二十二章 神々の歌
「我は汝を召喚する」
意味を持たぬ文字の羅列を口走る天使のような優しい声は、確かにブラスカの妻のものだった。
「主の力を信じ、主の力によって天の裁きを下さん」
なぜだろう? その声は愛しい人のもののはずなのに、ブラスカの神経にひどく障る。そして、胸の置くから湧き上がるこの情動は――
「我は破壊の神たる汝を召喚する」
ブラスカがその呪文を唱えたのはほぼ無意識のうちのことだった。それを唱えなければ自分の身によからぬことが起きる、という本能的なものがそうさせたのである。
「紅蓮の炎に祝杯を捧げし汝に我の意思を授けん」
「白光に包まれし汝の力 我の力と共鳴せん」
澄んだ女性の声と、憎しみのこもった男の声が重なった。いずれの声も喋るのは意味を持たぬ文字の羅列である。
そこに立っているのは確かにブラスカの愛した女性だった。今だって感情が溢れ出んばかりに愛しているのに……。なのに、この湧き上がってくる情動はあらゆるものを破壊したがっている。
――夢じゃなかったのか?
ブラスカは絶望した。破壊の先にあるものを知って。
破壊の先にあるのは失った悲しみだ。そして、失ったものはもう二度と戻ってこない。――破壊の先には悲しみと絶望、そして大きな後悔しかないのだ。
「呪詛による赤い輝きによりてすべてを討ち滅ぼせ ――来たれ “滅びの炎”」
その古代魔法は、この世のすべてを滅ぼすことができる。だが、その得体の知れぬものに恐怖して今まで一度も使ったことはない。果たして何が起きるというのだろうか?
“滅びの炎”を唱えたことに後悔と少しばかりの期待を抱いたとき、ブラスカの巨体がくの字に曲がった。
「!?」
胸が締めつけられるような感覚が襲った。息が苦しい。堪らず膝をついて、吐血してしまう。
「……そうか……」
視界が徐々に霞んでいく中、ブラスカは古代魔法の限界を――ひいては自分自身の生命の限界がきたことを悟る。
古代魔法は自らの命を削る。そして、“滅びの炎”はその中でも一番命を削るらしい、ブラスカはそこで限界を迎えたのだ。
だが、それでいい、と思う。これで何も破壊されずに済むのだから。自分が死ねば世界は――妻と娘は救われる。
「汝は光 時の果てより現れし者なり ――来たれ “神々の歌”」
天使の声が魔法の詠唱を完了した刹那――世界が発光した。
+++
「何かしら?」
夜の浜辺、一人の女――集めたゴミを分別していた若い女は暗黒の海に目を向ける。遥か遠くの海上で何かが光っていた。最初、月かと思ったが、本物の月は今彼女の真上で輝いている。
あの大きさからして、船のライトやその類のものではない。では何か――そう思ったとき、女はその光が徐々に大きくなっていることに気がついた。――いや、違う。大きくなっているのではなく、こちらに迫ってきているのだ。
「ひ……」
女が逃げようと足を踏み出したとき、その光はもうかなり近いところまで迫っていた。闇の色をした海が漂白されたように白く染まる。
次の瞬間には浜辺もろとも女を包み込み、更に街のほうへと伸びていっている。
その光は、ひどく温かかった。そして、なぜか懐かしい気がした。遥か昔の楽しかった思い出を呼び覚ますような……
――数分後、全世界がその白い輝きに包まれた。
+++
「――ユウナ」
優しい男の声に導かれてユウナは目を覚ます。
最初に目に飛び込んできたのは、晴天の夏空。巨大な積乱雲が天高くに浮かんでいる。そして、その空の景観をわずかに遮る黄色の花弁は――
「ひまわり……」
ユウナはゆっくりと身体を起こす。
そこは一面のひまわり畑だった。そよ風に吹かれて黄色い花びらが舞い、数え切れぬほどのひまわりはいっせいに揺れる。
「ユウナ」
眠っているときに聞いた声と同じ声に呼ばれ、ユウナはそっと背後を振り返った。
青く長い髪が風になびいている。その主、一本の枯れ木の下で優しく微笑んでいる背の高い男は――
「お父さん」
それはもう、“湖の剣”を持つ破壊神ではない。父の温かさがこの離れたところからでも感じられる。
ユウナは走った。あのとき――幼い頃に同じ場所で走ったときのように。そして、父の温かい胸に飛び込んだ。
「お父さん……」
なんて温かいのだろう。その温もりはまるですべての生命の母のように優しかった。
ユウナはそっと顔を上げる。父の青い瞳と視線が交わって、微笑んだ。
「大切じゃないものなんかないんだよね?」
うん、と父は頷く。
「母さんを守ってあげなさい。世界で一番大切なものだから」
「……お父さんは?」
「私は……もう行かなくてはならない」
大きな温もりがふっと離れる。すがるものがなくなった身体は急に寒くなったような気がした。
「空からユウナたちのことを見守っているよ」
その優しい言葉は、実はとても残酷なものである。二人の永遠の別れを証明しているから。
「私――」
胸の奥から熱いものが込み上げてくる。それは一筋の涙となってユウナの頬を伝った。
「お父さんの娘でよかった」
「私も、ユウナのような娘を持ててよかった」
父はいつもの優しい微笑みを浮かべて、ユウナの頭を撫でる。
「元気で」
「うん」
ユウナは涙を拭い、最後に決意したように口を開く。
「ありがとう」
その一言は、これまでに口にしたどんな言葉よりも感情がこもっていた。千の言葉を並べるよりもずっと大きい。
徐々に薄らいでいく父の姿が完全に消えてしまうまで、ユウナは微笑を絶やさなかった。
→