二十一章 破滅の王が愛するもの


 ユウナはひまわり畑を駆ける。足の踏み場もないほど詰めて咲いているにも拘らず、不思議とひまわ
りに接触している気はしなかった。
 目指す枯れ木の下では青く長い髪の巨漢が優しく微笑んでいる。だが、その手には忌々いまいましい凶器――“湖の剣エクスカリバーが握られていた。

 ――両者、交わす言葉はない。

 ユウナが高々と跳躍したとき、巨漢の姿は残像だけを残してかき消えている。そうかと思えば白昼夢
のような唐突さで空中に出現し、“湖の剣”を旋回させていた。

「はっ!」

 気合の声とともに繰り出された一振りは、巨漢――ブラスカの身体を弾き返す。態勢が崩れたところ
に更に一太刀、その一撃はブラスカの左肩に命中した。

「くっ」

 背中から地面に叩きつけられた巨漢は小さく呻く。
 ここで更に攻撃を浴びさせれば、確実に敵の息の根を止めることができるだろう。しかし、ユウナは
着地してもすぐには攻撃に出なかった。なぜか、足が止まってしまう。一瞬だが、ユウナの心に生まれ
た何かが父を傷つけることを躊躇ためらわせたのだ。

 ――あの人はもう、お父さんなんかじゃない。

 ソロモンソードの柄を強く握り締めると再び走る。――だが、先ほどの一瞬がすべてを決めた。ユウ
ナが剣を振り下ろしたとき、そこに呻くブラスカの姿はない。一瞬のうちに起き上がったらしい巨漢は
離れたところに佇んでいる。

「そう簡単にはやられないさ」

 再びブラスカの姿がかき消える。その音速に迫るスピードは人間の動体視力では捕捉できない――ユ
ウナを除いては。
 視線の端でこちらに迫ってくる影に神経を集中させ、それが間接距離に入ったところで剣を旋回させ
る。
 重い衝撃が白刃を通してユウナの腕に伝わり、一瞬だけソロモンソードを落としそうになった。そし
て、またしてもその一瞬がすべてを決めた。
 下からすくい上げるようにして振り上げられた剣がユウナの剣を弾き飛ばしたの
である。慌ててそちらに跳躍するが、ブラスカがそれを見逃すはずがない。青く長い髪の巨漢は、空中
であっという間に直接距離に入ってきて白刃を旋回させている。
 赤い花弁――鮮血が飛び散ると同時にユウナの胸に鈍い痛みが走った。

「ぐっ……」

 バランスを失って地面に落下、そこでユウナは血の溢れ出る胸を押さえる。

「一つだけ選択肢を増やしてあげよう」

 その温かみの欠片もない声は、すぐ近くから聞こえた。ユウナの正面、背の高い、青く長い髪を持つ
男がその端整な顔に邪悪な微笑みを貼り付けている。

「私とともに破壊の道を歩む、というのはどうだい?」

 その一言は、ユウナの神経を逆撫でするに充分すぎるほどだった。

「私は、あなたとは違う」

 ただならぬ憤怒がユウナに我を忘れさせた。気がついたときには身を起こして、ブラスカに飛び掛ろ
うとしている。

「残念だ」

 “湖の剣”は容赦なく旋回された。我を忘れ、武器を持たぬユウナにこれは防げまい。煌いた白刃は
ユウナの太ももを抉る。

「っ!」

 激痛にユウナの口から奇声がもれた。この傷では、もう立つこともできまい。

「終わりだな。それではもう戦えないだろう」

 淡々と真実を告げる巨漢は、その青い瞳に少しだけ悲しそうな色を浮かべている。

「この世界は終わる。そして、ユウナも」

 もうユウナには動く気力も体力も残っていない。胸と太ももに深い傷を負い、今もそこからは鮮血が
溢れ出ている。頼みの武器も明後日のほうへ飛ばされて、まさに絶体絶命だった。
 ユウナが死ねばこの世界はブラスカの手に落ちるだろう。ユウナは世界が残す最後の希望だったのだ
から。それを失った世界の行く末は目に見えている。

 ――もう、どうすることもできないの?

 このまま死んで、すべてが終わってしまうのだろうか?
 虚空に高々と上げられた白刃が煌く。わずかに朱に染まった先のほうから赤い露が滴っていた。
 それが振り下ろされたとき、自分はもうこの世にいない。もう、何もかも終わってしまう。

「――何してるの?」

 済んだ女性の声がしたのは、ユウナが死を覚悟したときだった。



「何してるの?」

 背後からした女性の声に、ブラスカは振り返る。こんなときに乱入してきたボンクラはどこのどいつ
だろう? そう思いながら視線を上げた刹那、年齢不詳の端整な顔立ちが凍りつく。

「なぜ……」

 そこにいたのは、肩ほどまでに金髪を伸ばした女――髪の色に調和した緑色の瞳をしており、その美
しい顔に微笑みを浮かべている。
 それは、ブラスカのよく知る人物だった。いや、それどころかよく知りすぎている。

「お母さん」

 ブラスカが呼ぶよりも早くユウナが声を漏らした。その表情は自分同様、驚愕の色をしている。

「二人ともどうしちゃったの? 変よ」

 一方の女――ブラスカの妻であるその者は、のんきな様子で首を傾げている。

「どうして君がここに?」
「何変なこと言ってるのよ。さ、帰りましょ」

 今自分が目にしているものは何だろう? 幻?
 最初、ユウナが見せている幻想だと思ったが、その当事者であるはずのユウナが驚きを見せているの
でどうやら違うらしい。
 では夢か? ――いや、もしかしたらこれまでに見てきたものが夢で、今体感しているものが現実な
のかもしれない。自分が世界を破壊しようなど、そして自分が娘と戦うなど、ありえないのだから。
 そう思うとひどく安心した。悪夢から目覚めて、これからまともな人生を送ることができる。そして
、すべてを愛し続けることができるのだ。

「お父さん!」

 背後から黄色い声がした。振り返ると、ひまわりを掻き分けて出てくる茶毛の少女の姿がある。年の
頃はまだ十にもならぬ純粋な娘――剣を持って走ってくる大人びた姿はどこにもない。やはりあれは夢
だったのだ。

「ユウナ。いいことを教えてあげよう」

 そうだ。せっかくだから娘に教えておこう。悪夢から学んだ大切なことを。

「この世界に大切じゃないものなんかない。人も花も木も、みんな生きていて、みんな大切なにしない
といけないんだ」
「うん! 私、みんな大切にするよ」

 無邪気に微笑む娘に微笑み返し、ブラスカはそばに佇む妻に視線を転じる。
 彼女は娘とよく似た屈託のない微笑みを浮かべていた。それもまたブラスカにとって大切なものであ
り、一生守っていきたいものの一つである。

「――我は汝を召喚する」

 その妻の口から意味を持たぬ文字の羅列が飛び出したのはそのときだった。








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