05. 二人きりの今日

 ダウンタウンに月の光はない。だが、昼夜の明るさの違いだけははっきりとしている。昼は薄暗く、そして夜は真っ暗。そんな世界で生きている誰もがいつかは上に住みたいと思っているだろう。
 レックスはベッドの上で静かな寝息を立てているラスラの頭を撫でる。暗がりに浮かぶ白い顔は、天使のように美しい。
 ラスラは頑として床で寝ることを譲らなかった。迷惑をかけているのは自分だから、とベッドで寝ることを遠慮していたのである。しかし、一国の王子を床に寝させるのは失礼まかりかねると思ったレックスもまた一歩として譲らなかった。最終的には押し倒すような勢いでラスラをベッドに横にさせ、自分は床に陣取って今に至るわけである。

(はあ……眠れない)

 王子をベッドで寝させることに成功したはいいが、今度は自分がなかなか寝つけない。激しい動悸がレックスの睡眠を妨げていた。

(なんだって俺、こんなドキドキしてるんだろ……)

 その答えを本当は知っている。彼が――ラスラが自分のすぐそばで眠っているから。自分とはかけ離れた地位にいる人間が触れられるほど近くにいるから。そう、それだけ。
 無理やり自分に言い聞かせて、レックスはまた床に戻る。これ以上、彼に対する自分の感情を追求するのは、自分のためによくない。僅かに芽生えた感情を押し殺すように目を閉じた。

(……でも、眠れない)

 目を閉じれば背中の向こうにある彼の存在を意識してしまう。そして頭に浮かぶ彼のあの優しい微笑み――見る者を安心させるあれは、彼の様々な表情の中で最も印象深い。

(あーもう、明日仕事だっていうのに。コッカトリスが一羽、コッカトリスが二羽、コッカトリスが三羽、コッカトリスが九羽、コッカトリスが六十一羽、そうかと思えばニワトリスが百二十九羽――)



「――仕事行ってきます」

 行ってらっしゃい、と見送ってくれる人がいつもより一人多い。黒いタンクトップを着たラスラがヴァンの隣に並んで微笑んでいる。胸元が僅かに見えているのに気づかないふりをして、レックスはヴァンに目をやった。

「ヴァン、洗濯とその他もろもろのことやっといてくれよ」
「分かってるよ。いつもやってるじゃん」

 仕事を持たないヴァンには家事のほとんどをやらせている。それくらいはやってもらわなければ、毎日汗水流して働いているレックスの身がもたない。
 寝不足でだるい身体を引きずって、レックスは仕事場へ向かった。



 少年はちょこちょこと家の中を歩き回っている。洗った皿を食器棚にしまったり、部屋の掃除をしたり、こちらの存在には一切触れずにせっせと家事をこなしていた。

「ヴァン、やっぱり私も何か手伝うよ」

 このままこうして彼の様子を眺めているのは楽すぎて罪な気がする。そう思って言ったのだが、少年は頑なに首を横に振った。

「ラスラはじっとしてろよ。お客なんだからさ」

 視線は動かさず、ただ口だけで答えてヴァンはまた掃除に打ち込んだ。

「それは悪い。レックスも君も私をお客だって言うけど、実際居候させてもらってるのは私なんだから」
「兄さんがさ、あんたは大事な客で、絶対失礼がないようにって昨日言ってた」
「でも……」

 いいんだよ、とヴァンはこの日初めてこちらに視線を向けたが、目が合った瞬間にすぐまた元に戻されてしまう。
 この反応は決してこれが初めてというわけではない。昨日も何度か同じように、目が合った瞬間に逸らされるということがあった。それはおそらく人見知りによるものだろうと推測がつく。幼い頃からヴァンは人に接する機会がなく、十五になった今も家にこもりがちらしい。人見知りする条件はそろっているというわけだ。
 あるいは同性に対する恋愛的な感受性が高いのかもしれない。王宮の外の世界にあまり出たことのないラスラにもその手のことはよく分かる。――自分もそうだから。
 ラスラは昔から異性に興味を持てなかった。視線の先にいるのは男ばかり……恋愛的な感受性が高いというより、同性愛者そのものと言ってもいいだろう。政略結婚に迷いを生んだ原因の一つがそれである。

