三章 想い人
「すべてのことが無事に済んだら、君は自由の身だ。そうなれば、君はどうするつもりだい?」
「ああ……」
ユウナは目の前の戦いばかり見ていて、その先のことなど考えたことがなかった。目的であった想い人との再会を果たし、セルク王との面会も終わり、そして最大の使命である円卓の騎士討伐が成功すればとうとう自分には何の目的も目標もなくなるわけだ。
「ユウナくん、一つ僕に提案があるんだ」
白髪混じりの短い黒髪の男――セルク王、エリオル・ヴァレインは優雅にパイプを吸いながら、気障ったらしくウインクする。
「こんな噂を聞いたことはないかい? セルク王は“時空の狭間”を使うことができる、という」
「あ、ちらほらと耳にしたことはあります。本当なんですか?」
イエス、とまたもエリオルはウインクした。
「僕が唯一使うことのできる古代魔法だ。それで、君は元の世界に帰れるわけだが、どうするかね?」
「私は帰りたいと思っています。お母さんが待ってるから。でも、ツッチーはどうだろう」
「あの眼鏡の男の子かい? 話してみればいいじゃないか」
「そうですね」
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時間の流れは実に早い。気がつけばこちらの世界に辿り着いて一ヶ月近くも経とうとしていた。
ツッチーは星の散らばる夜空を見上げる。この夜空を見ていると、時々こちらの世界で生きていくのも悪くないな、と思えてしまうことがあった。好きな人との再会も果たしたし、セルク王国の国籍も得たものだから。
元の世界に帰ったところで何かよいことがあるわけではない。面白くもない学校に毎日通わされ、家に帰れば兄たちに虐められ……本当に、何もなかった。
それでも少しは帰ってみたいと思うのは、あちらが自分の故郷だからだろう。
「――ツッチー」
静かな夜の森を思わせる声だった。振り返ると、月光を受けて輝いている栗色の髪を戴いた女性が立っている。
「ユウナさん」
栗色の髪の女性――ユウナは微笑む。もしも天使が実在するのなら、こんな笑顔だったかもしれない。そう思えるほど、美しいものだった。
「なんか、久しぶりだね」
「そうですね」
最近は円卓の騎士討伐の作戦会議が重なりに重なって、二人きりで話す時間がまったくなかった。
「ねえ、ツッチー元の世界に帰りたいと思ってる?」
「へ?」
予想もしていなかった質問に、ツッチーは戸惑う。
「昼間にセルク王が、全部終わったら元の世界に帰してあげるって言っておられたから……」
「ユウナさんはどうなんですか?」
「私は、帰りたいよ。こっちのみんなとお別れするのは寂しいけど、お母さんを一人にするわけにはいかないから」
そうですか、とツッチーは息を吐く。
「ユウナさんが帰るのなら、僕も帰ります。それに家族も心配してるだろうし」
「……あんまり気が進まない?」
ツッチーの隣まで歩いてくるユウナの顔は、どこか寂しそうだった。
「ツッチーが残りたいって言うんだったら、私も残る」
「あ、いやいや! 僕も帰りたいですって!」
「でも、そんな顔してない」
ユウナはツッチーから視線を逸らすと、下を向いて黙ってしまう。このまま沈黙しているのは気まずいと思ったツッチーは、今の自分の心境を正直に話すことにした。
「本当は、あまり帰りたくないんです」
「どうして?」
「あっちには何もありません。学校はあまり好きじゃないし、家では兄たちに虐められるし……」
へえ、とユウナはツッチーに視線を向ける。
「お兄ちゃんがいたんだね」
「ええ。三人ほどいます」
「へえ。羨ましいなあ。私、一人っ子だから」
「……でも、虐められるくらいならいないほうがマシです」
意地悪な三人の顔が頭に浮かんできた。――大嫌いだ。
「どんな風に虐められるの?」
「兄たちは中学から高校卒業するまで主席だったらしいんです。それでいつまでもそこそこの成績しか取れない僕を莫迦にして……」
