九章  月と太陽


 果てしなく広がる暗黒、そして闇にわだかまりする無数の光――。光たちはまるで交信するかのように点滅し、そうかと思えば元のように同じ光を放ち始める。月はそんな光たちを眺めながら、自らの存在をアピールするかのように、オレンジ色に輝いていた。
 夜――それはそんな幻想的な世界を見せてくれる時間帯だ。
 ユウナはおぼつかない足取りで小川に転落しないように歩いた。目がまだ闇に慣れぬうちは、歩くのも、またじっとしているのも怖い。いないはずの何かが潜んでいそうで足が竦んでしまう。
 小川の水は、昼間触れたときとは打って変わって、身体の芯まで凍り付いてしまうのではないかと思おうほど冷たかった。それでも桶に水を入れるのにはどうしても手を付けなければならず、ユウナは諦めて腕ほどまでを水に浸した。
 持ってきた三つの桶に水を入れ、大きなたらいに乗せて運ぶという原始的な運搬。それにしてもよく持てるものだ、とユウナは自分に感心した。
 風呂場は昔風の、タイルでできた造りになっている。バスタブは木製で、だいたい人二人が入れるくらいだろう。
 ユウナはとりあえず一度バスタブを洗って、それから先程汲んできた水を入れた。いくら節約だからといって、ここまでする必要はないのではないか、と心中で毒づきなら、手を動かした。
 桶三つ分の水、当然これだけで足りるわけがない。小川とこことを何回か往復しないといけないのかと思うとやる気が消滅した。これはティーダに水道の水を使おうと言うしかない。

「ねぇ、水道の水使っていいでしょ?」

 台所に立っているティーダに訊いた。

「女の子が水を運ぶなんて無理だよ。それに何回も往復しないといけないみたいだし……」
「ん〜じゃあ、使っていいッスよ。その代わり、あんまりいっぱい入れないこと」
「了解っす!」

 やはりこうでなくっちゃ、と思いながら、ユウナは蛇口をひねった。



「――ティーダって家庭的だよね」

 カレーを食べながら、ユウナが言った。

「そりゃあ、親が死んでからずっと一人で暮らしてりゃあ家庭的になるよ」
「わたしの周りの男の子ってみんな料理できなかったから、キミみたいに料理している男の子ってすごく珍しい。あ、でもキミは手料理にこだわってるみたいだけど、何か理由でもあるの? お店にはインスタントもあったけど……」
「インスタントは栄養が偏ってるし、簡単に作れちゃうとつまんないから」

 へぇ〜、とユウナは感心して頷いた。
 もしユウナが一人暮らしをしていたら、きっとインスタント食品に頼っていただろう。手料理ができないわけではないが、作るのが面倒だとかそういう理由でインスタント食品に頼るに違いない。
 その点で言えば、ティーダはすごいのかもしれない。練習で疲れているというのに、面倒だとも思わず料理を作る。逆に料理することを楽しんでいるようにも見えた。
 自分も見習わなければな、とユウナは心中で呟いた。

「ユウナは料理とかしないわけ?」
「う〜ん……時々するくらいかな。家ではほとんどお母さんが作ってたから。それにあんまり得意じゃないんだよね」
「じゃあ、明日の飯はユウナが作って。俺は食べる担当」
「ずるい!」

 ティーダはカレーを食べながら、悪戯に微笑んだ。

「でも味の保障はいないよ」
「いいよ。俺、ユウナの手作り料理なら何だって食べちゃうから。冷蔵庫のもの好きに使っていいッスよ」
「うん。簡単なものしか作れないけど、頑張ります」

 主食は白飯にしようか、それともトーストにしようか――。さっそく今から考え始めるユウナであった。


 
 夕食を食べ終えた頃には風呂もいい具合に沸いて、いつでも入れる状態だった。ここで問題となるのは順番である。ティーダは「レディーファーストだから」と言って譲り、またユウナも「疲れている人が先」と言ってお互い譲り合っていた。結果的には一歩も身を引かないユウナの意見が尊重され、ブリッツで疲れているティーダが先に入浴することになった。

