07. 心が痛くて

「そんなのオレ、許さないぞ」

 この世のすべてを呪うような声は、ヴァンのものだった。ズカズカとレックスとラスラの間に割り込んできて、頭一つ分高いところにある端整な顔を睨みつける。

「見放されるとか、何もなくなるとか、全部自分のためじゃん」

 確かに先ほどのラスラの発言は、自分を守るためのわがままにも聞こえる。しかし、レックスは不思議とそれを聞いたときに不快感を一切覚えなかった。それは常に笑顔の彼からそれが消え、あまりにも追い詰められたような顔をしていたからかもしれない。むしろヴァンの反論のほうが不快だ。

「自分のわがままを兄さんに押し付けるなよ!」

 うるさい、黙れ。
今にも口から出そうな汚い罵倒を呑み込み、レックスは代わりにヴァンの腕を引っ張る。

「なんだよ兄さん! 兄さんも迷惑してんだろ? だったらなんか言えよ」
「俺は別に迷惑なんかしてない」
「兄さんは優しいからそうやって庇うんだよな。でもこいつは兄さんを利用して自分のいいようにしたいだけなんだ」

 そんなことない、とヴァンを睨むが、怯む様子はない。

「いい加減にしろよヴァン。王子は困ってるんだ」
「王子、王子って、顔でだまされちゃ駄目だ」
「うるさいッ!」

 パチン、と鈍い音が狭い部屋に響き渡った。無意識の内に返された自分のてのひらに内心で驚きつつ、しかし表情は怒気に歪んだまま、突然の暴挙に呆然と立ち尽くす弟をレックスは睨みつける。

「ヴァンの莫迦ばかッ!」

 一瞬だけ、ヴァンの瞳に透明なものが宿っている気がした。だがそれを確認しようとはせず、項垂れる彼の姿を視線の端だけで捉えて大股に家を出る。

「レックス!」

 ドア越しに自分の名を呼んだのは弟ではなかったが、振り返ろうとはしなかった。今はここから離れて、誰もいないところで――泣きたい。そうすればきっと、このもやもやした気持ちも涙とともに流れてすっきりするだろう。
 しんと静まり返った夜のダウンタウンを、一人疾走した。


 ◆◆◆


 じんと痛むほおを、温かい雫が流れ落ちていく。痛いのが半分、大好きな兄にぶたれたという衝撃が半分、二つの気持ちが混じり合った涙はとてもしょっぱかった。

「ごめんよ、ヴァン」

 心底悪びれたような声で謝られたが、今は涙を拭うので忙しい。返答をせずに顔を伏せていると、先ほどの声の主――ラスラがそっと肩を抱いてくれる。

「私がいけなかった。君の言うとおり、わがままばっかりでレックスを困らせていたかもしれない」
「……別に、お前は悪くない」

 兄以外の人間に抱擁ほうようされるのは初めてかもしれない。ラスラの大きな温もりに身を任せると、そわそわしていた心が不思議と安らいだ。
 さっきは爆発的な感情に流されて、思ってもいない言葉を口にしてしまった。とげそのもののような鋭い言葉にラスラは深く傷ついただろう。なのに彼は今、先ほどのヴァンの悪態がなかったかのように優しく抱きしめてくれている。
 こんな陽だまりのように温かい人間なら、兄が惚れるのも当然か。そう割り切れれば容易いが、そうなることによって兄が自分から離れていくのは耐えられない。両親を亡くしてから――いや、幼い頃から遊び相手も、悩みを相談するのも、そして甘えられるのも兄しかいなかった。そんな狭い人間関係の中で生きていくうちに、ヴァンは兄に兄弟以上の感情を抱いてしまったのである。
 好きな人が自分から離れていくのが平気な人間が果たしてこの世にいるだろうか? だがしかし、自分が好きだからという理由で、その人の恋愛をさまたげていいものではない。兄がラスラに惚れていたとして、それを邪魔する権利が自分にあるだろうか?

