九章  少女との別れ


リオは固く目を閉じた。

―もう駄目だ。

そう思った瞬間、鈍い音が耳に突き刺さった。まるで何かが砕けるような音だった。
目をゆっくり開けると、目の前にあったはずの鋭利な爪は、消滅していた。あったのは、変わらない森の風景と、一人の女性の姿。きょとんと見つめていると、その視線に気づいたかのように、女性がこちらに踵を返す。

「大丈夫? 怪我はない?」

少女はこちらを見つめたまま固まっている。それに笑ってユウナはしゃがんだ。その瞬間、少女の泣き顔が新たな恐怖の色へと移り変わった。

「後ろ!!」

ユウナは慌てて身を翻し、跳びかかろうとしていた魔物をサマーソルトで弾き飛ばす。すると、向こうの草むらから次々と猿に似た魔物が出てきて、こちらとの間合いを詰められてしまう。

「リオは隠れてて!」

そそくさと木陰に隠れるリオの姿を認めると、ユウナは数匹の魔物たちとの間合いを一気に詰める。
一匹、二匹……五匹まではあっという間に散った。しかし、それ以降はなかなか頭脳の発達した奴ばかりで、攻めても攻めても簡単に回避されてしまう。あちらからの攻撃はない。と、油断していたら、傍にいた敵が跳びかかってきた。
ここは回し蹴りで、とユウナは足を振り上げる。その内側を魔物に取られて、次に腕に激痛が走る。見ると、右腕に魔物が噛みついていた。

―痛い!

ひときわ発達している牙が、肉に喰い込んで、全身を電流のようなものが駆け巡る。慌てて腕を振りまくるが、魔物はなかなか離れない。

「痛いっつってんだろ!」

ユウナは噛み付いている魔物の頭を思いっきり殴った。まあ噛み付いてきたのだから、これくらいの報いは受けて当然か。
やっと離れたところで次の魔物が跳びかかってくる。ユウナは高く跳躍した。魔物も全身全霊に飛ぶが、簡単に蹴り落とされた。しかも二匹も。
着地は当然敵の上へ。何か鈍い音がして、内臓が破裂したんだな、とそう思った。
この猿たちを相手にするのは楽じゃない。前にもこんな襲撃があったが、そのときの相手は人間で、しかも動きが鈍い。それとは打って変わってこの魔物たちの動きは、ユウナを追い抜くほどの勢いがある。
あんなに激しい動きをしたのに、ユウナは呼吸一つ乱れていなかった。どちらかといえば、奇妙なほど落ち着いている。

「何匹いるんだよ」

呟いた刹那、左右から一気に奇襲がきた。それと同時にユウナは跳ぶ。そのまま回転して、敵を蹴り落とした。そのようなこと、ユウナにはなんの造作もないのだが。
ユウナは着実に仕事をこなしていく。襲い掛かってくる魔物を叩き落として、蹴り上げて、首を折って。何故自分がこうまでするのか、自分でもよく分からない。
二十匹程度倒したところで、ユウナはふと止まる。

―限がないような……。

ここは魔物の住む森だ。どんなにユウナが倒しても、代わりはいくらでもいるはずだ。それにあの魔物どもは莫迦ばかだから、ユウナに恐れを生すことを知らない。だから戦っても、限がない。

「召喚士様ー! いるんでしょ?」
「ああ」

見てないで手伝えよ、とユウナは心中で毒づいた。

「こいつらを一気に倒す方法知らない?」
「知ってるよ! 私が倒してあげるから、安全なところに非難してなさい」

それを聞くや否や、ユウナはリオを連れ立って木陰に潜り込む。テュールが何をしようとしているのか分からないが、それが絶大的な効果を出してくれることを期待していた。
テュールは向こうの陰から姿を現して、それから暴れ狂う魔物たちの姿を見据えた。ざっと見て二十匹か、いや、三十匹か。どちらにしても変わりない。
手のひらを虚空へ翳し、目を閉じる。別にそんなことしなくても攻撃はできるのだが、少しでも見栄えがいいように飾りとしてやってみた。いわゆるただの出しゃばりか。
テュールの手のひらに白い光が出現し、それがだんだん大きくなってきて、暗い森を純白に染めていく。あまりにも眩しかったため、ユウナとリオは固く目を閉じてしまう。
刹那、もの凄い衝撃と突風が近辺に発生し、魔物たちがそれに呑み込まれて消滅していく。目を閉じていたユウナたちは何が起きているのか分からぬままその場に倒れこむ。衝撃と突風は二人をも襲おうとしている。

