01. 受け入れたい、わからない


「シュユ卿が好きだ」

 本棚を整理していた少年が、突然思いつめたような顔でそう言い放った。
 言われたほうのシュユは、言葉の意味が理解できずにただ彼の顔を見返す。

「一目惚れだったんだ。この間初めて会ったときにすごく好きになって、それからいつもあなたのことを考えるようになってしまった。あなたと、その……交際したい」

 二言目を聞いてようやくそれが愛の告白なのだと理解する。理解できたからと言ってそれになんと答えていいのかわからず、言葉の変わりに沈黙を返す形になってしまった。
 
 シュユが持つあらゆる感情の中で最も忘れたくなかったのが“愛”だった。しかし皮肉にもルシになってから最初に薄れていったのはその“愛”で、それから次々と人間らしい部分が消えていった。
 いまや空っぽに近い状態になってしまった自分の心の中に、少年の告白が舞い下りてくる。ゆっくりと深部に触れた瞬間、そこから小波が立って何かをシュユの心全体に伝えてくる。
 最初に感じ取ったのは“驚き”だ。姿かたちは同じであれ、人間たちがルシに向けてくるのは尊敬と信仰、そして畏怖だけであって、愛情を向けてくることなどなかった。シュユもそれが当たり前のことだと思っている部分があったので、少年の告白には素直に驚いた。
 次に感じ取ったのは“希望”だった。少年の告白を受けて心に“驚き”が生まれたように、彼と一緒にいればもっといろんな感情が生まれてくるかもしれない。そしてシュユが最も失いたくなかった“愛”を取り戻すこともできるかもしれない。

「ここで共に暮らすか?」

 長い沈黙の末にシュユが口にした台詞はそれだった。

「そ、それはオレの告白を受け入れてくれるということか?」
「……違う。俺はお前のことを、朱雀の候補生であるということ以外何も知らない。だから一緒に住んで、お前のことを知りたいと思う」

 恋愛手順書なるものがあれば、きっといまのシュユの提案はその手順のあらゆる過程をすっ飛ばしていたことだろう。もちろんシュユ本人はそれに気づかないし、むしろ手っ取り早くてちょうどいいなどと思っているが。

「お前の気持ちを受け入れるかどうかは、それからでいいか?」
「オレは構わない」

 少年は安堵したかのように少し表情を和らげる。

「今日からさっそく住んでいいのか?」
「ああ」
「なら、荷物を取ってくる」
「待て」

 颯爽と部屋を出て行こうとした少年をシュユは引き止めた。

「お前の名前をまだ聞いていない」
「オレは……オレは0組のエイトだ」

 名乗ると同時に浮かべた笑顔は、まだどこかあどけない。その人間らしい表情にしばし見惚れながら、シュユは心の中で彼の名前を復唱した。



 エイトとの出会いは一時間前に遡る。
 正確にはもっと前に顔を合わせたことがあるらしいが、生憎とそのときのことをシュユは覚えていない。エイトの話によると、任務中に強大なモンスターと遭遇し、ピンチに陥っていたところをシュユに助けられたらしい。確かにそんなこともあったような気がするが、そこにあの茶髪の少年がいたことまではやはり思い出せなかった。

「あのときの礼をしたい」

 彼がシュユの自室まで赴き、そう申し出たのがつい一時間前の話で、シュユにとってはこれがエイトとの初対面となった。

「礼など必要ない。我はクリスタルの意思に従っただけだ」
「それでもオレは、あなたに礼をしたいんだ。そうだ、部屋の掃除をさせてくれないか?」

 シュユの部屋には多すぎる書物が溢れかえっている。いつかきちんと整理しないといけない、と思いながらも結局放置しっぱなしで、今更手をつけようとは思えないほどの状態になってしまっていた。

「……わかった。では、頼む」

 どうせこの先も誰かがやらねばこの状態のままだろう。ならば彼にやらせてみるのもいいかもしれない。
 そうしてエイトを部屋の中に入れ、一時間後に先ほどの場面が展開されるわけである。



「今日からよろしくお願いします」
「ああ」

 候補生寮からシュユの部屋に荷物を運び終えたエイトが頭を下げた。

「部屋にあるものは好きに使って構わない。書物も好きに読んでいい。トイレはあちらで、風呂はこちらだ」
「部屋に風呂が付いているのか?」
「以前は候補生の共同風呂を使っていたが、我が入るたびに騒ぎになった。だから部屋に設置してもらった」
「確かにシュユ卿が共同風呂に現れたら、みんな慌てるだろう」

 シュユの入室に慌てふためく候補生たちの姿を思い浮かべたのだろうか、エイトはおもしろそうに笑った。
 それから部屋の説明や食事の時間など、ここで生活をするのに必要な情報を一通り教え終わると、エイトは鍛錬に行くと言って部屋を出た。残されたシュユは読書でもしようかと本棚に向かいかけたのだが、ふと用事が浮かんで、エイトが出て行ったばかりの部屋の入口をくぐる。
 十分ほどして戻ってきたシュユの手にあったのは、「正しい恋愛のすすめ」と記された、桃色のカバーの本だった。

