08. 月の孤独
ラスラはこの日初めて、月は孤独な存在だと思った。夜空に輝くそれは確かに目立つ存在だが、辺りに散りばめられた星たちのように、ともに何かを象れる仲間がいない。孤立したそれは美しくはあるが、やはりどこか寂しい気がする。
そう思うのは、自分が同じような境遇に立たされているからかもしれない。周りにたくさん人はいても、それを仲間だと割り切ることはできなかった。友達をつくる機会も与えられぬまま王族の一人として育った自分は、明らかに孤立している。家族さえも温かいと思えない自分に、誰がいるというのだろうか?
せっかく得られたと思った友達も自らのわがままのせいで失い、ダルマスカの王女との結婚を断った自分はおそらく王族から見放され、ついに一人になってしまう。
王族になど生まれてきたくなかった、とこれまで生きてきた世界を否定しようとしている自分がいっそ孤独で、そして寂しかった。
ナブディスからここラバナスタまで足を預け、そしてこれから世界のどこかまで足を預けることになるチョコボは、主の大きな手に撫でられて嬉しそうに鳴く。孤独を知らぬであろうチョコボが今のラスラには羨ましいとさえ思えた。
さて、これからどこへ行こうか? 希望も夢もない世界を一周してみようか? 王宮を去ったラスラは孤独だが、代わりに王族という束縛から放たれ自由になった。これからはもう、自分の好きなように生きていける。
心魅かれる言葉だがしかし、やはり寂しさは拭えない。自分は一人だ。
「――待ってください」
誰何がかかったのは、ラスラがチョコボの背に手を置いたときだった。石畳に反響したそれは、聞き覚えがあった。なぜか溢れそうになった涙を、消すように一度目を閉じて、そっと振り返る。
「レックス……ヴァン……」
月光を受けて輝く灰色の髪、そして幼さが残るが整った顔立ち、彼と似たような顔だが髪の色が金の少年、二人を見てラスラは淡い微笑みを浮かべた。
「俺を連れて行ってください」
突然のレックスの申し出に一瞬目を瞠るが、すぐにそれを消して優しさそのもののような軟らかい声を出す。
「これ以上迷惑をかけるわけにはいかない」
「迷惑なんかじゃありません! 俺がついていきたいんです!」
レックスの真剣な表情は、とてもつくろっているようには見えない。本気で訴えるような眼差しがまっすぐにこちらに向けられていたが、それでもラスラは首を横に振る。
「私が君に関わることによって、君とヴァンの関係が悪くなる。そうだろう? なら私は近くにいないほうがいい」
「そんなことありません」
「いや、ある。現にさっきレックスはヴァンに手を上げたじゃないか。あれが私のせいではなくて、誰のせいだという?」
威圧感のあるよう極力声に力を込めるが、胸の奥底にわだかまった感情がそれに抵抗してどうしても相手を抑えることができない。それを断ち切るようにかぶりを振ったが、次に聞こえた大きな声に、逆にこちらが圧倒されてしまう。
「回りくどい!」
声の主はヴァンだった。
「ホントはついてきてほしいくせになんでそんな突き放すようなこと言うんだよ? お前のせいでオレと兄さんの仲が悪くなるようなことなんかない。だって兄さんは、大事な兄さんなんだから。それに兄さんは兄さんで、オレだけの兄さんじゃない。誰かと話したり、どっか行ったり、そういうのをオレが縛っちゃいけないと思う」
中身が幼いと会ったときからずっと思っていた少年が少し大人な見解を見せたことに内心で驚きつつ、彼が自分とレックスの仲がよくなることを許しているのが嬉しくて小さく微笑んだ。
「だから、兄さんを連れて行って」
「君も一緒に来ればいい」
「それじゃ駄目なんだ」
兄弟そろってナブディスに連れて行けば、彼らが互いを心配し合うこともない。そう思って提言したが、予想に反してヴァンは首を横に振った。
「兄さんがいたらオレ、ずっと甘えて何もしないでぐーたらになっちゃう。これ以上兄さんを困らせたくないんだ。それにお前も」
「ヴァン……」
