四章  迷宮の世界


漆黒の闇だった。
何の気配も感じない闇の世界。自分は闇の中で独りぼっち。
妙に寂しくなり、顔を伏せてシクシクと泣いてしまう始末。
もう高校生なのに、と彼はなく自分に呆れる。だが、よく考えてみると高校生だからといって泣いてはいけないというルールなど、世界には存在しない。
今だけだ。思う存分泣いておこう。
目から溢れるのは涙だけでなく、これまであった辛いことなども混じっていた。


泣いた後は笑顔。泣き顔を引きずりながらも、彼は笑顔をつくってみる。
鏡があるわけではないので、今どんな顔をしているのかは分からないが、たぶん人に見せられる顔にはなっている。

―この笑顔を好きな人にも見せられたらな。

彼の頭には彼女の姿が浮かんでいて、離れない。
ユウナ……いつも笑顔で決して弱音を吐かぬ、明朗快活な人柄。彼はそんな彼女のことを気に入っていた。
授業中や休み時間、彼女と目を合わせようとねばった。そのかいあって何度か目が合い、お互い微笑した。
だが、最早彼女の気配などこれっぽっちも感じない。何処か遠くへ行ってしまったような。とても寂しい。
2人を突き放したのは、美術準備室の奥にあった謎の穴。そこに落ちた瞬間から何も感じなくなった。
そういえば、あのあとどうなったのだろうか? 今何をしているのだろうか?
辺りを見渡すが、目に映るのは闇だけだった。

―彼は今頃気づく。深い眠りについていたことに。

起きたかった。しかし、彼には眠りから覚める方法が分からなかった。身体をよじっても、叫んでみても、いっこうに目覚める気配はない。
―それはすでに目覚めているからであった。
焦点がなかなか合わないため、てっきり眠っているのかと思っていたが、どうやら違ったようだ。
だが、起きているにも関わらず、何度目をこすっても焦点が合わない。目に映るものは白くぼやけているだけだった。

そのわけがようやく分かった。
普段は、視力が悪いため眼鏡をかけているが、それが今はない。何処へいったのかと手探りする。
やがて眼鏡の縁らしきものに手が触れた。それを摑み取ってかけてみると、目の前が鮮明に見えるようになった。


そこは彼の知らないところだった。ツッチーは粗末な家の中にいて、寝台に横になっていた。
狭い部屋には家具らしい家具はほとんどない。かろうじて枕元に板を組み立てただけの棚があり、たたんだ服と眼鏡ケースが置いてあった。
突然ドアが開いたので、ツッチーは文字通り跳び上がった。
開いた先には20代前半の男が手に御盆を持って立っていた。

「―調子はどうだ?」

どう、と訊かれてもどう答えればいいのか分からず、ただ呆然と男の行動を眺めていた。
ツッチーの視線に気づいた男は微笑んだ。

「おまえがこの家の前で倒れてたんで、拾ってやった」

どういうわけか分からないが、この男の世話になったのは確かである。

「ありがとうございます」
「いいって」

男は棚に御盆を置き、乗せていた湯呑を差し出した。中にはあからさまに怪しい液体が入っている。

「飲め。疲労に効くそうだ」

飲みたいとは思っていなかった―むしろ飲みたくなかった―が、勧められるがままに口に流し込む。
ひどい味がした。苦いとも不味いとも言えない変な味。吐き気がした。

「毒じゃないですよね?」
「薬だ。不味いほど効くっていうだろ?」

苦いほど効くの間違いだろう。
男は笑う。その偽善もなく、敵意もない笑顔が素敵だった。

「俺は“クルド”。あんたは?」
「“ツッチー・アイガシード”です」
「ふ〜ん。少し変わった名前だな」

自分でもそう思う。

「あんた何処の出身?」

故郷の名前を言うと、クルドが明らかに難しい顔をする。

「何処の国だよ」

故国の名を言うと、クルドは更に難しい顔をした。

「まさか、時空の狭間に巻き込まれたんじゃ!?」
「ジクウノハザマ?」

クルドの表情が険しくなったのを、ツッチーは見逃さなかった。
クルドは軽く溜息をついて手近の椅子に腰掛ける。

「これは大事だ……」

ツッチーにもこれが大事だということは分かっている。だが、何が起きているのかまでは分かっていない。

「ここに来る前に何かなかったか?」
「確か…変な穴に落ちました」
「それだ! それが時空の狭間。あんたはそれに巻き込まれてここに来てしまったんだ!」

よく分からないままツッチーは頷いた。

「頷けることじゃないぜ。おまえは今知らない世界にいて、もう帰れないって状況なんだ」

思ってもみなかった事態に、ツッチーは仰天した。
ツッチーはここを自分の知る世界だと思っていたが、どうも違うらしい。しかももう帰れない。事態は思っていた以上に良くはなかった。

「冗談ですよね……?」

いい返答は期待していないが、とりあえず訊いてみる。クルドは首を横に振った。

「信じるか?」
「信じたくないけど……身体は意思通りに動くから夢じゃないし……あなたが嘘を言っているようには思えないし……」

クルドが笑った。

「物分りのいいやつで良かった」
「―そういえば、僕の他にもうひとり時空の狭間に巻き込まれたひとがいるんですけど……?」
「残念だけど、俺が知ってる異世界の人間はおまえだけだ。ごめんな」

時空の狭間に落ちたとき、ユウナが一緒だったことはよく覚えている。だが、不運にも別々の場所に辿り着いてしまったらしい。

「もしそいつがこの世界の人間に助けられていたとしたら、きっと『セルク王国』に向かっているだろうよ」

クルドが何気なく言った言葉が、ツッチーには神の助言のように聞こえたらしい。

「僕今すぐセルク王国に行ってきます!」

そう言って駆け出そうとするツッチーをクルドが首を摑んで止めてみせた。

「セルク王国が何処にあるのか知っているのか? 行き方は分かるのか?」

異世界からの放浪者であるツッチーにこの世界の地理など分かるはずがない。

「俺も行く。おまえひとりで行かせるわけにはいかないだろ?」

確かに、ツッチーひとりでは何が起きるか分からない。何も知らないツッチーを騙して利用する者も少なくないはずだ。

「明日にでも出発しよう! 今日はもう陽が落ちてるからな」

ツッチーは生唾を飲み込んで、頷いた。





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