10. ラブホテルで
ナルビナで一泊した後、早朝に旅立ったレックスとラスラは、昼前にはモスフォーラ山地――ナブラディア領域最初の地に足を踏み入れていた。
目に見えるほど濃いミストが漂うそこには多くの魔物が巣食っている。しかしチョコボに乗っている間は奴らの襲撃を恐れる心配はない。チョコボの足の速さは動物の中でも最高位、どんな魔物であれ追いついてこられないのだ。
「ナブディスまであと二日くらいだ」
レックスがラスラのことを初めて名を呼んで以来、彼はチョコボに乗るときは必ず片手をレックスの胸のほうに回してくるようになった。そして密着――おかげでレックスはチョコボに乗っている間ずっとドキドキしっ放しだ。
「それにしても、雲行きが怪しいな。早いところここを抜けて宿を探さないと」
天空はどんよりとした雲に覆われていて、今にも雨が降り出しそうだった。チョコボもそれを察しているのか、徐々に駆ける肢が速くなっているように感じられる。
案の定、間もなくしてぽつりぽつりと小さく細い雨粒が落ち始めた。だがしかし、それは数分の間に滝のような大雨へと変貌する。身に着けているものと自分の身体、そしてチョコボの羽がずぶ濡れになるまでさして時間はかからなかった。
「ひどいなぁ、これ」
ラスラの声が聞き取りづらいほど雨は強い。振り返ると、こちらと同じようにラスラのタンクトップもびしょ濡れになっていた。それが吸い付くように肌に密着しているせいで、彼の胸の突起が薄っすらと見えてしまっている。
(やばい……目逸らしたいけど逸らせない)
上半身に何も着ない男はラバナスタには多く、今見ているそれも見慣れているはずなのに、なぜか彼のは見ているとドキドキする。思わず触りたくなるような、少し卑猥な気分――
「――あんまり見ないでくれよ」
大雨で音声を拾いにくくなったはずなのに、その声だけはなぜか明確に耳に入ってきた。見上げると、困ったように眉をひそめた美男子の目と目が合って、慌てて逸らすと彼は小さく笑う。
「ごめんなさい」
「少し恥ずかしかっただけ」
乳首を見つめられて恥ずかしくない人間など、異色なものを除けばそういないだろう。しかし、見つめていることに気づかれたほうはもっと恥ずかしい。
そんな羞恥も、次のラスラの発言で感じたそれに比べればまだ可愛いものだった。
「……レックスの、見せてよ」
「はいっ!?」
レックスは一瞬何のことか分からなかったが、すぐに乳首のことだと気づいて奇声を上げる。
「な、何言ってるんですかあ!?」
「だって、レックスは私のを見ていただろ? だから私もレックスのを見て、それで相等」
「別に見たくて見たわけじゃありません!」
詭弁だ。別に故意で彼の乳首を見ていたのではなく、たまたま目に入っただけなのに。いや、目に入ったあと見つめていたのは明らかに故意ゆえのことだった。
恥ずかしさで耳まで赤くなったのを感じながら、レックスは頬を膨らませる。
「冗談だよ。君がそんな人の胸を故意に見つめるような人じゃないことくらい、分かっている」
(ごめんなさい王子。俺は故意にあなたの乳首を見つめてました……)
後ろの彼は今どんな顔をして謝罪を口にしたのだろうか。どんな顔であれ、振り返るつもりはないが。
「――明かりが見える」
俯いてじっと黙っていると、ラスラの声が再び鼓膜を震わせる。どこです、と訊ねて指を差された先、木の生い茂る林の向こうにその明かりは見えた。こんな山の中に変だな、と思うがしかし、びしょ濡れで肌に気持ち悪い服を早いところ脱ぎ捨てて身体を拭きたいという気持ちは抑えられない。あれが何かしらの建物であってほしいと願う。
そんな願いも、その明かりの前に来ると絶望に変わってしまった。
(嘘……)
赤、青、桃、鮮やかな色の明かりはある文字を形成していた。
L o v e H o t e l
奇跡的に見つけた建物がよりにもよってラブホテルだなんて、とレックスは心中で絶望を漏らす。これでは休むこともできないではないか。
だがしかし、レックスの絶望とは対照的に、ラスラの声は希望に満ちていた。
「こんなところにホテルがあるなんてついていたな」
(そうか……王子はラブホなんて知らないんだ!)
