12. 雨の味

(俺、死ぬのかな?)

 バスローブ。それ一枚がすべてのレックスに、魔物から身を守る術は何もない。死そのもののように黒光りした魔物たちの鋭利な爪に反射的に目を閉じて、腕で顔を庇う。その行為が何の意味ももたらさないことを分かっていてもそうしてしまうのは、人間のさがというものだろう。
 この先の人生やりたいことはなくても、やり残したことはたくさんあるのに。弟のヴァンのこと、少しの間休ませてもらうと言ってそのままにした仕事、そして――

 ラスラのこと。

 こんなことになるのだったら、彼に自分の気持ちを伝えておけばよかった。好きだ、と短いが最高級の想いを込めた言葉を、喩え彼に理解してもらえなかったとしても、一度でいいから口にしておきたかった。
 だがもう、それも叶わない。自分はこの場で死ぬのだから。

(……助けてっ!)

 声にならぬ叫びがレックスの胸をつんざいて、じわりと涙が溢れ出る。

(助けてよ……ラスラ。ラスラー!)

 心中で熱烈に助けを求める相手は、やはり大好きな彼だった。出会ってからこれまでの彼の様々な表情が脳裏にフラッシュバックされて、死にたくないと本気で思う。
 肉の裂ける嫌な音は、自分の身体から上がったにしてはやけに遠いところから聞こえた気がした。死を目前にしたときの聴覚とは、普段のそれより違うものなのだろうか? そう解釈して息をつき、しかし自分が痛みをまったく感じていないのに気づく。

(生きてるっ)

 それに対する喜びを感じるより先に、なぜ生きているのかという疑問が浮かび上がるが、その答えはすぐに分かった。

「……ラ、スラ」

 森の薄暗がりに浮かび上がった銀髪と白く美しい顔の持ち主は、剣を持ってレックスを魔物から守るように立ちはだかっている。震える声で彼の名を呼ぶと、ラスラはそれに答えず無言で剣を構え、土を蹴って魔物たちのほうへ駆け出した。
 普段どちらかというとまったりしている彼の、初めて見る戦う姿は気迫に満ちていて意外に思う。だが繰り出される剣技はどれも美しさを感じさせて、まさに彼らしい戦闘スタイルだと言えよう。
 まったく乱れのない彼の動きに見惚れているうちに、魔物たちは姿を消していた。ぽつりと一人佇むラスラが、ゆっくりとこちらを振り返る。

「……心配した」

 浮かんだ彼の少し悲しそうな表情に申し訳ない気持ちでいっぱいになって、ごめんなさいと謝ればラスラは首を横に振った。
 素足にバスローブ。自分と同じ恰好をしたラスラはあのあとすぐに駆け出してきたのだろうか? 

(俺のことを追って?)

 心配した、という彼の一言から、おそらくそうなのだろうと推測がつく。正直、とても嬉しい。好きな人にそんなに心配してもらえて。

「悪いのは私のほうだ。いきなり変なことをしてすまなかった」

 伸ばされた白い手を掴み、立ち上がったと同時にラスラに抱きしめられる。彼の身体は雨に濡れて冷たいはずなのに、包み込むような温かさを肌に感じた気がした。
 ラブホテルで彼がレックスといきなり行為に及ぼうとした気持ちも分からないではない。実際、レックスだって彼に同じようなことをすることを考えていたのだから。好きだからその身体を欲して、しかしどうしてよいのか分からずに下手なことをする。

(好きだから……でも、ラスラは?)

 レックスが彼に卑猥なことをしたいと思ったのは、彼に対して大きな好意を抱いていたからだ。だが、ラスラの場合はどうなのだろう? 何を思って、そしてどんな感情を持ってあんなことをしたのか?

「私は――」

 やがて静かに開かれた彼の口から、とんでもない事実が聞かされる。

「レックスのことが好きだ」
「へぇ、そうなんですか………………ってえぇ!?」

 平然と相槌を打って、しかし彼の言葉の重大さに気づいてレックスは彼の腕の中で飛び上がった。
 少し高い位置にある彼の端整な顔立ちを覗くと、視線が意図的に逸らされる。

「恥ずかしいからあまり見ないでくれ」

 その台詞を聞くのは二度目。わずかに赤い頬を隠すように顔を背ける彼があまりにも可愛くて、レックスは思わず笑みを零した。

「俺も好きです」

 そういういろんな表情を見せてくれるところが。だから突然無表情になったラブホテルでの彼が怖かったのだ。

「好き、ラスラ……」

 驚いたように目を瞠っていたラスラの頬に手を添えて、薄くて綺麗な彼の唇に自分の唇を重ねる。開かれたままだったラスラの目を手で覆って、そして自分も目を閉じると、正真正銘のファーストキスの味を堪能する。

 初めてのキスは、雨の味がした。

 本当は彼からされることを望んでいたのに、あんなに不器用ではキスなんてしてこないだろうから、仕方なく自分から仕掛けてみたのだ。
 下唇をついばんで、わずかに開いた口の隙間から舌を侵入させるとラスラの身体がピクンと跳ね上がった。

「んっ……」

 突然の侵入物に逃げようとしたラスラの舌に自分のそれを絡めて、舐め上げ、長い間それを繰り返した後、苦しそうに目を細めた美男子を口付けから解放してやる。
 長く、深く、そして少し卑猥だったキスは初めての二人には少しキツくて、そろって乱れた呼吸を零した。

「レックス……」

 少し苦しそうな、しかし確かにレックスの鼓膜を震わせたラスラの声になぜか卑猥な香りを感じてしまって、つい顔を背けてしまう。すると背を抱いていたラスラの腕が強さを増して、密着していた身体が更にくっつき、それで彼の感情のすべてを理解した。

 本当に自分を愛してくれているのだ、と。

 疑う理由なんてない。これまでの彼の異常なスキンシップが、その感情が事実であることを証明しているではないか。
 嬉しかった。たぶん、この十七年間の人生の中で一番。

「――ありがとう、ラスラ」

 見上げた先にあったのは、やはり笑顔だった。ガルバナよりも遥かに美しいその微笑みにこちらもまた微笑み返して、二人は再び強く抱きしめ合う。
 先ほどまで降り続いていた強い雨は、いつの間にか肌にすがしい霧雨に変わっていた。雲の割れ目から零れる陽射しが木々の隙間を通して森を明るく照らす。その光を受けて輝くラスラの銀髪が王冠のように美しくて、しかし本人の容貌に比べれば飾りにすぎない。

「ラスラ、帰ったら――」

 しよう、という誘いにラスラは何を、とは訊いてこなかった。レックスが何の誘いをしたか、どうやら彼にはちゃんと通じたらしい。

「しかし、私なんかが相手でいいのかい?」
「ラスラじゃなきゃ駄目……」

 初めて好きになった人と――初めて自分のことを好きと言ってくれた人としたいと思うのは当然だ。

「それならラスラも……俺なんかでいいの?」

 上目遣いに見上げると、ラスラは困ったような顔をした。

「なんかで、なんて言わないでくれ。私もレックスでないと駄目なんだ」

 行こう、と差し出された左手にレックスは右手を乗せて、新しい二人の道を歩き出す。
 この後することを考えれば少し恥ずかしいが、怖いことは何もない。なぜなら、相手はラスラだから。

 ――世界で一番好きな王子さまだから。







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