六章  ありがとう、さようなら


「フェンリル! フェンリル!」

何度呼びかけても応答はない。起きる気配もない。
ユウナは堪らず泣き出してしまう。
この世界に来て初めて出逢ったのがこの獣だった。異世界に迷い込んでしまったユウナの世話をしてくれた。
あんなに良くしてくれたのに、その大切な存在をここで失ってしまうのか。

「わたしのせい……?」

溢れ出したものが止まらない。

「わたしがしっかりしてなかったから……?」

泣きながら握り締めた手には鮮血がついていた。フェンリルの血である。その量からすると、生か死かは鮮明であった。

「嘘だよね……?」
『―ああ、嘘だ』

突然にして返ってきた言葉に、ユウナは驚きすぎてひっくり返ってしまった。
もうその心に響く声を聞くことはないと思っていたが、こうして応答が返ってきた。獣は死んでなどいなかったのだ。

『急所は外れた。命に別状はない』

言ってフェンリルは起きあがる。

「生きてた……」
『生きていてはいけなかったか?』

ユウナは横に首を振る。そして涙を拭って笑ってみせた。

『我は銃で撃たれたくらいで死ぬことなどない。首を落とすか、もしくは心臓を貫くか。それくらいしか我を殺める方法はない』

ユウナは安心した。
安心して涙を流した。

「心配……したよ」
『すまなかった』

ユウナはギュッと、鮮血のついた毛並みを抱きしめた。そうして更に泣く。

『ユウナは泣き虫だな』
「泣かしてるのは誰よ!」

微かではあったが、フェンリルが笑っているように見えた。獣が笑顔をつくれるのかどうか知らないが、ユウナにはフェンリルが笑ったように見えたのだ。



その後フェンリルにしばらくの休養を与え、旅を再開した。
あの事件があってからというものの、ユウナとフェンリルの距離はますます縮まり、良い関係が築かれていた。時にはちょっとしたことで喧嘩することもあったが、その後には必ず笑顔があり、ひとりと一頭の仲はますます良くなっていく。とても微笑ましい光景だった。

そのフェンリルとの楽しい旅も終わりが近づきつつあった。逆算して1週間森を駆けてきたのだから出口も近いだろう。
森の出口ではフェンリルとの別れが待っている。フェンリルはこの森を出ることができないという。理由までは分からないが、フェンリルにはフェンリルの事情があるのだろう。


❈❈❈


「―なんかさ、寂しいなぁ」

ユウナは憂鬱に星空を見上げて、独りごちた。それは今にも溢れ出しそうな涙を堪えるため。
今のユウナにとって、フェンリルはなくてはならない存在だった。フェンリルがいなくなると、ユウナはこの広い世界で独りぼっちのような気がして堪らなかった。
いつも一緒にいる分、離れたときが辛くなる。それは本当なのかもしれない。いつも一緒にいるから時には離れることがあっていい。そんな言葉は宇宙のゴミくずになってしまったような。
いつも一緒だから、いつも傍にいてくれるから、離れたときが辛いのだろう。だったら最初から一緒にいなければ良かった。それなら悲しまずに済んだのだ。
だが、よく考えるとその意見は間違っている。一緒にいる楽しい時間のほうが何倍も大切ではないだろうか? 
ユウナがフェンリルと一緒にいたことは間違いではなかった。そう思っていてもやはり別れるのは辛い。いや、そう思うからこそ別れが辛いのだ。

―時が進まなければいいのに……。

時間を止めて、この一夜を永遠に過ごしたい。このままフェンリルの傍にいたい。
ユウナは心地よい毛並みに包まれ、深い眠りについた。



目覚めると、辺りは明るくなっていた。朝が来たのだ、と知れたことを胸中で呟く。
フェンリルはいなかった。また何か事件に巻き込まれたのかと、ユウナは心配するが、刹那に帰ってきたので安心した。

「何処へ行っていたの?」
『出口を探しに。もうすぐそこだ』

良い報告だったのか、それとも単に寂しい報告だったのか、ユウナには区別がつかなかった。

『どうした?』

無意識のうちにボーっとしていたユウナに、フェンリルが訊く。ユウナは何でもない、という風に首を振った。

『―そんなに我との別れが辛いか?』

しょげた様子に見えたのか、フェンリルが訊ねてくる。

「辛いよ……。あんなに良くしてくれたヒトと別れるなんて……」
『―ユウナ、これから言うことをよく聞け。そして胸の内へしまえ』

ユウナは顔を上げ、フェンリルの顔を覗き込む。そうして首を傾げた。

『我もユウナと別れるのは辛い。しかし、いつまでも寂しがっていては何も変わらない。この世界に住んでいるのはユウナと同じ、人間だ―獣もいるが。同じ人間なのだから、仲間をつくって生きていけば良い。この先、ユウナにも仲間ができるだろう。そう思えば寂しくないはずだ。誰も一人になったりはしない。近くに必ず仲間がいて、笑ってくれる』

