四章 大空城
近くの林の中まで走ってツッチーはようやく休息を取る。肩で息をしながら念のため辺りの様子を窺った。夜の林には何者の姿もない。そうしてようやく安堵の息をつく。
視線を股間に向けると、やはりそこは異常に盛り上がっている。そして触れると生暖かかった。
「キスくらいでこんな……」
キスくらいで、と彼は言うが、実際そこがそそり立つくらい刺激的な口付けだった。しかも相手の胸の膨らみがこちらの身体に触れているという豪華特典付きだったのである。これで興奮しないほうがどうかしているのではなかろうか。
「でも、情けないですね〜……」
はち切れんばかりに大きくなってしまったそこを見て、ツッチーは溜息をついた。こんなときにクルドにでも会ったりしたら――
「な〜にしてんの?」
突然にして背後からかかった声に、意識を失いかけるほど驚いた。慌てて下半身から手を離す。
声の主はクルドではなかったが、クルドと同じくらい会いたくなかった人物であることも確かだった。
「テュ、テュールさん! ビックリした〜」
短い黒髪の男――テュールは正体不明の微笑を浮かべている。
「やあツッチー。こんなところで何してるんだい?」
「べ、別に何もしてないですよ!」
「え〜、でもさっきあそこのほう触っていたみたいだけど?」
意外と目敏い。この男にそっち方面の話を取られれば一貫の終わりだ。
「――あ、ごめん」
だが、予想外にもテュールは悪びれた様子を見せる。
「ごめん。今から一人でヤるつもりだったんだね。邪魔しちゃったね。すぐに立ち去るから、続けてよ」
「ちょ、ちょっと待ってください!!」
「なんだい? あ、もしかして私にしてほしいのかい? 駄目だよ、私にはクルドがいるんだから。まあ、どうしてもって言うんだったらしてあげてもいいけど」
「ち、違いますって!」
ツッチーがテュールと会話するのは実はこれが初めてのことだった。最初に会った頃から彼が変態であることは理解していたが、まさか始めて会話する相手にまで変な話を持ち込むとは思ってもみなかった。
「まあ、男の子だから仕方ないよ」
「だから違いますって……」
あちらの面ではクルドよりもこの男のほう上を行っているかもしれない。
じゃあね、とテュールは手を振って本当に去っていく。ツッチーはそれを見送って、大きく息を吐いた。
「ユウナさん、僕のこと好きだったんですね……」
静かな林の中でツッチーは独白する。
+++
夏の空には巨大な入道雲浮かんでいる。本当に大きい。まるでその中に何かを隠しているかのようだ。
そしてそれは決して間違いではなかった。巨大な裂け目が雲に生じたかと思うと、そこから黒い影が這い出てくる。暗黒の色をしたそれは、世界最大にして“仄暗い海”と呼ばれる海のそれよりも不気味に思えた。
城――そう、それは確かに城なのだ。闇色一色のそれは地ごと引っこ抜いた木のような形をして大空に浮遊している。
遥か昔に、これと同じものがこの世界に存在していた。殺戮神が棲むとされるその城に地上の人々は恐怖したという。
大空城、と名づけられた。
「――懐かしい」
冷房もないのに、その空間は妙に涼しかった。
暗いとばりがわだかまった広間はとにかく広い。中央に置かれた円卓から四方の壁までの距離はおおよそ五十メートル、天井の高さはゆうに二十メートルを超えているだろう。数人の男女がその広い部屋を見回していた。
「本当に懐かしい。まさか再びここに来ることがあろうとは」
かつて彼らはここを住処としていた。しかしある日、敵対する者たちに住処もろとも封印されてしまったのである。ここ――大空城に上がったのは、実に数百年ぶりのことだ。
「あの日、円卓で我らが主君に中世を誓った日のことが思い起こされます」
一人の男が中央に置かれた円卓に触れる。
「ここが我らの始まりでしたね。本当に懐かしい」
「お前さっきからそればっかだな」
愛しいものを撫でるようにして円卓に触れている男に、後ろで赤毛を弄っていた女が一声浴びせた。苛々した足取りで円卓まで歩み寄ると、それに腰掛ける。
「行儀が悪いですよ、“赤の鬣”」
男は、やんちゃな生徒を叱る教師めいた口調で赤毛の女に忠告する。
「アーサー王は何やってんだあ? ここに来てもう二分くらい経ったぞ」
「たった二分くらいで……」
子どものように足をじたばたさせている赤毛の女を見て、男は深い溜息をついた。――正面の扉が開いたのはそのときである。
晴天の秋空を思わせる青い髪に、同じ色の目。驚くべきほど整った顔は、どちらかというと若く見える。また、男女の区別がつくにくい。やってきたのはそんな人物だった。
「全員そろったようですね」
声から察するに男なのだろう。広間に集まった者たちを一望し、穏やかな微笑を浮かべる。
「お久しぶりです、アーサー王――ブラスカさま」
先ほどの教師めいた男が慇懃に会釈したのに合わせ、あとの者も頭を下げた。青髪の男――アーサー王=ブラスカは苦笑する。
「頭を上げてください。私は人に礼拝されるのがあまり好きでない」
妙な緊張感が漂っているのは、この場の誰もがブラスカの恐ろしさを熟知しているからであろう。当の本人はそれを知ってか知らずか、優しい微笑みをもって十二人の人間たちを見ていた。
「私の勝手であなた方を目覚めさせてしまって本当に申し訳ない」
そんなことはありません、と主張したのはやはりあの教師めいた男――名をガウェインという――だった。
「我らもあなたと同じにございます。破壊の先に何があるのか知りたい」
「あたしゃ別にそんなの興味ないけどな」
無遠慮に、しかもぶしつけ極まる声を上げたのは“赤の鬣”――ベディエルである。
「あたしゃただ地上のゴミみたいな奴らを消したいだけだ」
「そのゴミみたいな奴らの中には私たちも入っているのかな?」
まろやかな声色とは裏腹にブラスカの質問はその場にいた人間を凍りつかせた。
いや、とベディエルは首を横に振る。
「一応仲間だろうが。形だけでも」
「おや? 私はあなたのことをちゃんと仲間だと思ってますよ?」
優しい微笑みの裏で彼はいったい何を考えているのだろうか? そう思ったのは決してベディエルだけではないだろう。しかしながら、その考えていることがとてつもなく恐ろしいことであることくらいは、彼に忠誠を誓った身だから分かる。
「さて、昔の懐かしい話をしたいところですけど、生憎時間がない。この世界の破壊の手順を話し合いたいと思います」
→