「やぁー!!」

叫んだのはユウナか、それともリオか、鮮明にならぬまま光が消えていく。最後の最後で目を開いたユウナは、そのさまを見守った。


ほとぼりが冷めたところでユウナは辺りを見渡した。
上から燦々と太陽の光が染み込んでいた。―辺りの木がなくなっていたから。
地面には大穴が威風堂々と空いており、木々たちは倒れたり焼けたりしているものが多い。そして先ほどまで莫迦騒ぎをしていた魔物たちは完全に消滅していた。いるのはユウナとリオ、そしてテュール、黒竜の四人―正確には三人と一匹―だけである。

「……何したの?」

訊くと、この惨事の原因者であるテュールは笑った。

「魔法を使ったんだよ。『ホーリー』っていう魔法をね。これでも最小限に抑えたけど……?」
「わたしたちまで巻き込むのやめてよね! 死ぬかと思ったじゃない!」
「生きてるからいいだろ。それに怒るほど元気があるじゃないか」
「あんな変なのに巻き込まれて、怒るのは当たり前でしょ! それにこっちにはリオだっていたんだから! ねぇリオ……」
「ごめんなさい!」

突然謝られたので、ユウナとテュールは顔を見合わせた。

「ごめんなさい。アタシのせいでこんなことに……。本当にごめんなさい!」

リオはその場に泣き崩れた。その泣き声だけが、惨事の跡地に響き渡る。
ユウナはそっと、蹲っている少女を抱きしめた。―包み込むように。

「全部が全部、リオが悪いんじゃないよ。それに、本当はわたしが両親のことを話したのがいけなかったんだし……」
「ううん。ユウナお姉ちゃんは悪くないの。アタシ、本当は自分が可哀想だったから……だから……」
「人間、誰でも泣くことはあるよ。けど、泣いてばかりじゃ駄目だよ。どんな時でも前を見なくちゃね!」
「うん……」

◆◆◆

家に戻った頃にはリオも落ち着きを取り戻していた。ユウナも風呂に入って身体を洗い、泥まみれの服を着替えてようやく深い溜息をついたところだった。

「森に一人で入るなんて、無茶にも程がある」

テュールがねめつけた。

「ごめんなさい……」

一方のリオは本当に反省した様子を見せている。俯き加減に、何度も謝罪の言葉を出している。騒がせて謝るのは当然か。しかし、ユウナはリオが起こした騒動について別に怒ったりしていなかった。いや、怒っていたが、それはリオに対するものではない。

「召喚士さまも謝ってよね」

ユウナはねめつける。確かにあの時テュールが魔法を使ってくれなかったら、ユウナは後に果てていたかもしれない。それでも味方まで魔法に巻き込むことはないだろう。一歩間違えたらユウナたちものども消滅していたかもしれない。

「いや〜、本当に悪かったと思ってるよ」
「でも顔はにこやかだよね」
「笑顔は大切だからね。無事だったのだから、それでいいじゃないか」
「そうだけど……」
『―人の気配が』

突然にして発せられた声に、ユウナは背後を振り返る。クロと一瞬目が合った。

「人の気配?」
『確かに。だんだん近づいてきているようです』
「外に出てみよう」

こんなときに誰だろうか。この村にはリオ以外に誰もいないはずだが。思考を繰り広げながら外に出て、答えはすぐに現れた。
遠くのほうから、人が近づいてきている。紛れもなく女性で、こちらに大きく手を振っていた。それにリオが反応して手を振っている。

「パン屋のおばちゃんだ!」
「えっ?」

そういえば、リオは知り合いにパン屋がいると言っていた覚えがある。
まもなく、そのパン屋の女性は集落に辿り着いた。歳のころは四十かそこらで、手には大きな荷を持っている。行李こうりの袋を腰にさげ、笑顔で目の前に立っていた。