「あ、あのさ」
「ん?」

 珍しく自分から話しかけてきたヴァンに視線を向けるが、やはりヴァンのそれと交わることはなかった。頬を赤く染めて俯いたまま、どことなく緊張したような声で訊ねてくる。

「ラスラってどこの人? 昨日結構いい服着てたから、上の人?」

 ダウンタウンに住む市民と言い張るには、昨日のラスラの服は品がありすぎる。上の人、と言うにも品のよさが目立つが、それより更に上の人間であるという事実だけは教えられない。
 曖昧に首肯すると、ヴァンはそっか、とこちらの嘘には気づく様子もなくそばの椅子に腰掛ける。

「上の人にしてもあんた、白すぎ。外とかあんま出ないだろ?」
「うん、まあ」

 ラバナスタの人々に比べると確かにラスラの肌は白すぎるかもしれない。普段はあまり外を出歩くことがないし、出歩くにしても日焼けするほど長い時間外にいることはなかった。

「そういうヴァンは、外に行ったりしないのかい? 家事で手一杯だったみたいだけど」
「ああ、あとで外に出るよ。洗濯物干しに上がらないと」

 ダウンタウンは地下の街。日光がまったく入らないここの住民は、洗濯物を干すのにわざわざ地上にでなければならない。いっそどこかに吹き抜けの空間を造るべきだろう、とラスラは思う。

「あのさ、客なのに悪いけど、洗濯物持って上がるの手伝ってくれない? 量が多くて一人じゃ無理なんだけど」
「いいよ」

 客というが、実際は自分が居候しているようなもの。そのぐらいの仕事は手伝うのが当然だ。


 ◆◆◆


 ラバナスタの街には、今日も容赦のない陽射しが照りつける。湿気と暖気をはらんだ風はなんとも心地悪い。
 洗濯物を一通り干し終えたラスラとヴァンは、広場の噴水の縁に腰掛ける。

「しかし、暑いなあここは」

 北の国ナブラディアの夏は肌にすがしい。それに慣れてしまったラスラにとって、ダルマスカの肌に暑さがまとわりつく夏は過酷だった。上からの太陽光線と下からの地熱……全身を焼くような暑さには参る。

「ダルマスカの人はこんなんでよく生きていられる」
「へ? あんたもダルマスカの人だろ?」

 人見知りらしいヴァンだが、慣れると積極的に話しかけてくるようになったし、視線が合ってすぐに逸らされることも徐々になくなってきている。時々見せる笑顔や何気ない仕草は兄のレックスによく似ていた。

「出身はナブラディアなんだ。今は……そう、親戚のうちに泊まりにきているところ」

 それは一見虚言のようで、実は紛れもない事実である。ダルマスカ王家はナブラディア王家の親戚、身分さえ明らかにしないものの、嘘をついたことにはならない。

「あ、そうだ。一度親戚のうちに帰らないと。昨日、黙って出てしまったから」
「……まさか兄さんと駆け落ち?」
「う〜ん、そんなところかな」

 冗談であることを示すように微笑んだが、ヴァンはすでに突き刺さるような鋭い視線をこちらに向けている。

「俺、そんなの認めないからな」

 ヴァンの、兄に対するスタンスは普通の兄弟のそれとは違うらしい。レックスを兄としてではなく一人の男として認知しているように、ラスラの目には映っていた。たがそれは、彼らの二人で過ごした時間が長かったせい、というのもある。両親を亡くして二年、短いようで長い二年は二人の距離を急速に縮めたに違いない。

「じゃあ、行ってくる。レックスに伝えておいて」

 帰りたくないところに帰るというのは、なんとも気分が重たいものである。それでも帰らないわけにはいかないだろう。一晩とはいえ、突如いなくなれば王宮の者も心配する。
 嫌がる足を叱咤して歩みを進めたとき、肝心なことに気がついてヴァンを振り返った。

「悪いけど、親戚のうちまで案内してくれないかい? 王宮の近くなんだ」







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