「ラスラ……ごめん」

 逞しい腕に包まれたまま掠れた声で謝罪するとラスラは頭を撫でてくれた。言葉の代わりに許してくれたという合図だと理解して、ヴァンは本当に謝らなければならない相手のことを思い出す。

「兄さんとこ行って来る」

 行っておいで、という囁きが耳に入ると同時に、抱きしめてくれていた腕の力が緩んだ。振り返った先には、やはりあの穏和な微笑みがある。このときヴァンは初めて天使という存在を信じてみようと思った。


 ◆◆◆


 緩やかな水の流れを水銀灯の弱い光が照らしていた。辛いことや悲しいことがある度にレックスはここに駆け込んでは気が済むまで泣いていたが、それも幼い頃の話で、来るのはずいぶんと久しい。
 冷たい石畳の感触は心地よく、乱れていた心もすぐに落ち着く。だが、大きな罪悪感だけはそうすぐに冷えていくものではなかった。最愛の弟を打ってしまった自分の右手を睨みつけ、それを石畳に叩きつける。
 本当に、なんてことをしてしまったのだろう。膨れ上がった怒りに任せて弟を打つなど、やっていいことではない。ヴァンの言っていることすべてが間違っているわけではなかった。むしろそのほとんどが正しかっただろう。なのにレックスの心からは王子を侮辱されたことに対する怒りが込み上げ、耐え切れずに右手を動かしてしまったのである。
 最後にちらりと見たヴァンの悲しそうな顔を思い出すと胸が痛んだ。

「ごめんよ、ヴァン……」

 小さく囁かれた言葉と涙をすする音は、水の流れる音に吸い込まれていく。
 今頃ヴァンは自分を憎んでいるだろうか? そばで見ていた王子は自分の暴挙に何を感じただろうか? 悪いほうへ、悪いほうへ進んでいく自分の思考を、かぶりを振って押し留め、レックスは顔を伏せた。
 家に帰ってヴァンに謝ればいい、と思うのに、冷えた足は立ち上がることを拒んだ。わずかな後ろめたさと、ヴァンが謝りにくるべきだという意地がそうさせているのだろう。結局、自分は泣いているしかない。

「――兄さん!」

 水路に響き渡った声に、レックスは一瞬ビクッとなる。だがそれはすぐに嬉しさに変わり、しかし声の主に顔を合わせ辛いという引きも覚えた。
 声のしたほうを振り返ろうともせず、ただそわそわとしていると、足音が走って近づいてくる。近くまでやってきたその足音は、一度止まって、今度はゆっくりと歩いてくるのが分かった。
 間近に迫った影に視線だけを向け、立ち上がらないのは意地だと気づいて、大人気ない自分に内心で呆れる。

「兄さん、ごめん」

 その声は弱々しかったが、弟のものだと分かっている。だが、まさか謝ってくるとは思ってもみなかったレックスは驚いて、反射的に振り返ってしまった。
 水銀灯の光に照らされたヴァンの頬は、赤く腫れていた。当然だろう、自分はわずかな手加減もせずにビンタをかましたのだから。今度こそレックスは立ち上がって、この世で唯一の肉親に頭を下げる。
 赤く腫れた頬に掌を添えると、一瞬だけヴァンは痛そうに顔を引いたが、優しく撫でると驚いたように目を瞠る。

「痛かったろ……ごめん」
「ううん。兄さんが謝ることじゃないって。悪いのは全部オレなんだから。兄さんの気持ちも考えないで、ラスラのこと悪く言ってごめん」
「俺の気持ちって……」
「だって兄さん、ラスラのこと好きなんだろ?」
「すっ……!?」

 好き、という今まで考えたこともない言葉に、レックスは耳まで赤くなるのを感じた。
 確かにラスラの容姿は美しく、優しさそのもののような穏和な性格で、実に魅力的である。幾度となくその美しい容姿に見惚れ、温かさを感じて心を寄せていたが、それが恋愛的な意味で好きかどうかというと、そうではない……と思う。
 実際、そこら辺の彼に対するレックスのスタンスは曖昧だ。もしも自分が女だったら、それを、素直に好意を寄せているものと認められただろう。しかし、相手は男だ。レックスと同じ男で、下世話な話だが、付いているものも付いている。
 
「ラスラが家で待ってるから帰ろ」
「う、うん」

 ヴァンの一言で大きく揺れ動いた自分の感情を押し殺すようにかぶりを振ると、レックスは帰路を歩き出す。
 だが、帰った家にあの陽だまりのような存在はなかった。仕事から帰ってきたときと同じように、生活観はあるが殺風景な部屋があるばかり。それを照らしていた太陽は、夜の闇に呑み込まれてしまったのかもしれない。







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