三章 ここはどこ……?
―確かにあれは光だった。
闇を貫いた一筋の光。彼は目を輝かせる。
『行ってみるか?』
声をかけてきたのは、彼の神獣。神獣の中でも、黒竜は脳が発達しており、人語を話すことができる。
彼は頷いた。
『しっかりつかまっとけよ! いつ振り落とされるかわかんないからな!』
「うん」
黒竜は天空を舞う。雲は黒竜のために道をあけ、風は黒竜を優しく押す。青年は本当に振り落とされそうだった。
『毛を引っ張らないでくれないか? 痛くてたまらん』
「悪いね」
光まであと少し。着くまでに光が消えなければいいのだが……。
£££
―冷たいものが頬を伝った。やけに寒い。それになんだか騒がしい。決して気持ちの良い眠りとはいえなかったが、眠っているほうがずいぶんと楽に思えた。しかし、周りが大変騒がしいため、もう1度眠りにつくことはできなかった。
ユウナは飛び起きる。騒がしさの正体は、ユウナを悪戯に打ちつける雨だった。頬を伝っていたのは、その滴か何かだろう。
ユウナは辺りを見回してみる。そこは人の気配のない森だった。
「わたし、なんでこんなところにいるの?」
記憶の中を探ってみる。
確か、美術準備室にいたはずだ。そして扉が開いて、そこに入るといつの間にかここに来てしまっていた。そういえば、同じように闇に墜ちた人物がいる。
「ツッチー……」
周りにいるのは森の木々たちだけ。その木々たちは、まるでユウナを嘲笑っているかのように枝を揺らす。
「ここ何処なんだよ……」
ユウナはその場にしゃがみ込む。そして、憂鬱な気分で物事を整理し始めた。
「美術準備室の穴……もしかして、これって夢?」
そう思うのが最も楽かもしれない。しかし、夢にしては自分の身体が意思通りに動くし、雨が身体に当たる感触もする。それでもこれが現実とは信じられないユウナは、近くの木に触れてみた。
当たった感触がする。それに、木の中に水が通っているのがわかった。
そしてユウナはその木のそばに倒れ込んだ。あまりにも理解しがたいこの現実に、頭の中は困惑と不安で埋め尽くされている。身体は完璧に現実逃避していた。
しばらくして、近くの草がガサガサとざわめくのが聞こえた。何かがやってきたようだ。
ユウナはその生物に驚愕した。姿は犬のようだが、図体がやけに大きい。では狼……いや、それにしてもでかすぎる。その生物は、ユウナの身長を有に超え、燃えるような赤い瞳がこちらを睨んでいる。
ユウナは動くこともできず、ただそこに突っ立っていた。動きたいという気持ちはあったが、恐怖で足がすくんで動けない。
相手も一歩も動かない。ただこちらをじっと見つめているだけだった。
£££
長い沈黙が続いた。両者はずっと睨み合ったままである。
やがて獣がその場に座り込んだ。
『迷ったのか?』
突然聞こえた人語。その声の主は見あたらない。
『迷っているようだな』
声の主は他の何者でもない、そう、獣のものだった。獣はユウナの脳に直接話しかけてくる。
『我はこの森の主だ。安心しろ、我は人間を喰ったりはせん』
まるで落ち着かせるかのような物言いに、ユウナは少々安堵した。
『我の背に乗るがよい。人間のところまで運んでやろう』
「……君の巣に運んだりしないよね?」
『信じろ。我はそなたの味方だ』
ユウナは小さく頷き、獣の背に乗った。ふかふかした毛が肌に当たって気持ちいい。
獣は起き上がった。そして、目にも留まらぬ速さで駆け出した。
獣は風を切り、木を破る。その姿がひどく恰好良く思えた。森の木々たちは、この獣の邪魔にならぬよう避けている。他の獣たちは姿を見せない。そう、この森では、何よりもこの獣を優先させないといけないのだ。
「もうちょっと遅く走れない? 重力がかかるんだけど……」
