11. 先走り

 ラブホテルのテレビといえばアダルトな映像がループしているのだと、友人が話していた覚えがある。この女の淫らなあえぎはそれでは、と推測をつけると道理が合う。何も知らない王子はその禁断のスイッチを押してしまったのだ。
 レックスは湯で濡れた身体をバスタオルでさっと拭き、バスローブを素早くまとうと脱衣室を飛び出した。
 いっそう大きくなった例の声に一瞬気後れするものの、力の抜けた足を叱咤しったしてテレビの主電源に手を伸ばす。
はたと止んだ音声に安堵して息をつくと、ソファに座っているラスラに視線を向けた。

「って王子……じゃない、ラスラ! 大丈夫ですか!?」

 この世の誰もが一度は見惚れそうな美貌の持ち主は、鼻血を出してぐったりとしている。身体を揺すると、力のない目がこちらに向いた。

「レックス……私にはちょっと刺激が強すぎる」
「いえ、俺が先に言っておかなかったのが悪かったです」

 レックスは手近にあったティッシュを数枚掴み取り、垂れた鼻血を拭き取ってやる。

「とりあえずシャワー浴びてきてください」
「うん……」

 王子といえばAVとも無縁であろう、生々しい性行為の映像はきっと彼にとって衝撃的だったはず。そういうものにあまり興味がないレックスもそれを見ていたら同じような状態になっていたかもしれない。
 ラスラが弱々しい足取りで脱衣室に入って行くのを見届けて、レックスはソファにぐったりと倒れこんだ。自宅の安いソファと違って、ここのそれはふんわりと座り心地がよい。
 そのまましばらくぼうっとしていると、シャワーを終えたらしいラスラが脱衣室から出てくる。

「ふ〜、さっぱりした。しかし下着も身につけずにこれを着るとスースーするな」

 そう言われてようやく気づく、下着を身につけていない自分。せっかく持ってきたのに雨に濡れてしまったので仕方がないが、バスローブ一枚剥ぎ取れば全裸になってしまうという事実はまたもレックスに恥ずかしさを感じさせた。

「あれ、ベッド一つしかないのか?」

 ラブホだからそれは当然のこと、というのも大きなベッドを怪訝そうに見ている彼は知らないだろう。

「ラスラが使ってください」
「枕が二つあるから一緒に寝ろってことではないかな?」
「ですけど、嫌でしょ? 俺と一緒に寝るなんて」

 そんなまさか、と予想に反してラスラは首を横に振った。

「構わない。むしろそっちのほうがソファで寝させるよりも気が楽でいい」
「……じゃあ、一緒に寝ましょう」

 そう返事すると、ラスラは嬉しそうに微笑んだ。

(でもさ、でもさ)

 ベッドのほうに足を進めつつも、内心でやはりソファで寝ようかと思う。別にラスラと一緒に寝ることが嫌なのではなく――むしろそれは嬉しい――、彼に対する自分の熱い感情がいけないものを想像させてしまうのだ。

莫迦ばか! 王子がそんなことするわけないだろ)

 彼に下心などあるわけがない。もしもあるのだとしたら、ナルビナの宿に一泊したときに何かされていただろう。下心があるのは、自分のほうだ。
 二人で入った布団の中は、最初ひんやりと少し肌寒い気がしたが、すぐに互いの熱で温かくなる。夏でも気温の低いモスフォーラ山地では、その熱も心地よかった。

「誰かと一緒に寝るのなんて初めてだ」

 ラスラのほうに背を向けて横になっていると、意外なほど近くで彼の声がした。

「レックスは?……って、ヴァンと寝たことがあるか」
「小さい頃ですけどね」

 過激なAVに鼻血を出し、そして誰かと寝るのは初めて。この分だと彼はおそらく童貞どうていなのだろう。いかにも女が寄って来そうな美しい顔をしているというのに意外だが、レックスも上から物を言える立場ではない。
 レックスも正真正銘の童貞だ。それどころか、異性と付き合った経験すらない。

(女なんかに興味ないもんな)

 かといって男に興味があるわけではないが、そう信じていた自分の心にも最近揺らぎが見られる。誰かに対して爆発するくらいの好意がそうさせていた。近いようで遠いその相手は、見ているだけで満足していたはずだったのに、今は欲しくて堪らない。

「――レックス」

 しばらくの沈黙のあと、てっきり眠ってしまったのかと思っていたラスラの声が鼓膜を震わせる。なんですか、とそちらに寝返りを打とうとしたまさにその瞬間――ラスラの手がレックスの下腹部に触れた。

