十八章 天使の刻印


 ジュウ、という肉の焼ける音がした。同時に、辺りに肉が焼け焦げたような臭いが広がる。
クレルムは目の前にある首のない死体から視線を外し、手で鼻を覆った。

「終わった……」

必要のなくなった扇子を閉じ、安堵の息をつく。――隣人が膝をついたのはそのときだった。

「どうしました?」

 クレルムの問いに赤毛の女は答えない。苦しそうに左胸を抑えながらその場に伏せた。

「ベディエルさん!?」

 女にしてはガタイのよい体から、徐々に血溜りが広がっていく。

「なんか……刺さってたみたい」

 苦し紛れに発せられた声は寝起きのときのような――あるいは死に際の人間のような弱々しいものだった。

「――始末したぞ……ってベディエル!?」

 敵の処理を終えたらしいベイリンが異常に気づいて声を上げる。

「――せっかく明るい未来が待ってると思ってたのに、これじゃ駄目だな」
「喋らないで!」
「だって今のうちに言っとかないとさ。もう、言えねえかもしんねぇ」
「そんなことない」

 クレルムはすでに血の気を失っているベディエルの手を握る

「あたしが死んだらベイリンのこと頼んだぜ……。あんたの城の警備員か何かにしてやってくれ」
「言われなくてもそうするつもりです。だから……死なないで」

 彼女は今日出会ったばかりの人物である。にもかかわらず、クレルムに協力し、更に守ってくれた。破壊とともに生きるという、円卓の騎士ナイツオブラウンドの固定概念を一掃し、手を取り合う未来を見せてくれた大切な人――
 死んでほしくない、と本気で思う。自由な未来を夢見ていた彼女をここで死なせたくない。未来を生きてほしい。
 しかし、血溜りの量からして生死は鮮明だった。不死身を誇る円卓の騎士といえど、身体の七十パーセント以上を失えば……。だが、自分に何ができよう? 回復魔法など心得ていないクレルムにできることといえば、無事を祈ることだけだった。

我は天使たる汝の力を召喚する

 唐突に響き渡った声は、天国から届いたように思えた。まろやかな女の声で、すべての生命の母のような優しさを含んでいる。

すべてを守る者よ すべてを愛する者よ 汝の癒しを我に与えたまえ その白き輝きによりてすべての生を助く ――来たれ“天使の刻印”

 天使の声が魔法の詠唱を完了した刹那、漂白されたように辺りが白く染まった。だが、それも一瞬のこと、景色はすぐに元通りになり、灰色の床を壁が目に入る。

「……今のは……」

 クレルムは背後を振り返る。
 そこにいたのは、純白のシスター服に身を包んだ美女と、白い毛並みの大きな狼だった。
 美女のほうはクレルムと同い年くらいで、肩より少し長い茶髪に左右それぞれ色の違った瞳をしている。絵画かいがにさえなりかねないその美しい容姿は、まさに天使が降臨したかのよう。――だが、確かにそれはクレルムの知っている顔だった。

「シスター・ユウナ」

 クレルムは世界の“究極の兵器アルテマウェポン”の名を口にした。

「――一応、回復魔法をかけておきました。でも“天使の刻印”は生命を維持するだけだから、早くお医者さんに診てもらわないと」
「分かりました。――他の方は?」
「みんな無事です。飛空艇で待ってるから、王女さまも」
「あなたは?」
「私は……あの人を倒さなきゃいけない」

 あの人、とはこの先にいる最強の円卓の騎士――アーサー王のことだろう。そして、その者こそが眼前に佇む天使の父であり、絶対に始末しておかなければならぬ人物だ。

「私も一緒に行きます!」

 王女たる者がここで引き下がるわけにはいかない。世界のために戦う覚悟はある。

「いけません」

 だが、クレルムの申し出は呆気なく拒否された。

「私一人で戦わなきゃ、決着がつかないから。それに王女さまは生きなきゃ駄目です。国のためにも」
「でもこれであなたが死んだら意味がありません」
「大丈夫。私は絶対に死なない」

 ユウナは天使のような微笑みを浮かべる。

「怪我人を助けてあげて。――フェンリル、この人たちを飛空艇まで」

 フェンリル、と呼ばれた白い毛並みの狼はゆっくりとした足取りで血溜りに顔を浸しているベディエルのところまで歩く。すぐそばにいたベイリンがベディエルの身体を持ち上げ、フェンリルの背に乗せた。

「無事を祈ります、シスター・ユウナ」

 クレルムは最後に、美しい尼僧に一礼してきびすを返す。
 他のものがすでに飛空艇に戻っている、ということはおそらく先ほど倒したグレイルともう一人の男で、アーサー王以外の円卓の騎士は最後だったのだろう。若干二名ほど残っているが討伐の必要はない。――もう敵ではないから。
 そして、この世界を守るための計画もいよいよ佳境かきょうを迎えようとしている。美しい天使は破壊の悪魔を討つことができるのだろうか……。


 +++


「――我らが主よ。希望の灯火ともしび力を与えたまえ――エィメン……うぅ」

 神に祈りを捧げつつ、気持ち悪そうに手で口を押さえたのは、アロハシャツを着た中年男である。昔はよい男であっただろう顔は少し青ざめ、白髪混じりの短髪は少し逆立っていて、とても健康的とは思えぬ様子だった。

「飛空艇動いてねぇのに酔ってんじゃねぇよ」

 その中年男の背後から蹴り上げんばかりの痛い突っ込みをかましたのは茶髪の若い男。女性なら一度は見惚みとれそうな、端整な顔立ちに面倒な色を浮かべている。
 この二人が一国の王と王子であるとは、誰も思わないだろう。王があのように動いていない飛空艇で乗り物酔いに陥り、情けない姿をさらすだろうか? 王子があのように汚い言葉遣いで父に突っ込みをかますだろうか? 否定ネガティブ、あれはどう考えても世間知らずの田舎者である。

「つーかさ、ホントに俺らはノコノコ戻ってきてよかったのかよ? 大勢でかかったほうが早いだろ?」

 茶髪の男――セルク王国王子クルドは、とても王子とは思えぬ砕けた口調で言った。

「君は本当に分かってないね〜」

 面倒のかかる学生を相手する教授のようにため息をついたのは中年男――セルク王エリオルである。

「彼女がここで一人で戦わなければ、自分の心に決着がつけられないじゃないか。自分の手で微妙な親子関係に終止符を打ちたいのだよ。そうすれば、楽になれる」
「でもここでユウナが負けたら意味ねぇじゃん」
「それでもあの子は戦うさ。娘の義務ってやつだね。もしも僕が破壊を企んでいたいたとしたら、君はどうする?」
「ぶっ殺す」

 何の迷いもなくさらりと暴言を吐いた息子に、父は片眉を少し吊り上げた。

「君が今言ったのと同じで、彼女も自分の父をいさめたいと思ってる。父を愛してるが故にね。つまり、君も僕のことを愛してるってことだよ★」
「てめぇはそういう解釈しかできねぇのか」








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