06. 恋人になってほしい!?

 飾り気のない地味な部屋、明るく出迎えてくれる弟、それで充分ではないか。なのにそれ以上のものを求めている自分がいる。
 レックスが求めていたのは、地味なこの部屋を照らしていた輝かしい光。太陽の明るさと月の凛とした美しさを兼ね備えた微笑みを見たかった。だが彼の姿は、地味な部屋の中にない。

「王子は?」
「王子? ラスラなら家に帰ったよ」

 唐突に訪れた虚無感は、仕事から帰れば彼の笑顔を拝めると期待していただけに大きかった。
 あんなに王宮に帰ることを嫌がっていたラスラが帰ったのは、おそらく結婚の要求に返事をするため。受け入れるのか、それともすっぱり断るのか、最後まで迷っていた彼はいったいどちらの道を選んだのだろうか?
 どちらにしてもレックスには関係ない。そして、どちらにしても彼と会うことはもう二度とないだろう。自分から面会を求めるのは、彼の身分は高すぎる。彼から面会を求められることは絶対にないだろうし、何より結婚の返事さえしてしまえばダルマスカにはもう用はないはず。本来の住処すみかであるナブラディアに帰国するに違いない。
 バザーでぶつかったのも、彼がふらりと出歩いているところに通りかかったのも、まさに偶然だった。その偶然から始まった王子との交流もこれまで。

(結構気に入ってたんだけどな……)

 愛想がよい上に飛びぬけた美貌を持っていた彼は、レックスにとってとても輝かしい存在だった。性格も穏やかで、自分の身分を盾にわがままを撒き散らしたりせず、人の痛みもよく分かる。まさにレックスの理想としている王子の具現であった彼ともう会えなくなってしまうのは、本当に寂しい。

「兄さん、寂しいんだろ?」

 まさかヴァンに心中の的を突かれるとは思ってもみなかったレックスは、ぶんぶんと首を横に振ったが、その慌てた様子から相手に図星を見透かされるのは避けられない。
 ヴァンは、あどけなさの残る顔に悪戯いたずらな微笑みを貼り付けている。

「やっぱりそうなんだ。ふ〜ん」

 揶揄やゆするような色の混じった声は、優越感さえも含んでいるように思えて腹立たしかった。ぷい、とそっぽを向くと、笑みを浮かべたままのヴァンを無視するように自分の部屋に入る。

「でもさ、オレも寂しいよ」

 ドア越しに告げられた言葉は、荷物を置いてベッドに倒れこもうとしていたレックスの動きを止めた。ドアの向こうを見るようにそれを振り返ったとき、先ほどの悪戯な笑みを消したヴァンが入ってくる。

「あいつ、いいやつだったし。兄さんが寂しがるのも分かる気がする」
「別に寂しくなんかないし」

 今更意地を張って自分の気持ちを覆い隠したところで、何の意味もないだろう。弟はすでに兄の気持ちなど見透かしているはず。それでも嘘をついたのは、やはり兄としてのプライドを守るためだ。

「結局あいつってなんだったわけ?」

 ラスラがナブラディアの王子であるということは、最後までヴァンに明かさないつもりである。もしもうちに一泊したことが噂になれば、もうここにはいないラスラにも迷惑をかけてしまうかもしれない。

「やっぱり兄さんの恋人?」
莫迦ばか! そんなんじゃないよ!」
「でもあいつ、兄さんと駆け落ちしたって言ってたぜ?」

 あの人はまったく――呆れた言葉は心中で呟くに留め、代わりに溜息をついてやり過ごす。だがもしもそれが事実だったら、と一瞬だけ甘い夢を見たのは秘密だ。

「王子はただの友達」
「その“王子”ってのがなんか引っかかるんだよな〜」

 思わぬ自分の失言に内心ドキッとしつつ、慌てて愛想笑いをつくる。適切な嘘が思いつかず、なんのことかな、というように首をかしげ、結局最後まで何も言わない。
 裏をかけばすぐに暴かれる嘘だが、ヴァンはそれを自然な態度と受け取ったらしい。いいけどさ、と一言の残すときびすを返して部屋を出ていった。

