09. 一厘の花
ラバナスタの外へあまり出たことのないレックスにとって、過ぎていく景色はどれも新鮮だった。
東ダルマスカ砂漠には仕事で何度か訪れたことがあるが、こんな奥地に足を踏み入れたことはない。ラバナスタから入ってすぐの砂と岩だけの世界と違って、奥は見たことのない花や生き物たちがちらほらと見かけられる。
「あ、これ……」
チョコボを降りて休憩していた岩陰で、レックスは一厘の花を見つけた。百合によく似たそれはしかし、百合にはない桃色と赤色の花弁をつけている。
「――それはガルバナっていうんだ」
低く男らしい声は、いつの間にかレックスの背後に接近してきていたラスラのものだった。レックスの隣にしゃがむと、その花にそっと触れる。
「砂漠にしか咲かない幻の花。綺麗だろう?」
「ええ。とても」
摘み取って家に飾りたい。そう思うけれど、幻と言われるほど数少ないものならここで無慈悲に摘み取ってしまうのも気が引ける。代わりにその姿を記憶しておこうとじっと眺めていると、ラスラがレックスの頭に触れてきた。
「砂漠にしかならないって言われてるけど、実はナブラディア城の庭園にたくさん咲いているんだ。気に入ったのなら、あちらに着いたから一厘あげよう」
「本当ですか?」
うん、と微笑むラスラはカルバナの花の何百倍も美しい。花の代わりに庭園に彼が立っていても、それはそれで形になると思う。
「どうかした?」
無意識のうちの彼の美貌に見入っていたらしい、それに気づいたラスラと目が合って、レックスはなぜか赤くなってしまう。なんでもないです、と顔を庇うように踵を返し、大きな岩のそばでじっとしているチョコボに歩み寄った。
「そろそろ行こうか。日が落ちる前にナルビナに着かないと」
「はい」
ナルビナはこの砂漠を越えた先にある大きな街。古代の城が中心に聳え立つそこは、ダルマスカ国内ではラバナスタの次に規模が大きい。今日一泊するには時間と距離を考えるとそこが一番よいだろう。
ラバナスタ以外の地理には疎かったレックスが時間と距離を考えた上で効率よい行動を弾き出せたのは、地理に弱い王子の代わりに自分が世界地図を握らされたからである。
知能的に見えるラスラは、実は勉学が苦手という意外な一面を持っていた。しかし容姿が完璧な彼が更に学力まで完璧だったとすると、逆に自分との差を思い知らされて敬遠していたと思う。その意外な一面があるからこそ、上手くやっていけているのだ。
レックスが先にチョコボの背に乗って、その後ろにラスラが乗る。彼が綱を取るとまるで抱き込まれているような形になって、チョコボに乗っている間はドキドキしっ放しだった。背に当たる彼の胸板、そして時々耳元で囁く彼の声……そのすべてに過剰に反応してしまう原因は、もう分かっている。彼のことが――
「――なあ、レックス」
走り出したチョコボの上で、ラスラの優しい声が鼓膜を震わせた。
「ずっと気になっていたんだけど」
「なんですか?」
「その敬語。そろそろやめてほしいな」
え、と後ろを振り返ると、穏やかな表情を浮かべたラスラの美貌が意外なほど近くにあった。内心ドキッとしながら、しかし表情に出そうなのを堪えられなくてすぐに前を向く。
「親しい人に敬語を遣われるのはあまりいい気分じゃない」
「でも……王子は王子です。敬語を遣わないと駄目ですよ」
彼の気持ちも分からないではないが、王族の一人である者に対してタメ語を使うのは不敬罪に値する。
「あと、その“王子”って呼び方もなんだか気に入らないなぁ。どうせなら名前で呼んでくれればいいのに。もちろん呼び捨てで」
そして同様にその儚い願いも受け入れることができない。名前で呼ぶにしても必ず敬称――様――をつけるのが絶対で、仮に親しいとしてもこの身分の差では呼びたくても気が咎めるというのが事実だ。
「駄目ですよ」
そっか、と寂しそうに呟かれた言葉が胸に痛い。しかし馴れ馴れしく彼の名を呼ぶ勇気はついに出なかった。そのまましばらく二人とも沈黙して、チョコボの駆ける音だけが耳に聞こえる。
(……なんか気まずい?)
絶え間なく話しかけてきていたラスラが急に黙り込むと、なんだか悪いことをしてしまったようで不安になる。しかし彼の表情を窺いたくても振り返ることができず、結局俯いてしまった。
彼は自分の願いが受け入れてもらえなかったことに怒っているのだろうか? それとも悲しんでいるのだろうか? いずれにしてもいい気分ではないことは違いない。
「……ラ、スラ」
考えに考えた結果、思い浮かんだ打開策は彼の願いを受け入れること。そもそも不敬罪がどうとか気にすることはないのだ。ここには自分とラスラ以外の何者もいないのだから。
小さく彼の名を囁くと、それが聞き取れなかったらしい彼は「何か言ったかい?」と訊ねてくる。
「ラスラ」
今度は彼を振り返って、確実に聞こえるくらいの大きさの声で名を呼んだ。すると名を呼ばれた銀髪の美男子は、嬉しそうに顔を歪めてレックスの頭を撫でてくる。
「なんか照れるな〜」
「自分から言い出したくせに〜」
わがまま言ってごめん、と苦笑して謝る姿は、いつもの彼だ。それに安心して少し微笑むと、ラスラもまた柔らかく微笑んだ。
「嬉しかったよ」
本当に嬉しそうに言ったラスラは、頭を撫でていた手を今度はレックスの胸に回し、そのまま身体を引き寄せる。服越しに触れた彼の胸板は厚い。そっと耳を押し当ててみると、急速な鼓動が聞こえた。
「ドキドキ、してますか?」
見上げた先にあった顔は、なぜか少し赤くなっていた。肌の色が白いだけにその変化は実に分かりやすい。珍しく彼のほうが先に視線を逸らしてそのまま沈黙してしまうが、先ほどのような気まずい空気はない。
(胸触られるの嫌だったのかな?)
無意識のうちに彼の左胸に伸びていた自分の手を引っ込めて、押し当てていた耳もそっと離そうとする。しかし直前に伸びてきたラスラの手に頭を優しく抑えられて、結局それは叶わなかった。
「そのままでいて」
「え……」
「こうしていたい」
その言葉の真意は分からない。いったいなぜレックスに抱きつかれていたいのか、聞こうにも聞けず、思考のアルゴリズムに溶けていく。
レックスもこうしてラスラの胸にすがっていたかった。その思いには自分の感情の奥底に理由があるから怪訝に思うこともない。もしも自分と同じ理由で彼もこうしていたいと思っているのなら――そんな夢を思い描いて、しかし贅沢だしありえない現実だと自分で呆れる。
「でもこの態勢辛いです」
チョコボの背の上では、ラスラの胸にしがみつくにはわざわざ半身を捻らないといけない。それをずっと続けているのは酷というものだろう。
「じゃあ、前を向いていていいよ」
厚い胸板から離れると、捻っていた半身を元に戻す。しかしラスラの片手は自分の胸の辺りに置かれたまま、背後の大きな身体はレックスの背に密着してきた。
「これなら、いい」
砂漠の気温は身体を燃えるのではないかというくらい暑いはずなのに、こうしてラスラに包み込まれても不思議と暑い気はしなかった。ただ心地よくて、温かくて――背を通して伝わってくる彼の熱に安らぎさえも感じた。
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