感嘆に満ちた声を上げたのは、急に大人になったヴァンに優しい視線を送っていたラスラではなかった。ヴァンのそば、まさか弟の口からそんな大人びた発言が飛び出すとは思ってもみなかったらしいレックスが、少し背の低い弟の頭を撫でている。
「……本当にいいのかい?」
「おう。男にニゲンはない」
「……ニゲンじゃなくて二言」
細かいことは気にしない、と静かな指摘を一蹴したヴァンは、こちらのほうへ一人歩いてきた。身振り手振りで耳を貸してと言われて顔を近づけると、レックスには聞こえないくらいの声でこう言う。
「兄さんのこと、大事にしてくれよ」
一瞬何のことかと首を傾げるが、それがレックスに対する自分の感情を見抜かれたのだと理解したとき、目の前の少年は勝者の顔をしていた。
「好きなんだろ、兄さんのこと?」
一度向こうにいる件の人物に視線を転じて、彼が首を傾げたのを確認してから、ラスラは少年の質問に小さく頷いた。
「君も好きなんだろ?」
「兄としてな」
そう断言したが、実際は彼が兄に対して兄弟以上の感情を抱いていることなどお見通しだ。それを押し殺してまで同行させようとするのは、ラスラのほうがレックスにふさわしかろうと目算つけたからだろうか。あるいは先の言葉どおり、兄とともに生活していると、甘えが身に染みついて離れないからだろうか。いずれにしても、彼が兄のことを諦めたのは代わらない。
「大事にするから、安心して」
ラスラは少年の金髪をふわりと撫で、その華奢な身体を腕に包み込んだ。
「……そういうことは兄さんにしてやれよな。兄さんだってきっと」
してほしいと思う、という言葉に目を瞠り、それはどういう意味だと訊きかけたところでヴァンは腕をすり抜けて門のほうへ走っていく。代わりに話題に上がっていたレックスがこちらに歩いてきた。走り去る弟に、すれ違いざまに何かを告げて、再びこちらを向いた視線と自分の視線が交わって、一瞬ドキッとする。
「行きます。ナブディスに」
頭一つ分ほど背の低いところにあるレックスの目は、揺るがぬ決心をした者のそれである。もう何を言っても自分の意志を曲げようとはしないだろう。
「……いい弟を持ったね。私も弟がほしかったな」
「弟なんてそんないいもんじゃないですよ」
むしろ世話が焼けて大変です、とレックスは言うが、内心ではヴァンのことをとても大切に思っていると思う。そして、これから一人で生きていく弟のことが心配に違いない。
そう思うとやはり彼に頼みごとをしたのは大きな間違いだったのではないか、と罪悪感にも似た感情が浮き出てくるが、やはりレックスとともにいたいという気持ちのほうが大きかった。
「じゃあ、行こうか」
ラスラはレックスの身体を抱える。軽々と持ち上がった身体は、同性とは思えないくらい細かったが、ある程度筋肉はついているようだった。細い腕もその年齢の男子らしく筋が浮き出ており、そして手に触っている腹は硬い。
もう少し持ち上げていたいという思いを断ち切って彼をチョコボに乗せると、自分も足掛けを使って背に乗った。
「あれ、ヴァン?」
呟かれた声に顔を上げると、レックスが門のほうに視線を向けて首を傾げている。
さっきまで確かにヴァンの気配があったそこには、堂々たる門扉以外に何もなかった。
「もういっちゃった……?」
「……みたいだね」
最後に兄弟で別れの言葉を言い合うなり、それ相当の展開があるのではないかという予想に反して、目の前のそれは寂しく幕を閉じた。悲しげに細められたレックスの目はそれ以上門のほうを見ることをやめ、王都の出口のほうに向けられる。
「行きましょう」
諦めたような声が胸に痛くて、ラスラはもう一度門を振り返る。月光を受けて輝く門扉はぴたりと閉ざされたまま、黙って二人の出発を見届けていた。だが、一目見たいと願っていた少年の姿はついに見つけられないまま、こちらも諦めて手綱を取る。
「これが最後ってわけじゃ、ないですから。ヴァンにはまた会えます」
「うん。そうだね」
一度ナブディスに着いてレックスに恋人役をしてもらったら、すぐにでも彼をラバナスタへ帰そう。走り出したチョコボの背の上で、ラスラはそう決めた。
→