「覗くなよ」
「誰がよ!」

 冗談だと分かっていて、後に本当に覗いてやろうかとユウナは企んだが、理性と良心がそれを咎めた。
 風呂場に向かうティーダを見送って、ユウナは先ほどまでカレーが盛られていた皿を洗い出す。そういえば元の世界にいた頃はろくに火事を手伝ったことがなかったな、と思う。学校があり、部活があり、家に帰って勉強して、それで一日が終わってしまう。それが週に五日、休日は部活と遊びで精一杯。家事は本当に暇なときか何かの気まぐれでしかやることがなかった気がする。
 こちらの世界では学校もなければ勉強もないようだし、何より二人暮らしだから家事をする機会が与えられる。毎日のように一人で料理やら風呂の準備やらをしている母の気持ちが、少しだけ分かったような気がした。

「上がったッスよ」

 白いTシャツに膝丈ほどのズボンという姿のティーダ。身体からはにわかに湯気が立ち上っている様はいかにも風呂上りと言った感じだ。

「あ、ユウナは俺の母さんの服着なよ、サイズもちょうど同じくらいだろうし」
「うん」
「じゃあとで洗面所のとこ置いとくから」
「ありがとう」

 洗面所――正確には脱衣所にあたるところにユウナは自分の衣類を脱ぎ捨て、湯気が立ち込める風呂場に入る。思えば最後に風呂に入ったのはリオの村にいたときのことで、三日ぶりだ。それでも獣の森のいた頃の一週間以上も風呂に入れなかった状況よりはだいぶマシか。
 少しバサついた髪の毛をシャンプーで丹念に洗い、枝毛になっていたらどうしようかと思いながら湯を被る。
 身体を擦ると、粉が吹き出てくるかのようにあかが零れ落ちた。リオの村で洗ったときはここまで出てこなかったのに……。
 今日の階段二百往復でユウナは大量の汗をかいた。それが垢が出てくる原因の一つと言えよう。
 とりあえず身体についた泡と垢を洗い流し、湯船に浸かる。
 心地よい熱さの湯にこれまでの疲れがすべて溶け込んでいくような感覚がした。このままここで眠ってしまいたいくらいだ。というか本当に寝てしまいそうだ。風呂で眠ると溺れて死ぬ可能性があるというので、眠ってしまう前に上がってしまおう。そう思うのだが身体が動いてくれない。この楽園から出たくないという気持ちは分かるが、このままでは本当に眠って――ユウナはすでに眠っていた。



 ゆっくりと、何かに引かれるとうにしてユウナは覚醒した。
 そこはベッドの上だった。窓からはまばゆいばかりの光が射し込んできている――もう朝か。
 それにしても自分は何故ベッドの上で眠っていたのだろうか? 昨日は風呂の中で眠ってしまったような……。嗚呼、ティーダが運んでくれたに違いない。がしかし、そうだとしたらユウナはティーダに自らの裸体を見られてしまったことになる。
 今服を着ていることを確認し、部屋を飛び出した。
 キッチンではティーダが朝餉の支度をしていた。それを見て、今朝は自分が朝餉の支度をするのだったな、と思い出すが、もうどうでもいい。それにすでにティーダは作り終えているようだった。

「おはよう」

 と、ティーダ。

「おはよう」

 訊きたいことより先に挨拶。

「ねぇ、昨日はキミがわたしをベッドまで運んでくれたんだよね?」
「ああ」
「裸……見た?」
「見た」
「全部?」
「全部」

 ユウナは自分の頬が恥ずかしさで紅潮していくのが分かった。十歳頃から誰にも裸体を見られたことがないというのに、十七歳になって見られてしまった。しかも異性に。

 ――恥ずかしくて死んじゃいそう……。

「――って言うのは嘘で」

 ティーダが明るい調子で大事なことを語り始める。

「ユウナはちゃんと自分の足で部屋に戻ったッスよ。俺は脱衣所からユウナを起こしただけ」
「よかった〜」

 ひどく安堵してユウナは大仰に息を吐いた。裸を見られることがどんなに嫌か男性に分かるだろうか。あんな……いや、何でもない。
 と、とにかく用意された朝餉を食べようと、椅子に腰掛けた。

「あ、ごめんね。今朝はわたしが朝御飯作るって約束したのに」
「いいって。どうせ早く起きて暇だったから」

 今日の朝食は目玉焼きがのった食パン一枚、ギザール野菜のピクルス、飲み物にアイスコーヒー、となんともシンプルなメニューである。お金の関係でここまでしか用意できなかったというのが事実だが、シンプルイズザベストだ。
 食べ終わってから歯を磨いたり、顔を洗ったり何なりして、ブリッツの練習へ行く準備をする。今日の練習は九時から十五時まで、とのこと。昼食はベナムが用意してくれるから心配ない。

 何故だか、厳しい練習になるような気がした。







inserted by FC2 system