ユウナがいうと、狼のスピードがほんの少しだけ減速した。
「この夢いつ終わるの……」
ユウナは未だにこの現実を夢だと思っていた。あまりにも非現実的のことが起きている。夢と思うのも当然だろう。第一、今乗っている獣も、現実にはいてはならないものだ。しかし、そのいてはならないものがこうして目の前にいる。やはりこれは夢ではないだろうか。
『これは夢などではないぞ』
そういったのは獣だった。この獣は、ユウナの心に直接話しかけてくる。おかげで、ユウナは自分の心が覗かれているような気分だった。別に覗いているわけではないのだが。
ユウナは、鼓動が早まるのを感じた。別に何を考えていたわけでもないのだが、何故か胸が高鳴る。そのとき、獣が急に立ち止まった。
『我は嘘などついておらん』
心に響く声。ユウナはそれが嫌で、何度か頭を叩いた。
「わたしは信じない! これが現実なんて思ってないから! だって、こんなところ知らないもん……。それにわたしは美術準備室にいた。そこからここへワープしたっていうの!?」
ユウナは声を張り上げた。その声の中には、言い知れぬ不安がこもっていた。
『では何故身体が意思通りに動く? 何故触ったものの感触がわかる?』
獣の声は鋭かった。
ユウナは、返す言葉が見つからず、黙り込んでいた。
その獣がいっていることはすべて当たっている。夢にしてはリアルだし、ちゃんと意思通りに身体が動く。獣の毛の感触もわかる。雨が身体に触れる感触も。ユウナは、ひどく泣きたい気分になった。
「わたし、どうしてこんなところにいるの……?」
ユウナは拳を握る。それと同時に、頬を熱いものが伝った。それはどんなに堪えようとしても、容赦なく目から溢れ出る。
「ここ……何処なの……?」
嗚咽の中の声。その声からは、失望と絶望が感じられる。獣には、それが手に取るようにわかっていた。
『時空の狭間に巻き込まれたのだな』
「ジクウノ……ハザマ?」
獣は頷く。
『おまえのいた世界とこの世界は遠いのだが……ごく偶につながることがある。そのとき、おまえの世界のどこかにこちらと通じる道ができるんだ。それが時空の狭間。おまえはきっとそれに墜ちてしまったんだな』
「じゃあここは……わたしの知らない世界……?」
獣は静かに頷いた。
「ねぇ、帰ることはできるの?」
『聞いたことないな。1度こちらに来たら帰れないとは聞いたことあるが……』
「そっか……」
ユウナは俯いた。そしてまた泣き始めてしまう。
「わたし……もう帰れないんだね」
あっさり受け入れられた、というと嘘になるが、それに似た感じだった。
『我を信じる気になったか?』
「だって……あなたが嘘をつく理由なんてないもん。それに、わたしにはあなたが悪い奴には思えない。だから、信じるしかできないよ……」
目から次々と涙が溢れ出す。
―何年ぶりだろう、こんなに泣いたの……。
「なんでわたしがこんな目に遭わないといけないの……」
ユウナは獣を軽く殴った。何度も。
「わたしは……これから普通の人生を送るはずだったのに……これは何?」
嗚咽を噛み殺し、ユウナは必死に自分の不幸を訴える。
『不幸は他人に自慢するものではない』
「自慢なんかしてない!」
ユウナは拳に力を入れ、今度は強く殴った。
『自分の不幸を棚に上げて、他人にあたるのはやめろ』
「あなたに何がわかっていうのよ! わたしは……もう故郷に帰れないんだよ。親とも、友達とも、もう会えない……」
ユウナは俯く。
「あなたにその気持ちがわかる?」
『わかりたくもない』
ユウナは泣き崩れる。地面に座り込んだまま起きようとしない。
『おまえは今、自分が1番不幸だと思っているな。だがそれは間違いだ。この世界には生きたかったがなんの理由もなく死んでゆく人間がいる。その者たちのほうがよっぽど可哀想だ』
