01. これ、世界地図ですよ

 巨大な入道雲が浮かぶ空、夏の陽射しは容赦なくラバナスタの人々に照りつける。地面の輻射熱ふくしゃねつのせいもあって気温は四十度をゆうに越えている。
 一仕事終えたレックスは、出店のひさしの影で休んでいた。
 人がひしめき合うバザーは広いラバナスタの中でも最も気温が高いところだろう。ただ歩くだけでも暑さで気を失いそうになるのに、ここの人々は忙しく働いている。

「はあ……」

 持ってきた水筒の水を一口飲み、レックスは立ち上がった。自宅までは影続きだからさして苦労はしない。夏の空を一つ見上げて歩き出す。――人にぶつかったのはそのときだった。

「――すまない。前をよく見ていなかった」

 よろめいたレックスをぶつかった相手の腕が支える。謝罪する声は低い男の声だった。

「いえ。俺がいきなり歩き出したのが悪いんで――」

 愛想笑いを浮かべて見上げたレックスは、その表情のまま硬直した。
 レックスより少し高い位置にある相手の顔は、ラバナスタではめったに見かけぬ白っぽい色をしていた。こちらを見下ろしている顔は驚くべきほど端整で、一度ひとたび街を出歩かせれば誰もが振り返るに違いない。
 陽の光を受けてきらめく髪は銀色、その容姿はまさに美を絵に描いたようなものだった。それを見ていると自分の容姿が恥ずかしく思えてくる。

「本当に大丈夫かい? すごい汗だけど」
「だ、大丈夫です! 俺、暑さには慣れてるんで」

 美男子のほうはくそ暑い真夏だというのに汗一滴掻いていない。身体の露出度はレックスよりも低いのに……。

「ああ、ぶつかったついでに道を訊ねたいのだけど、いいかい?」
「は、はい」

 銀髪の美男子はふわりと微笑むと、手に握られていた地図を広げた。
 ラバナスタの地理ならば地元の人しか知らぬ裏道さえも暗記している。道案内など簡単なものだ。

「ラバナスタに来るのは初めてでね。地理がまったく分からなくて困ったよ。ここはこの地図のどの辺りになるのかな?」
「えっと、ここはですね……あれ?」

 美男子の隣に並んで地図を見た瞬間、レックスの口から短い疑問符が零れた。苦笑を浮かべて少し高い位置にある端整な顔立ちを見上げる。

「……これ、世界地図ですよ」
「おや? そうなのかい? それは、知らなかった」

 一見して知的に見える美男子は、己の莫迦ばかさを晒して微笑む。
 しっかりとした教育を受けられなかったレックスでさえ世界地図と地域の地図の違いくらい分かるというのに、この男はなんだろう……。よほどの田舎者か、あるいは脳に何かしら障害を持っているのかもしれない。まあ、その辺は容姿の美しさでフォローできる範囲だ。

「どこを目指してるんですか?」
「王宮。あるお方と大事な約束があるんだ」

 ラバナスタ王宮はダルマスカ王家の住まい。一般人はもちろんのこと、大のつく貴族ですら近寄ることを許されぬ聖域である。そんなところにこの知能の低い男が何の用だろう? 

「あの、王宮に何かあるんですか? あそこは、普通の人は近づけないんですよ」

 すると美男子はあっけらかんという顔をしてズボンのポケットから小さな紙切れを取り出した。見たことのない絵柄が記された紙をレックスに見せつけて、美男子は穏和に微笑む。

「ナブラディア王の調印。いろいろ頼まれてね」

 ナブラディア王の調印――それはレックスのような一般市民が目にかけることすらできぬ代物である。それを持っているということは、彼はナブラディア王の臣下おきにいりなのだろう。すなわち彼はレックスのような一般市民とはかけ離れた地位にいる人間。そんな人間を密かに莫迦にしていたことを心中で謝罪した。

「あの、案内しましょうか?」
「本当かい? それはとても助かる。私はとんでもない方向音痴だから」

 美しい微笑みを浮かべる銀髪の男は、白い右手を差し出した。

「君の名前は?」
「レックス……レックスです」

 レックスは差し出された手を握る。――包み込むような優しさが、熱を帯びてレックスの右手に伝わってきたような気がした。

「私はラスラ。よろしく、レックス」


 ◆◆◆


「遅かったね、兄さん」

 帰宅早々、レックスに擦り寄ってくるのは弟のヴァンである。もう十五歳だというのに兄にくっつきたがるのは、両親を亡くして二人で生きてきた時間が長かったせいだろうか。――あるいはレックスが甘やかしすぎたせいかもしれない。

「道案内してて遅くなっちゃった。飯は?」
「パンネロのところで食ってきたよ。兄さんの分は台所に置いてある。お風呂の準備、ちゃんとしておいたから」
「そっか。じゃあ、先にお風呂入ってくる」
「オレも一緒に入る〜♪」
「だーめ。十五歳なんだから一人で入れるだろ?」

 ケチ、と小さく呟いたヴァンは面白くなさそうな顔をして去っていく。だが、隣の部屋へのドアノブを握ったとき、思い出したように振り返って、

「道案内してあげた人ってどんな人だった?」
「……どうしてそんなこと訊くんだ?」
「だって、気になるもん」

 外での出会いを聞かれたのは何もこれが初めてではない。先日もバザーの道具屋の荷物運びを手伝った、と言ったときにヴァンは「それ、どんな人だった?」としつこく聞いてきたのである。その前も同じようなことが幾度か……。正体の知れぬ人間に接している兄の身を案じているのか、それともレックスに接している者への嫉妬しっとなのか分からないが、ヴァンはその正体の知れぬ相手が気になって仕方がないらしい。

「……綺麗な人、だったかな」

 ラバナスタ王宮への道を訊ねてきた銀髪の美男子の顔が頭に浮かぶ。その容姿の美しさはまさに神が生み出した賜物たまもの。道行く人々の注目を集めていたのをよく覚えている。もしも彼が婚約者を求めたら、世界中の女性が駆けつけそうな、それほどまでに美しい。道案内のために隣を歩くことが罪であるような気さえした。

「女の人?」
「いや、男の人だよ。王子みたいな人だった」
「兄さん、その人に何もされなかった?」
「は?」

 ヴァンは真剣さと心配を入り混ぜた視線を向けている。

「……何されるっていうんだよ、俺が」
「何って。人には言えないあんなことやこんなこと……オレ毎日心配してるんだぜ。兄さんが誰かに襲われやしないかって」
「……莫迦」

 心配してくれるのは嬉しいが、弟のそれは少し過剰すぎる気がする。レックスは身をひるがえし、風呂場に向かって歩き出した。

「あ! そうだ、兄さん!」

 またいらぬことを言われる前に脱衣所のドアを後ろ手に閉め、ちゃっちゃと服を脱ぐ。下着を脱いだあとに念のためドアの鍵を閉めて何者も侵入できぬ状態にしてから風呂場の暖簾のれんを上げた。

「――わ! レックス!」
「へ?」

 狭い風呂場に響き渡った男の声は、施錠されたドアの向こうにいるヴァンのものではない。一瞬ビクッとなって暖簾を掴み、恐る恐る浴槽に視線を転じた。




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