終章 聖なる光


 村を発って間もなく、“ラミューダ海”と呼ばれる、先ほどまでいた大陸とセルク王国のある大陸との間に跨る大海に飛び出した。
 ユウナはその海を見てしばらく呆然としていた。別に飛翔している高さに驚いたからではない。眼下に広がる海があまりにも異様だったから――。
 海の色は闇より濃い黒色をしている。浅瀬の海水さえも黒いのでてっきり水自体に色が着いているのだと思っていたが、岸に打ち寄せる波は恐ろしいほど澄んでいる。

「海が深いんだよ」

 耳元でそう囁いたのは、ユウナの後ろでその身を支えていたテュールのものだった。

「尋常じゃないほどこの海は深い。あの光っているのは魚」

 細い指が示したほうでは幾数もの小さな光が集団でうごめいている。別のほうでも似たような光が点在し、まるで星空を見ているかのような錯覚がした。――あるいは宇宙の景観でも見ているかのような。
 その異様な景色は、ユウナにここが別世界であることを改めて実感させた。



 辺りが薄暗くなってきた。それが、夜が近いせいではないことをユウナは知っている。まるで闇に呑まれていくかのように黒くて厚い雲が空を覆いつくしていく。
 間もなくして、滝のように大雨が降り始めた。ユウナたちは生憎雨具を用意しておらず、冷たくて少々痛い雨に容赦なく打たれてしまう。びしょ濡れになるまでにさほど時間がかからなかった。

「ひどいね、これ」

 呟いた言葉は激しい雨に溶けていく。呟き声などどんなに近くても聞こえはしない。それほどまでに強い雨だった
 更に、厄介なことに風まで吹いてきた。これまた激しく、雨が飛沫しぶいて濃い霧のようになっている。視界はあっという間に閉ざされた。

「クロ、大丈夫かい?」

 テュールが訊くと、低い声が返ってくる。

『なんとか。方角も正確に掴んでおります』
「体力のほうも大丈夫かい?」
『余裕です』

 この真っ白な世界でよくも正確な方向が分かるな、とユウナは感心した。見えるのは真っ白な霧の壁だけで、下の海はまったく見えない。薄っすらとも、だ。天も地もユウナの目には映らなかった。

 異変を感じたのは、それから間もなくのことだった。


『――銀竜の気配が』

 声を上げたのはクロで、それを聞いて顔色を変えたのはユウナ。何でもないように落ち着きをはらっているのがテュールである。
 ユウナは銀竜の存在になんとなく畏怖感を持っている。村人を消滅させる力の持ち、その破壊力を悪用する存在に恐怖を感じるのは当然だろう。

『かなり近いです』
「クジャには勝てるけど銀竜にはかなわない。逃げよう」

 クロの身体が傾き、高度が低くなった。
 近い、というのがどれほどなのか、ユウナには到底分からなかった。ただ、それが予想以上に近距離にいるということは理解できる。その予想以上の距離とは……?

 声が聞こえたのは辺りをキョロキョロと見回していた時だった。


「――久しぶりだね、テュール」

 涼しい声が何処からともなく聞こえた。刹那に前方から影がぬっと出てきた。
 霧雨の中から出てきた大きな影と、正面から向き合っている。また、その影に跨る者もこちらをまっすぐに見つめていた。彼が乗っている竜は、こちらの黒竜より一回り大きく、その発達した翼は力強さを感じさせる。色は霧雨の中でも目立つ銀色。ギロリとこちらを睨んでいる目は、宝石の輝きを思わせるほど輝く緑色。
 乗っている人物は見た感じ、男。にしても痩せていて、肋骨が僅かに浮き出ている。しかし、なんとも美しい身体である。竜と同じ色の髪は、やはり同じように目立っている。それにしても――露出が激しい男だ、とユウナは思う。上半身の露出はまだ趣味として認められるが、下半身の露出は目を覆いたくなるほどひどい。見えるぎりぎりのところまで下着が下がっている。

「クジャ……」

 ユウナは半ば呆然として呟いた。あれがクジャで、そして銀竜なのか。黒竜より一回りほど大きな竜――クロとの差は歴然としている。

「おや、その娘はテュールの女かい?」

 見下したような視線とともに莫迦にしたような声が降りかかってきた。

「一生恋愛に興味なく死んでゆくのかと思ってたよ。うん、君に彼女ができて安心した」
「私自身も安心してるよ」

 こんなときに何言ってるんだ、とユウナは心中で毒づいた。まったく、クジャにしてもテュールにしても冗談がすぎる。というか、二人の性格は何処となく似ている気がした。ナルシストというのだろうか、自分が好きで堪らなさそうな。

「でもね、今死んでいくって言ったけど、召喚士には寿命がないんだよ」
「僕が殺すんだよ。自分の力に己惚れた君を」
「お前が私を殺す? 千年早いよ。銀竜の力なしでは何もできないくせに」
「言わせておけば勝手なことを……」

 怒気を含んだ声が聞こえた刹那、身近で激しい爆発が起きた。その威力は尋常ではない。巻き起こった爆風でクロは何百メートルか飛ばされてしまった。もちろん、乗っていたユウナとテュールも。
 クロの態勢が傾いて、ユウナは落ちそうになるのをテュールに抱かれて助かった。それからすぐに、発達したクロの角を掴んで身構える。
 絶えず打ちつける雨に苦戦しながらも、クロは必死で逃げ道を駆けていく。雨は容赦がない。まるで空の放浪者を迫害するかのように激しく打ちつけている。
ユウナはふと後方を振り向いた。雨の中には何の姿もない。銀竜も、クジャも――。それとも見えないだけか。何処かで、こちらを嘲ながら眺めているのかもしれない。

「隠れている」

 テュールが呟いた瞬間、横方から激しい光が突いてきた。ぎりぎりのところでクロがそれをかわし、また不安定な状態になった。

「何、今の!?」
「銀竜の攻撃だ。当たれば異界行き」

 異界行き、という言葉を曖昧に理解してユウナは頷いた。

『アハハハハ! 何処まで逃げる気だい?』

 クジャの嘲笑がユウナの鼓膜を叩いた。ずっと聞いていると頭がおかしくなりそうな音色だ。
 クロが斜めに傾いて、一気に降下していく。激しい重力と、冷たい雨に苦しめられながらの……逃亡? 嗚呼、間違いなく逃げている。銀竜から、そしてクジャから。
 クジャが大したことない、というのは本当らしいが銀竜の力は予想以上に強大だ。まあ村人を消滅させたくらいだから力強大であってもおかしくはないか。ユウナは半ば黄昏した意識の中で上空を見た。相変わらず激しい雨のせいで視界が開けない。その中で唯一見えたのは、眩いばかりの光。

 ――光?

 ユウナは目を見開いた。

 ――クロ、気づいてない。

 次にテュールを見た。

 ――テュールも気づいてない。

 ユウナは叫んだ。自らの危機を、そして召喚士と神獣の危機を。


 心 の 中 で 。





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