ユウナはこのとき、うるさい、といったつもりだったが、それは嗚咽で声にならなかった。
―このときわたしはとっくに決めていた。この世界で生きよう、と。
£££
頬を何かが伝っていた。まだ泣いていたのか、とユウナは自分に呆れる。だが、それは涙ではなく、そばの木の葉から悪戯に落ちてくる水滴だった。
空は青く、澄んでいる。周りの木々たちも、揚々と太陽の光を浴びていた。第一印象は、暗い、と思っていた森も、今は陽で明るくなっている。
ユウナは起き上がる。その起き上がり様に、何かに触れた。それはなんだか犬に触ったときの感触によく似ていた。だが、その正体は、犬の何倍も大きい獣だった。
ユウナは改めて思う。あの出来事が、夢ではなかった。もしこれが夢だったらどんなに幸せだったろう。今頃起床して、学校に行っていたに違いない。―遅刻して
いないとは保証できないが。
『起きたか』
心に入り込んでくる声。獣のものである。
「昨日はごめんなさい。何回か殴っちゃって」
『痣になっていた』
「えっ!? ごめ〜ん……」
『冗談だ』
ユウナは頬を膨らませてみせた。
「ねぇ、あなたはなんていう名前なの?」
ユウナが訊ねると、獣はそっぽを向いた。
「わたしはユウナ」
『……フェンリルだ』
フェンリルが、いかにもめんどくさい、という風に答えた。
「フェンリル、わたしをどこかへ連れていくっていってたよね?」
フェンリルは頷く。
『人間がいるところへな。この森に人がいては、獣たちに迷惑だ』
ユウナは少しニヤつき、
「それってわたしが迷惑な存在ってことだよね?」
問い詰めるような形で訊ねた。
『違う世界に来たからといって、あんなに泣いてもらっては迷惑だ』
押しつぶすような言い方であったが、ユウナは不思議と腹が立たなかった。むしろそうだな、と納得してしまうくらいだ。フェンリルの意見には一理あるし、説得力もなかなかだ。
『そういえば、寝言を言っていたな。ツッチーと呟いていたように思えが……?』
ツッチー、とユウナは心の中で呟いた。ツッチーもともにこの世界に来たはずなのだが、その姿はいっこうに見かけない。目が覚めたときには、たったひとりで雨に打たれていた。もしかしたら別の場所にいるのかもしれない。そうだとしたら、早く彼に逢いたい。逢ってお互いの安否を確認したい。そのことだけで、頭の中がいっぱいになってしまうほどだった。だが、それとともに、頭の中を覆っている何かがあった。
脳内の違和感。その違和感を探っていくと、フェンリルの姿が目に留まった。そういえば、フェンリルは人の心が読めるといっていた。もしかしたら、その違和感の原因はフェンリルなのかもしれない。
「ねぇフェンリル。フェンリルは人の心の中が見えるんだよね?」
『心に入り込むことはできるが、何を考えているかまではわからない』
ユウナはそれを聞いて安心すた。心の中を読まれるとあれば、いつでも心を解放できないし、自由に物事を考えられない。その鎖国したような状態は精神を不安定にさせるという。それを味あわなくて済むと聞いただけでも、小さな幸せを感じられた。
『そろそろ行こう。いい加減退屈だ』
「了解了解!」
昨日の涙が嘘のように、今日のユウナは太陽のような笑顔をみせる。何よりも驚いたのは、このひとりと1匹がこれほどまでに打ち解け合ったということだ。昨日のユウナは、フェンリルを完全に敵視していた。だが、今はこうして笑顔を向けるほどまでフェンリルと親しんでいる。そうなったのは、奇跡以外の何物でもないだろう。
―そしてこれから、ユウナの旅が始まる。
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