十九章 始まりの扉
「誰か僕に話しかけてくれたまえよ。でないと嘔吐してしまいそうだ」
「だったら便所に行きやがれ。ってかそれ以前に動いてねえつーの」
飛空艇ヒルダガルデのブリッジでは、セルク王親子の場かな会話が繰り広げられていた。他に尼僧が二人と眼鏡の若い男が一人、その他何名かの飛空艇スタッフがいるが、いずれも沈黙を守っている。
そのせいもあってか、親子の莫迦な会話が余計莫迦に聞こえた。王族の会話とは思えぬ、ボケと突っ込みのオンパレード。
「――あの」
そんなわんぱくワールドに割って入った弱々しい声は眼鏡の男のものだった。
「ユウナさんは本当に大丈夫なんでしょうか?」
眼鏡の男――ツッチーは想い人のことが心配でならなかった。何せ彼女は自分と同い年の少女だし、たくましいとはいえ決して無敵ではない。
いつかどこかの湖でユウナは自分の父と戦うことをひどく悲しんでいた。愛する父を討つことなどできない、と涙していた覚えがある。最終的に戦う道を選んだが、それでも心中で躊躇いはあっただろう。
そして、彼女の父は最強の破壊神――世界を滅ぼす力を持った者である。そんな人間――あるいは神――を討つことができるだろうか?
「大丈夫だよ、ツッチーくん」
セルク王は微笑む。
「彼女は絶対に生きて帰ってくるよ。愛しの君が待ってるからね〜。信じて待つんだ」
その言葉がひどく温かく感じられたのは、ツッチーの心が心配という寒気に覆われていたからかもしれない。信じる、という新たな感情は少しだけ安心感を生んだ。
「――戻りました」
落ち着き払った女の声がしたのはそのときだった。
「戻りました」
クレルムがブリッジの出入り口から声をかけるとそこにいた一同が例外なくこちらを振り向いた。その視線はクレルムではなく、その背後に佇む重々しい鎧を身につけた巨漢――ベイリンに向けられているようだった。
「怪我はないかい?」
近づいてきた父に頷いて、背後の偉丈夫を振り返る。
「この人は……仲間です。私に協力してくださりました」
おそらく、この中にいるだいたいの人間がベイリンの正体を知っていることだろう。円卓の騎士の中でも図体がやたら大きい彼は資料でもかなり目を惹いた。
「破壊衝動がないそうです。だから私とともに円卓の騎士と戦ってくださりました。おかげで三人討伐することができましたわ」
「うん。よくやってくれた」
仲間になったもう一人の円卓の騎士――ベディエルは重傷を負って今はこの飛空艇の医務室に休ませている。重傷と言っても天使の回復魔法のおかげで傷は軽くなっているので、あとは目を覚ませばよい。
「ここに戻って来られたってことは、シスター・ユウナに会ったんだね?」
「ええ。一人で奥に行かれてしまいましたけど」
「やっぱりそうか。うん、まあそれはそれでいい。あとは彼女に任せよう」
加勢しなくてもよろしいのですか、と訊きかけたのをクレルムは賢明にも呑み込んだ。天使が残した言葉と同じ答えが返ってくると分かったからである。自分の手で決着をつけなければ、真に決着はつかない。
「僕たちにできるのはここまでさ。アーサー王は人外の力を持っている。どんな優れた化学を用いたって敵わないよ。対等し得るのは“究極の兵器アルテマウェポンの力のみ。他の円卓の騎士を倒せただけでもすごいと思おう」
セルク王は淡々と告げると、ズボンのポケットからパイプとライターを取り出した。そして、いつものように優雅にシガーの味を楽しむ。
「そういえばテュールくんがまだ帰ってきてなかったね。どうしたことやら……。心配でならないんじゃないのかい、クルド?」
その何気ない問いかけに、エリオルのそばに立っていた茶髪の男――クレルムの兄であり、セルクの王子であるクルドの顔が一瞬にして憤怒に染まる。
「あいつのことなんか全然心配じゃねぇよ!」
「……ってことは心配なんだね。君は表に出るからすぐに分かる」
クルドと召喚しテュールができているというのはクレルムも知っていることだった。噂によると二人はすでにコトを済ませてしまったらしい。
兄がいつもテュールを毛嫌いしているように見えるのは愛情の裏返し。本当は好きで好きで堪らないのだろうが、やはり人前でいちゃいちゃするような恥知らずな真似はできないのだろう。
「クレイ、お前今変なこと考えてただろ?」
「いえ」
兄の鋭い質問を軽くスルーし、何食わぬ顔で窓の向こうの夜空に視線を転じる。
――大きな三日月が希望の光のように輝いていた。
+++
夜――それは漆黒の闇が支配する世界である。
大空城の中にも闇がわだかまり、完全に漆黒の世界をつくり上げていた。だが、目が慣れてしまえば困ることもない。通路には障害物はないようだし、目指す先まで曲がり角すらない。
ユウナは鞘のない古びた剣の柄を握り、正面にある扉まで歩く。
あの扉の向こうにいるのはもう、一人しかいない。十三人の円卓の騎士のうち、十人を殲滅、二人は倒す必要がない。残る一人はあの扉の向こうにいるはずだ。
破壊神、殺戮神、炎の王――様々な肩書きを持つアーサー王だが、いずれもユウナの印象にはない。重要なのはその者が父であるということで、他の点はほぼどうでもよいことの範囲である。
だが、相手が父だからと言って手加減するつもりはない。父だからこそ悪いことをすれば諌めたい、と思う。だから自分の持つ力をすべて出し切って父を討つ。
この扉を開ければ、すべてが始まり、すべてが終わる。今の気持ちは配られたテストを開くときのそれに似ているが、こちらには大きな責任感があった。
ユウナは今、世界というとても大きなものを背負っている。自分の行動次第で世界の運命が左右されるのだ。アーサー王を討って平和を手に入れるか、アーサー王に滅ぼされるか――いずれも二つのうちの一つの道を歩むことになるだろう。
意を決したように右手を伸ばすと、冷たい石の感触がした。そしてゆっくりとそれを押し開ける。
→