「ツッチーは考査何番だっけ?」
「三から五の範囲です」
「……充分」
はあ、とツッチーは大仰に溜息をついた。
「莫迦はこの家にいらない、とか言って僕を追い出そうとしたり、本当にひどいんです」
う〜ん、と隣に佇む想い人は、同情とはまったく違った声を上げた。
「これは私も勝手な想像だけど、きっとお兄さんたちはツッチーに頑張ってほしいんだよ。莫迦にされたツッチーが“負けないぞ!”って気持ちになるようにしたいんだと思う」
「そうでしょうか?」
「きっとそう。ツッチーのことが嫌いなんじゃなくて、好きだからこそ莫迦にしてるんだと思う。――やっぱり羨ましいな、そういう兄弟」
あの兄たちが本当に……。でもよくよく考えてみると、本当に家を追い出されたりしたことはないし、勉強をしているときには悪口を言われなかった。ユウナの言うとおり、ツッチーのことを思ってこその行為だったのかもしれない。
「帰りたいです」
この世界に来て一度も口にしたことのない言葉を、ツッチーはこのとき初めて口にした。
「帰って主席を取りたいです」
「うん。そのためにも私、頑張るよ」
ユウナさん、とツッチーは隣で微笑む想い人の名を呼んだ。
「僕は今、シールドの弱点などを研究しています。それから、衝撃忍耐システムを停止させずに攻撃できる方法を見つけたりとか」
「そうだったんだ」
ツッチーは想い人ばかりが頑張っていて、自分が何もしないというのは情けないと思っていた。だから王宮の研究団に参入して防御システムの開発などに当たっている。
「こういうこと言うのってすごく恥ずかしいですけど……一緒に戦えなくても、僕はユウナさんの傍にいます」
恥ずかしさで自分の顔が紅潮していくのを感じた。もしもクルドがこの場にいたら、あまりにも臭い台詞だ、と嘲笑されていたかもしれない。
そっと隣に視線を移すと、彼女は笑っていた。
「ありがとう」
果たして今のツッチーの言葉は、彼女の胸にどのように響いたのだろうか? ちゃんと心の支えになっただろうか?
「ツッチーの今の言葉、忘れないよ」
ユウナの温かい手がツッチーの頬に触れる。やがてその手は方に下りて、ツッチーの身体を引き寄せた。そして――
ツッチーの唇とユウナの唇が重なった。
いきなりの急展開にツッチーは驚きのあまり気絶しそうになる。
ユウナの柔らかい唇が自分の唇に吸い付いてきて離れない。何度も角度が変わり、ちゅう、といういやらしい音を立てる。ツッチーはどうすればいいのか分からなくて、ただされるがままの状態だった。
口に冷たいものが侵入してくる。柔らかいそれは、ツッチーの舌にしきりに絡んできた。――舌だ。彼女の舌が絡んできている。
誰が止めるわけでもなく、やがて激烈なキスは自然と幕を閉じた。だが唇には吸い付かれた感触が残っている。
「――私」
キスの首謀者である栗色の髪の毛の女性は、わずかに息を切らせながら告げる。
「ツッチーのこと好きだよ」
え、とツッチーは困惑と驚きを入り混ぜた声を上げた。
「誰よりもキミが好き。世界で一番好き」
顔を赤らめながら必死に訴える彼女の姿が可愛い、と心の片隅で思う。
「僕も好きですよ」
そういえばこの世界に来る直前、自分は彼女に告白しようとしていたな、とふいに思い出した、結局伝えることができなかった“好き”という一言を、今になってようやく伝えることができたのは嬉しい。そして更に嬉しいことに、彼女も自分のことを好きでいてくれた。
「で、でも今は……」
今は激烈なキスをしたせいで興奮して……
「ちょ、ちょっとし、失礼しますっ!!」
目を点にしてしまったユウナを視線の端でわずかに捉え、ツッチーは全力疾走した。――彼女の目の届かぬほうへと。
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