「―リオちゃん、元気だったかい?」
「うん! ユウナお姉ちゃんと召喚士さまがいたから大丈夫だったよ」

それはよかった、と言わんばかりに頷いている。

「どうもお世話になっています。なかなか店を出られなくて、やってくるのが遅くなってしまいました」

ご丁寧に頭を下げられたので、ユウナは困ったようにした。

「とりあえず、そこの家に入ってください」

◆◆◆

女は大きな荷を降ろし、膝が砕けたかのように畳に腰を下ろした。どうにも長旅だったようで、相当疲れているらしい。そんな女を見かねてか、テュールが親切に茶を出している。

「どうぞ」
「お気遣いなく。―村が襲われたって聞いたんで慌てて駆けつけたんだよ。知り合いもいることだし、何よりリオちゃんのことが心配でねぇ。まぁ無事でよかったよ。安心した」

そうしてようやく深い溜息をついた。

「襲われた割にはなんも変哲がないけど……ただのガセネタだったのかい?」
「いえ。村が襲われたのは本当です」
「その割には荒らされたようすがないねぇ」

パン屋の女は訝しむように首を傾げて、それから窓の外を見つめていた。

「人がいないねぇ」
「みんな消えちゃったの……」

えっ、と上げた顔は驚愕に満ちていた。

「どういうことだい?」
「言ったとおりのことです」

テュールが言った。

「莫迦な召喚士が莫迦な考えを持って、自らの召喚獣に村の人間を消滅させた。それで生き残ったのはリオだけ。そこに偶然私たち二人が来て、一緒に生活している。それだけだ。もっとも、私はそんなことしないけどね。同じ召喚士として恥ずかしい思いだよ」

女はしばらくの間ポカン、と虚空を見つめていた。聞いたことがうまくまとまらないのだろう。まあそれも当然か。いかにも平凡な生活を送っていそうなパン屋の女にとって、村人が消滅するということが果たしてどういうことなのか分からないだろう。それに、召喚士という不慣れな単語が出てくると更に話が分からなくなるだろう。単純に聞いたままを頭に入れておけばよいのに……。
ユウナは息を吐いて手近の椅子に腰掛けた。テュールも適当な場所に腰掛けて、女が我に返るのを待った。


「―じゃあ……」

まもなくして上げられたのは、意外な言葉だった。

「リオちゃん独りぼっちになっちゃったんだね。お母さんたちも消えてしまって……。あんたらもいつまでもここにいるわけにはいかないんだろ? だったらあたしがリオちゃん預かるよ」
「えっ……」
「あたしは全然構わないさ。むしろリオちゃんが来てくれたらうちが賑やかになるしね!」
「おばさん……」

話の流れがとてもよい方向に向かっている、と思ったのはユウナだけではないだろう。テュールも、そして無言で立っているクロだってそう思っているに違いない。あとはリオの返答だけだ。意地っ張りだからもしかしたら拒否するかもしれない。一人でも大丈夫、と。

「うん!」

リオの返事は明るかった。表情も明朗で、無理していないのが窺える。ユウナは心の何処かで安堵した。リオの生活が保障され保護者も存在し、自分たちも旅を再開できるということでよかったではないか。

「お別れするのは寂しいけど、アタシはもう泣いたりしないんだから。それにあの街で友達もできるだろうし。寂しくなんかない!」

自信に満ち溢れた言葉がリオの口から出てよかった。否定されていたら本当に困り果てていたところだったが。それにしても、話が上手く進んだものだ。困っていたところにパン屋の女が現れて、しかも自らリオを預かると言ってくれて。上手すぎはしないか、と疑いたくなるくらいスムーズだった気がする。



翌日、夜明けとともにユウナたちは旅立った。―リオには秘密で。知られると、なんだか泣きたくなってくるから。
旅立つ前にリオの寝顔を見て、それでリオを見るのは最後となった。

黒竜はユウナとテュールを乗せて、右手に朝日を見ながら飛び去っていった。





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