“愛”という感情を忘れたシュユには、エイトが自分に向けてくる“恋愛感情”というものがよくわからない。それが理解できなければ“愛”を取り戻すことなどできないだろうし、エイトの告白に対する返事もできないままになってしまうだろう。だからとりあえず彼の“恋愛感情”がいかなるものなのかを知ろうと、それらしい教本を借りてきたのである。
 それにしても、先ほど貸し出しカードを差し出したときの図書委員の顔はなんだったのだろうか? いつもはルシであるシュユを目の前にしても冷静に己の職務を全うしているのに、さっきは貸し出しカードと本を見た途端にひどく動揺していた――というか、驚いていた。何かおかしなことでもしただろうか?
 まあ、そんなことはどうでもいいが。とりあえずこれを読んでみることにしよう。そう思って表紙を開きかけた瞬間、出入り口のドアがノックもなしに開かれた。

「セツナ……?」

 挨拶もなく無遠慮に上がってきたのは、どこか浮世離れした雰囲気の女だった。

「正しい……恋愛のすすめ……ぶふっ」

 セツナ――シュユとともに朱雀を守るルシの片割れは、シュユの読もうとしていた本のタイトルを口にすると同時に、なぜか笑う。いや、表情には何の変化もなかったのだが、シュユにはその年齢不詳な顔が笑ったように――もっと言うならば嘲笑を浮かべたように思えた。

「……何がおかしい?」
「変わった本を借りていったとは噂に聞いたが、まさかそのような本を借りているとは……似合わないことをしてくれるなよ」

 セツナは勝手にシュユのマッサージチェアに腰かけると、慣れた手つきでリモコンを弄り始める。

「用は我が借りた本が何であるか確かめるだけか? ならば帰れ」
「いや、どういった理由でお前が人と交わろうと思ったのか知りたくてな」

 おそらくエイトと同居することについて言っているのだろう。滅多に姿を現さないセツナがわざわざシュユの部屋まで出向くにはいささか小さな用だとも思えたが、彼女の意図が掴めないのはいつものことである。

「エイトと共に暮らすのはただの気まぐれだ。それ以外の何物でもない」

 投げかけられた疑問に答えを与えてやると、セツナは少し意外そうな声を上げる。

「気まぐれ、か。お前もまだ、人らしい部分が残っているのだな」
「何が言いたい?」
「クリスタルはルシの頭の中に人間との境界線を引かせるのだ。我らと人間とは異なるもの同士であって、交わるべきものではない、と。だがそれはルシになってすぐに表れるものではない。我のように長く生きているうちに、心に少しずつ刻まれるのだ」

 台詞はルシの年長者らしい内容だが、マッサージチェアに身体を預けている様子にそれらしい威厳はない。だからと言ってシュユはそれを指摘したりしないが。

「お前は気まぐれであれ、人と交わりたいと思った。つまり、お前の中にはまだクリスタルの意思の及ばぬ部分――人らしい部分が残っているということだ。それが少し羨ましいと、我は思った」
「……愚痴なら壁にでも話していろ」
「その手もなくはなかったが、お前のほうが壁よりも二割くらいおもしろい」

 実はセツナと会話をするのは久しぶりのことなのだが、皮肉を更なる皮肉で返してくる辺り、口の悪さはぶれていないようだ。

「人と交わることが悪いことだとは言わない」

 表情の変化はないが、セツナの声にわずかに硬い響きがこもる。

「だが、ルシである我らは死者の記憶を失わない。交わりすぎれば、失ったときに大きな悲しみを背負うことになるぞ」
「……悲しみなど、とうの昔に忘れた」
「我はそうかもしれない。だが、お前はそうとも言えぬだろう? 先にも言ったように、お前には人らしい部分が残っている。悲しむ場面に遭遇しないだけで、きっと悲しみという感情はお前の中に残っているだろう」
「だから、エイトと交わることをやめろ、と?」
「そうは言っていない。あの少年と交わるのなら、それ相当の覚悟をしておけと言いたかったのだ」

 確かにセツナの言葉は否定できない。エイトに告白されたとき、シュユの中には失ったとばかり思っていた戸惑いや驚きという感情が湧き上がった。それと同じように、悲しみも胸の奥に眠っているのかもしれない。

「人は脆い。そしてあまりに早く老いて死ぬ。交われば交わるほど、そのときが訪れたときの悲しみもまた大きくなるだろう。それに耐えうる強い心を持っているのならいいが、昔の我のように塞ぎこんでしまうなよ」
「経験があるのか?」
「まあ、な。あのときのことはいまでもなお鮮明に思い出せる。思い出したところでもう悲しくはならないがな。我の中からはそんなもの、とうの昔に消えてしまったようだ」

 言いたいことを言い終えたのか、マッサージチェアから立ち上がると、セツナはシュユには目を向けずに出入り口に歩いていく。

「まあ、好きにするがよい。我にも、そしてクリスタルにも、お前の気まぐれを止める義務も権利もないのだから」



続く……









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