王族の、しかもいつか国を継ぐかもしれない王子がそんな風俗めいた施設のことを知らないのも無理はない。
レックスはホテルの入り口にチョコボを進めようとしているラスラを止めようとするが、嬉しそうな笑顔に結局それを言い出せず、煌びやかなゲートをくぐってしまう。
塀に周囲四方を囲まれたそこには、同じ形をした建物がいくつか立ち並んでいた。入ってすぐ横にあるのを除くとどれも暗く、人の気配が感じられない。そのうちの一つ、一番近くのチョコボ屋が隣接された建物を選んで、二人はチョコボを降りる。
中は広いワンルーム。右には大きなソファと液晶テレビ、左のほうにはこれまた大きなベッドと鏡、そして風呂に通じているらしいドアがあり、ラバナスタの友人が冗談交じりに話していたラブホテルの内装とまったく同じつくりになっていた。
「何か着るものと身体を拭くものはないかな」
ラスラの持つ着替えの入ったバッグもびしょ濡れで、おそらく中身も同じようなことになっているだろう。早くこの濡れた服を脱ぎ捨てたい衝動を堪え、レックスも身にまとうものを探し出す。
正直なところ、入ってからはラスラがラブホテルのことを知らなくてよかったと思っている。もしも知っていたらここに入らずに大雨の中旅路を進んだかもしれないし、入ったとしても互いに気が滅入って嫌な雰囲気になったに違いない。幸いにも店員に姿を見られることもないようだし、人目もなかった。これなら今日はここでゆっくり一泊するのもよい。
「ああ、あった」
ソファの辺りを探っていると、背後からラスラの歓声めいた声が上がった。彼の腕に抱えられていたのはバスタオルとバスローブ。馴染みないものだが何も着ないよりはマシだろう。
「あ、先に風呂に入ったほうがいいか。風をひいてはいけないから」
「王子が先に入ってください」
遠慮してそう返したが、ラスラはなぜか不満そうに眉をひそめた。
「……今王子って呼んだ」
「あ、ご、ごめんなさい……ラスラ」
ラスラ、と名で呼ぶのはやはり抵抗を感じる。それでも王子と呼ぶなと咎められた上に不機嫌な顔をされては、逆らうわけにもいかなかった。
(でもそういうところ可愛いよな〜)
妙なところにこだわるのは弟のヴァンに少し似ている気がする。
「それとも私と一緒に入るかい?」
「……先に入らせてもらいます」
なんだよ、という少し残念そうな声を背中に聞いて、レックスは脱衣室に逃げ込むように入った。
(なんか今日の王子は変なことばっか言ってるくるな〜)
最初は乳首のこと、そして次はさっきの一緒に風呂、言われて不快感はないが本当にそうなったときを一瞬想像して恥ずかしくなる。どういう意図で彼がそのような羞恥に塗れた言葉を口にしているのかは知らないが、このままでは恥ずかしすぎておかしくなりそうだ。
濡れた衣類と靴を脱ぎ捨て、そわそわと落ち着かない気持ちをシャワーで洗い流す。
(一緒に、か……。そういえばヴァンも同じようなこと言っていたよな)
ラバナスタの残してきた弟は、今頃何をしているだろう。生活のことは隣家のカナルに任せてあるから心配ないが、あれほどレックスにくっついて離れなかった弟を突然一人にしてしまうとやはり不安になった。
その反面、別れ際に兄離れして少しだけ成長した様子を見せたヴァンを思い出すと、きっと大丈夫だろうと安心できる。
(帰ったらもっと成長してるといいんだけど)
兄として誇れる弟になっていてほしい、というのは贅沢な願いだろう。ナブディスまで行って帰ってくるのにそんなに時間はかからないのだから。
雨に濡れて少しべとついた髪と身体を洗い、レックスは風呂場を出る。身体を拭こうとバスタオルに手を伸ばしたとき、人の喘ぎ声のようなものが聞こえて硬直した。
『あぁんっ……いやっ……ぁん』
(……ってまさか!?)
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