終章 大切なもの
「――やあ、キャサリン。今日はいい天気だね〜。そうそう、僕はちょっと疲れちゃったから、王宮のほうはもう少し君に任せていいかな?」
<えぇ、構いませんよ>
「ありがとう。君は本当に頼りになる」
<円卓の騎士討伐に比べれば、政など優しいものです。それより、シスター・ユウナはどうなさったの?>
「彼女は元の世界に帰してあげたよ。ツッチーくんも一緒にね」
<後悔してませんこと?>
「後悔? そりゃ、二人とも魅力溢れる存在だったけど、あっちが彼らの世界だからね〜。――じゃあ、そろそろ切るよ」
<はい。お身体をお大事に>
「うん。愛してるよ、マイスイートハニー」
短い黒髪の男――エリオル・ヴァレインは電話の受話器を置いて、愛用のパイプを口に咥えた。
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「なんかわりぃな〜。ってか、王女に見舞われてるあたしって幸せ者?」
「……もう元気そうなので明日からは来ません」
冗談だって、と慌てて弁解するベッドの上の女に対し、茶髪の美女――クレルム・ヴァレインは一つ微笑む。
円卓の騎士討伐が終了して十時間、飛空艇の医務室で危篤に陥っていたベディエルはようやく目を覚まし、こうして会話できるほどまでに回復している。
もしもあのとき“彼女”がいなかったら、ベディエルはすでにこの世にいなかったかもしれない。だが、代わりに、というわけではないが、“彼女”はこの世界から跡形もなく消えてしまっている。ベディエルを救った、純白の天使……。
「そういえばベイリンはどうした?」
「彼ならあなたの食事を取りに行きましたわ」
「そっか」
クレルムは持ってきた花束をベッドの脇に備え付けられた台の上に置き、手近の椅子に腰掛ける。
「……あたし、生きてんだな」
え、とベッドの上の女の口から漏れた言葉に短い疑問符を返した。
「自分が騎士からはずれるなんて思ってもみなかった。妄想で自由は何度も見てたけど、いざ自由になってみると不思議な気分だな。嬉しいのは間違いねぇ。――あんたのおかげだよ。ありがと」
「感謝しなければならないのは私のほうです。あなたたちがいなければあの城で死んでいた身ですから」
「えへへ、じゃあ駆け引きゼロってことで」
目立つ赤毛を掻きながら、ベディエルは照れくさそうに笑う。
「さて、傷も治りかけてるし、そろそろ今後のこと考えねえと。つっても何もしたいことねぇんだよな〜」
「では、セルク城の復興作業に協力してくださりませんか? あなた方が復活した際に全壊してしまったので」
「おう。力仕事は任せな。――そのあとは?」
「あなたの能力を生かせる仕事はたくさんあると思いますわ。まずはそれを探すことです。そのあとは――自由に生きてください。自分で手に入れたものですから、遊ぶなり、結婚するなり好きに使ってくださいませ」
「……なんか今いらんのが一個混じってたけど、まあそうさせてもらうさ」
開け放たれた窓から風とともに潮の香りが入ってくる。その窓の向こうには広い世界が――ずっと円卓の騎士に縛られていたベディエルたちの自由がある。
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「本当に行くのか?」
短い茶髪の男――クルフレイド・ヴァレインは眼前に佇む黒髪の美男子に訊ねる。
「行くよ」
あっさりと帰ってきた答えに内心で肩を落とす。
本当は行ってほしくないのだ。遠い南の国なんかに――自分の目の届かぬところに。
「ここにいる必要はもうないからね。自分の場所に帰る」
「帰ってどうする?」
「う〜ん……地味に暮らすさ。家庭菜園とかして生きてみせるよ」
「そんな面倒なこと、ここにいればしなくて済む」
黒髪の男は苦笑する。
「それでも帰るよ。故郷は懐かしいものだからね。それに、永遠に会えなくなるわけじゃない。時々会いに行くさ」
時々、では駄目なのだ。毎日その顔を見、その存在を感じたい。心中で賢明に訴えるが、それを口に出すことを己のプライドが許さい。
「……後悔しないか?」
「しない」
「絶対に?」
「絶対に」
「……本当か?」
「君も意外としつこいんだね。私に行ってほしくないのかい? だったら、“お前のこと愛してるから行かないでくれ”って言ってごらん?」
「バーカ! 誰が言うかよ、そんなこと。さっさと消えやがれ」
「はいはい。――クロ」
クロ、と呼ばれた黒竜は主が背に乗りやすいよう態勢を低くする。その上に軽やかな動きで乗った黒髪の男は、クルドを振り返った。
「元気でね」
「ああ……」
このまま別れると、もう二度と彼には会えないような気がする。あの温かい微笑みも存在も、戻ってこないのではなかろうか? それなのにクルドは不機嫌な顔でそれを見送っていた。
――俺の気持ちは……。
これでは何も変わらない。
「ちょっと待った」
プライドなんて持って言いたいこともいえぬ男などやってられない。気づいたときには今にも大空に飛び立とうとしていた彼らを引き止めていた。
「俺から離れるな」
その人を束縛したいと思うのは、本気で愛しているから。愛する者にはずっとそばにいてほしい。
「お前のこと愛してるから、行かないでくれ」
「クルド……」
一国の王子が同性愛者であるなど、些細な問題に過ぎぬ。世間風は冷たいがそれがなんだというのだろう? これまでだってそんな逆風にも耐えてきたではないか。今更世間の目を気にして大切なものを失うなど、絶対に嫌だ。
「お前は世界で一番大切なやつだから」
クルドは微笑む。すると黒髪の男――テュールは屈託のない微笑みを返してくれた。
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「――主よ、この世界が永遠に守りたまえ」
金髪の尼僧と赤毛の尼僧は、今日もユウナレスカ像の前で祈りを捧げている。大切なものが失われぬように、と。