「!?」

 いきなりの暴挙に唖然あぜんとなるが、刺激を受けたレックス自身の素直な反応に次は羞恥を覚えさせられる。

「やっぱり誰かと寝るとこうなるものなのかな。私のも、ほら」

 レックスの下腹部に触れていないほうの手に手を掴まれて導かれた先は、ラスラの股間。バスローブ越しに触れたそれは、硬く生温かい。彼もまた、自分と同じように勃起ぼっきしていたようだ。
 離してください、とその手を振り払おうとした瞬間、ラスラの足がレックスの足に絡みつき、そのまま彼の身体が覆い被さってきた。

「ラ、スラ……?」

 予想もしていなかった展開に、レックスの思考も身体も凍りつく。
 誰もが一度は見惚れるであろうラスラの美貌が、レックスの顔のすぐ近くにある。いつもならそれにときめいたり、あまりの美しさに見惚れたりするが、このときだけは違った。微笑みも何の表情も浮かんでいないラスラの顔を見るのは決してこれが初めてというわけではない。にもかからずそれを怖いと直感したのは、闇色に染まった瞳のせいだろう。
まるで意思を持たぬ人形のような暗い目は、今まで見てきたどんなラスラでもなかった。まったくの、別人。

優しく微笑みかける彼は――優しさそのもののように温かい彼は、どこに行ってしまったのだろう?

 ただひたすらに、怖い。誰かも分からぬ人間にこれ以上のことをされたくない。
 レックスは、自分に覆い被さっている男を手で押しのけ、ベッドからさっと降りる。背後で上がった呻きも無視して着の身着のまま、ホテルの一室を飛び出した。



 降りしきる雨が屋根を叩く音がする。
 なんてことをしてしまったのだろう。ホテルに残されたラスラは罪悪感にさいなまれていた。

「ホント、莫迦だ」

 単刀直入に言うと、ラスラはレックスのことを愛して止まない。しかし誰かに恋したことのないラスラにとって、初めて経験するそれはどうすればいいのか分からず、先ほどのような先走った行為に出てしまった。
 レックスの怯えたような目を思い出すと胸が痛む。彼を傷つけてしまった自分が憎くて、情けなくて、拳をベッドに叩きつけるとなぜか涙が溢れた。

(何を泣いているんだ、私は……)

 泣いて許されるなどと、甘えたことは思っていない。むしろ己を叱責し、反省し、そして出て行った彼を追わなければならない。そう思うのに、溢れ出した涙は止まらなかった。体中の水分がすべて排出されるのではないかと思うくらい泣いて、泣いて――それでも止まらないと分かると、それを拭うのをやめて立ち上がる。

(ちゃんと謝らないと)



 頬を流れ落ちるのは打ちつける雨だろうか? それとも涙だろうか? その区別もつかなくなるほど雨に濡れて、涙を流して、落ち着いたときにレックスがいたのは、見知らぬ森の中だった。
 素足にびしょ濡れのバスローブ。情けない恰好でラブホテルを飛び出し、そのまま足が向くままに山地を走って身体はボロボロである。だがそれ以上に心はボロボロだ。
 何も告げられないままに股間を触られ、上に覆いかぶさってきて、そのときのラスラの表情は別人のようで怖かった。
いつもの微笑みを少しでも見せてくれたなら、彼に身を任せてもよかったかもしれない。

(だって俺は、王子のことが……ラスラのことが好きだもん)

 最初は綺麗な人だな、と容姿に見惚れ、再会したときに見せた意外な一面に心魅かれ、いつの間にか好意を抱くようになっていた。彼がいいなら、肉体関係を持っていいとさえ思っている。

(莫迦だな、俺って)

 そう思っているのならなぜさっき王子の腕から逃げ出したのか。いつもの彼ではない別の誰かに見えたとはいえ、ラスラであることには変わらないのに――。

「ホント、莫迦だよ……」

 降りしきる冷たい雨がこのもやもやした気持ちを流してくれればいいのに。
 木々の隙間から見える空は、どこまでも暗い。まるでレックスの心のように。

 異変を感じたのは、そのときだった。

 ガサガサ……と、草がざわめく音がした。最初風のせいかと思ったが、辺りは雨が降るばかりで風などまったく吹いていない。では何か――レックスは音のしたほうに目をやって、凍りつく。
 赤い点が複数、草の合間からこちらを覗いていた。それが何かの目だと分かったとき、レックスの防衛本能は逃げろと警告したが、恐怖に凍りついた足はまったく動かない。
 姿は見えずとも、空気を突き破るような殺意がその存在感をアピールしていて、あまりの恐ろしさにその場にへたり込んでしまう。

「……魔、物」

 殺意の正体を見出したとき、獣たちはいっせいにレックスに飛び掛ってきた。







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