「オレ認めないからな、駆け落ちなんて」
「だから違うって」

 レックスの弁解を聞く気がないらしい、ヴァンの足音は脱衣室のほうへと消えていく。――玄関の戸をノックする音がしたのは、そのときだった。
 はい、と一つ返事をして立ち上がったレックスだが、そこに行くより先に木製のドアが開く音がした。こちらが出るより先に入ってくるということは、よほど身近な人間――隣家のカナルかパンネロだろう。この時間帯に彼らが来るのは決して珍しくない。
 部屋を出ようとドアを引いた矢先、その向こうに大柄な誰かがいて、レックスは心臓の収縮する音が聞こえるほど驚いた。奇声を漏らすのはなんとか抑えられたものの、それは表情に出てしまう。
 一方の相手も、まさかドアの向こうにレックスがいるとは思ってなかったらしい、同じように驚いたような色を浮かべている。

「ってラスラ様!?」

 やあ、と微笑んだ顔は、今朝見たばかりなのになぜかとても懐かしい気がした。白兎さえも連想させるその白い肌は、生まれてこの方傷つけられることはなかったろう。彼――ラスラはそんな環境で育ったのだから。

「どうしてここに!?」

 王宮に帰ったはずの彼がなぜここにいるのだろう――僅かに湧き上がった嬉しさを押しつぶすように疑問が前に出てくる。結婚するかどうか決断が出た以上、この家には何の用もないはず。
 何か忘れ物でもしたのだろうか、と辺りを見回して目についたのは、レックスのでもヴァンのでもない高価な青い服。これを取りに来たのだろうと察したレックスは、ハンガーに掛けられたそれを手に取ろうとするが――

「違う、違う」

 立ち上がりかけたレックスを白い手が制した。

「別にそんなものはいい。それよりも、君にお願いがあるんだ」

 振り返ると、ラスラの顔からは先ほどの穏和な微笑みがさっと消えている。噴水で見た哀愁に満ちた表情でもない。初めて見る、真剣な顔。
 本気を滲ませたその表情に、レックスは緊張を覚えた。微笑みが彼の表情の常であったために、その珍しい表情は別人にさえ見えてしまう。

「私と一緒にナブディスに来てほしい」

 まったく予想もしていなかった彼の願い事にレックスは目を瞠った。理由を訊くのも忘れたまま、ただ呆然と彼の美貌を眺めていると、脱衣室からヴァンがひょこりと現れる。

「あれ、ラスラじゃん。どうしたんだよ?」

 ラスラの大きな願い事はヴァンの耳には入っていなかったらしい。向き合ったまま固まっている二人を見て首を傾げている。

「ナブディスに来てほしいって、どうしてですか?」
「ナブディス? なんだよそれ?」

 弟の質問は聞こえないふりをして、レックスは目の前の美男子が自分の質問に答えてくれるのを待った。

「……恋人になってほしい」
「恋人!? っていうか俺、男!」

 さらりと投下された爆弾発言に悲鳴を上げるレックスの頭は混乱状態。何がどうなってその結果に至ったのか、まったく読めぬ展開に目が回る。

「“心に決めた人がいる”と法螺ほらを吹いて例の結婚を断ったら、ラミナス殿下が父上にそれを告げたらしく、父が今すぐその相手を連れて来い、と。だから君に恋人のふりをしてほしいんだ」

 なるほどそういうわけか、と納得しかけたレックスは慌てて首を横に振った。

「お、俺男です! 恋人のふりなんてできませんよ」
「大丈夫。君は綺麗だから、服装と髪を少しいじれば女に見えないこともない。――こんなこと頼めるのは君しかいないんだ」

 綺麗だと褒められたことは、女に見えるという一言で打ち消し合ったが、こんなことを頼めるのは自分しかいないという必死の懇願は簡単に拒否できない。困惑に視線を巡らせていると、追い討ちをかけるようにラスラが甘い声で鳴いた。

「こんな頼むなんて無茶苦茶だと自覚している。結婚を断った理由も後先どうなるか考えてなくて、すごく莫迦だったと反省している。でもここで恋人がいることを証明できなければ、私は虚言者として王家から突き放されるかもしれないし、無理やり結婚させられるかもしれない。そうなれば私には、何もなくなる」

 追い詰められた人間とは、普段の様子からはとても想像がつかぬ姿を晒すらしい。この世のすべてに絶望を感じているようなラスラの様子は、彼本来の落ち着きを完全に失っていた。本人はそれに気づいていても、修復する余裕はないだろう。

「――そんなの俺、許さないぞ」

 あまりの急展開に困惑していたレックスに水を差したのは、弟のヴァンだった。







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