユに死の宣告を与える。

「だが、まずはあの小僧を殺して汝の反応を楽しむのもいいかもしれない」

 その一言が、もう立ち上がれないと思いかけていたシュユに再び闘志を宿らせた。同時に膨大な怒りが心の奥底から湧き上り、シュユに我を忘れさせる。
 気がついたときには身体を起こして、武器も持たずに偽シュユに跳びかかろうとしていた。

「愚かな」

 巨大な斧は容赦なく振り下ろされた。我を忘れ、無防備なままに突っ込んだシュユにこの攻撃は防げまい。案の定、次の瞬間には漆黒の刃はシュユの身体に刻み込まれていた。

「っ!」

 激痛にシュユの口から奇声が零れる。今度こそ立ち上がることのできないほどのダメージを負い、シュユはその場にくずおれた。

「今度こそ終わりだな。汝も、あの小僧も」

 淡々と真実を告げる偽シュユの瞳には禍々しい感情が渦巻いている。
 もうシュユには動く気力も体力も残っていない。胸と肩に負った傷は思っていたよりも深いらしく、血とともに生気も流れ出ていく。頼みの武器もおおよそ手の届かぬところに転がっており、状況はまさに絶体絶命の危機だ。

(もうどうすることもできないのか……?)

 永遠の時を生きるルシが直面することのない、死の予感。それをひしひしと感じる中、思い浮かんだのは一人の少年の顔だった。
 彼はシュユを愛していると言ってくれた。ルシになることで失ってしまった、ありとあらゆる感情を取り戻してくれた。楽しい時を与えてくれた。心から繋がりたいと言ってくれた。
 それに対してシュユはまだ何も返せていない。告白の返事も保留のままにしている。

(エイト……)

 彼が見せてくれた表情、投げかけてくれた言葉、抱きしめた肌の温もり。そのすべてが唐突に甦る。
 もう、彼に触れることはできないのだろうか? もう、言葉を交わすことはできないのだろうか? もう、どこかあどけなさの残る笑顔を見ることはできないのだろうか?
 そこでシュユはふと気づく。眼前に死が迫る中、本来なら何より朱雀の行く末を案じなければならないはずの自分が、たった一人の少年のことしか考えていない、ということに。

(そうか……これが愛)

 なくしてしまった最後の一ピースが見つかり、作りかけていたパズルが完成する。まさにそんな感覚がした。

(我は、エイトを愛しているのか)

 早くこの気持ちをエイトに伝えたい。しかし、口も身体も動かすことができず、シュユの想いは暗闇に溶けていく。
 偽シュユは斧を高々と掲げた。奇跡でも起きない限り、ここでシュユが助かる可能性はないだろう。

 ――そして奇跡は、何の前触れもなく訪れる。

 一本の光の筋がどこからともなく出現し、偽シュユの身体を貫いた。逞しい身体がくの字に曲がり、いまにも振り下ろそうとしていた斧を取り落す。
 シュユはその隙を見逃さなかった。残るすべての力を使ってなんとか立ち上がり、拾った斧を大きく振りかぶる。スローモーションのような緩慢な動きだったが、先ほどの光の筋は相当なダメージを与えたらしく、偽シュユはシュユの渾身の一撃を避けることができなかった。
 刃が身体に飲み込まれた瞬間、偽シュユの口から獣の咆哮のような奇声が上がり、周囲の闇を震わせる。そしてその闇は徐々に光へと塗り替えられていき、ついには目を開けていられないほどの輝きに包まれた。
 その光が急速に静まっていった後、先ほどまで周囲を支配していた闇も、底知れぬ悪意をまとった気配も嘘のように消え去っていた。あるのは一人立ち尽くすシュユと――地面に横たわった少年の姿だけだった。

「エイト!」

 急いで少年の元に駆け寄ろうとしたシュユだったが、あと一歩で彼に触れられるというところで地面に倒れ込んだ。
 肩口から腕を伝って落ちる、真っ赤な血。胸からの出血もひどく、傷口が強烈に痛い。
 なんだか身体が寒い。流れ出る血とともに体温まで地面に吸い取られているような、そんな感覚に襲われる。
 せめて人肌の温もりを感じたいと、シュユは地面を必死に這いながら、倒れて動かない少年へと手を伸ばす。しかし、あとほんの数センチでその手が届こうかというところで、シュユの意識は閉ざされてしまった。




続く……









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