うん、とユウナは頷き、フェンリルの鼻を撫でてやった。

「ありがとう、フェンリル。そうだよね。いるのはわたしと同じ、人間だもん。仲間をつくれば寂しくない!」

言ってユウナは微笑した。
フェンリルも笑っていた。実際にそう見えたわけではないが、きっと笑っていたのだと思う。

『ユウナは強いのだから、何も心配することはない。男たちを殴り倒した勇姿、我は忘れないぞ』

ユウナは苦笑する。
あの時は無意識のうちにフェンリルを襲った男たちを殴った。いや、無意識だったわけではない。心の何処かにフェンリルを守りたいという気持ちがあったはずだ。

『またここに来るが良い』
「でもそれって犯罪じゃあ……」
『他の者には秘密でな』

ユウナが豪快に笑った。

「フェンリルってそんなヒトだったっけ?」
『ユウナのせいでこうなった』

ユウナは苦笑混じりの笑みを浮かべた。
自分はフェンリルの性格を動かすほど迷惑な人間だったのだ、と改めて思う。だが、それは最終的にはフェンリルの心を少し解放させたのだという。なんだか嬉しかった。それが、ユウナがフェンリルにできたたった一つの恩返しだったのかもしれない。

『言い忘れていたが、出口で迎えが待っている』
「え……?」

この世界に知り合いなどいただろうか? しかもわざわざ森まで迎えに来ているという。
ユウナが首を傾げると、フェンリルが歩き出した。

『セルク王国まで連れて行ってくれるらしい』
「そう……」



五分程度歩いて出口に辿り着いた。

「―早かったね」

見た目だけでは二十代前半の、男が待っていた。彼はこちらを向いて微笑んでいる。傍には本で見たことがある『竜』のような生き物が威風堂々と立っていた。
この男が迎えなのだろうか? 

「初めまして、ユウナ」
「どうしてわたしの名前を!?」

この見ず知らずの男が何故ユウナの名前を知っているのだろうか? 何故ユウナを迎えに来たのだろうか? 募るのは疑問ばかりである。

「名前はフェンリルが教えてくれたよ。君を迎えに来た理由は秘密」

言って男は微笑する。

「いろいろあって君を迎えに来た。それ以外は教えられない」
「そう……ですか」

よく分からないが、とにかくセルク王国へ連れて行ってくれるのだから良いだろう。だが、自己紹介をまだしてもらっていない。あちらはユウナのことを知っているようだから良いが。

「あなたは……?」
「私はテュール。召喚士さ」

召喚士についてはフェンリルからだいたいのことを聞いている。神獣を操り、永遠の命を持つ人間。いや、もしかしたら人間ではないのかもしれない。
この男が召喚士なら、あの竜は神獣だろう。

「こいつは黒竜のクロだ。よろしくやってくれ」

ユウナが見ると、クロと呼ばれた竜はご丁寧にも一礼してきた。フェンリルとは偉く違う。

「それではユウナ、お別れのご挨拶を」
「……はい」

振り向くと、フェンリルは少し離れた場所に待機していた。視線に気づいてこちらへと歩み寄ってくる。

「フェンリル……」

改めて向き合うと、何だか恥ずかしかった。

「いろいろありがとう。―大好きだよ」

ユウナはフェンリルに抱きついた。やはり温かい。その温かさを肌で感じるのもこれが最後かもしれない。寂しいが、ユウナは泣かなかった。代わりに太陽のような笑みを見せる。

『見てくるが良い。この広い世界を』
「うん!」

ユウナは最後にフェンリルの鼻を優しく撫でた。
そして歩き出す。見たこともないこの広い世界へ向かって。

「行こうか」

テュールの呼びかけに笑顔で答え、ユウナは駆ける。黒竜が背を低くして待っていた。乗れ、ということだろう。ユウナは遠慮なく飛び乗った。奇声に似たものが耳に入ったが、あえて無視した。
続いて後ろにテュールが乗る。

「しっかり摑まって」

言われてとっさに黒竜の角を持つ。とたんに竜が地を離れ、大空へと舞い上がった。

獣の森が段々と小さくなっていく。そしてフェンリルの姿も。
上から見てみれば、森は遥か彼方まで続いていた。途切れは見られず、ただ緑が果てなく続いている。

―さようなら。

振り返ることはなかった。振り返ると涙が零れそうだったから。







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