終. 誓い


 帰る場所がある。
 待ってくれる人がいる。
 帰って来てくれる人がいる。
 自分を愛してくれる人がいる。
 自分の愛する人がいる。

 木吉と過ごした五年間はそれが当たり前だった。当たり前になっていたからこそ、そのありがたみや相手の愛情の大きさに気づくことができなかったのかもしれない。
 けれど短い間ではあるが木吉と離れてみて、若松はそれに気づくことができた。そして自分の犯した過ちの大きさを改めて思い知らされた。
 元に戻ることはできないかもしれない。幸せだった日々は返って来ないかもしれない。そう諦めかけていたが、木吉はまた若松に会いたいといってくれた。無論、会いに行って必ず復縁できるとは限らないが、希望はまだ消えていない。

 電車を降り、駅を出ると若松は走り始めた。
 時間を決めていたわけではない。けれど早く木吉に会いたくて、愛しい彼を抱きしめたくて、急ぐ心が足を動かす。
 駅から約束の公園まで二キロ近くあったが、若松は一度も止まることなく最後まで走り続けた。
 公園に着いてすぐ、ブランコに座る長身の影が目に入った。それが目的の人物であるとすぐに気づいて、若松は肩で息をしながら歩み寄る。

「鉄平……」

 口に馴染んだ彼の名前を呼べば、長身の影はブランコから立ち上がる。夜道を照らす街灯の元に浮かび上がった顔は、若松の愛する人のもので間違いなかった。

「孝輔……」

 さっき電話で聞いた、柔らかな声。いつも若松に安心感を与えてくれ、ときには天然ボケを口にする、慣れ親しんだ声だ。たった一週間聞かなかっただけなのに、もう何年も聞いてなかったような気がする。
 木吉の顔は少しやつれたようだった。思わず胸がギュッと締めつけられるような感覚に襲われるが、歩みを止めることなく、一歩一歩彼との距離を縮めていく。しかし、あと二、三歩で触れ合うという距離で、どちらともなく立ち止まった。この短い距離を詰めるには、いわなければならない台詞があった。

「裏切って、ごめんなさい。馬鹿なことしちまたってすげえ反省してる。謝って済むようなことじゃねえのかもしれねえけど」

 もしも時間を戻せるなら、青峰と再会しても絶対に浮気なんてしなかった。そうしたら木吉にこんな顔をさせずに済んだのに。今更遅い後悔なのかもしれないが、後悔せずにはいられなかった。

「鉄平のことすげえ好きで、大事にしていこうって決めてたのに……傷つけて悪かった。ホントはオレの顔見るのもすげえ嫌なのかもしんねえけど、オレやっぱり鉄平のこと好きで、いないと寂しくて、会いたくて会いたくて堪らなくなった」

 感情が高ぶって涙が出そうになるのを懸命に堪え、若松は言葉を絞り出す。

「都合のいいこといってるんのはわかってるよ。それでも鉄平の中に少しでも元に戻ってやってもいいって気持ちがあるなら、もう一度チャンスをくれ。今度は鉄平のこと幸せにするから。鉄平が傷つくようなこと、絶対にしねえから」

 二度と彼を泣かしたりしない。二度と彼に辛い思いをさせない。そんな誓いの数々を噛み締めながら、若松は木吉の返事を静かに待つ。
 夜の公園に人気はない。都会の喧騒から少し離れているのも相まって、何の音も聞こえなかった。いや、たとえ音がしていたとしても、いまの若松にはきっと聞こえなかっただろう。
 木吉の返事次第で、若松のこれからの人生が決まる。その瞬間を待つのに緊張しないわけがない。鼓動は打つ速さを増し、手足はわずかに震えている。自分たち以外のものを気にかける余裕などどこにもなかった。
 木吉の口は言葉を紡ぐこともなく、ただ白い息を吐き出している。視線は二人の間のちょうど真ん中辺りに落とされたまま、動かない。ここまで走ったおかげで身体が温まった若松とは違い、ここでじっと待っていた彼はきっと寒いに違いない。
 抱きしめて、温めてやりたいと思った瞬間、木吉の足が前触れもなく踏み出された。二人の間にあった短い距離を一瞬で詰め、手を伸ばせば簡単に届くところに入ってきた。

「孝輔っ……」

 消え入りそうな声で名前を呼ばれたかと思うと、大きな身体――若松にとっては自分と変わらぬサイズの身体だが――がそっともたれかかってくる。そのまま彼の両腕に抱きしめられ、残っていたわずかな距離がついになくなった。

「俺も戻りたい」

 そして耳元で木吉の声が言葉を紡ぐ。

「俺も、孝輔ともう一回最初から始めたい」

 さっき電話で聞いたときと同じように、彼の声は震えていた。震えているのは声だけでなく、若松にもたれた身体もわずかに震えている。その身体を強く抱きしめれば、耳元で鼻をすする音がし始めた。

「鉄平っ……」

 そうして若松も耐え切れなくなり、溜まっていた涙がどっと溢れ出した。
 久しぶりに抱きしめた、木吉の身体。ひどく懐かしく感じると同時に、若松の胸の内に漂っていた灰色の靄に光が差し込んだような気がした。いましも真っ暗になってしまいそうだった心が、その光を受けて明るさを取り戻していく。

「ごめんっ……本当に、ごめん」
「いいんだ。こうしてちゃんと俺のところに戻ってきてくれたから」

 じんわりと身体に染み込んでくる、彼の優しさと温かさ。こんな自分にもそれを与えてくれることが嬉しくて、けれどやはり申し訳ないとも思う。

「うっ……くっ、俺、寂しかった。うぅ……孝輔いないと、駄目だった」
「オレだって、鉄平がいなくて、寂しかった……っ」

 しばらく二人は抱き合ったまま泣き続けた。公園内に人気がないとはいえ、すぐ前の道をいつ人が通るかもわからないのに、恥も忘れ、声を出して泣いた。

「本当にいいのか? オレは鉄平を裏切ったんだぞ?」
「青峰とのことは思い出すといまでも腹が立つし、悲しくもなるよ。でも、最終的には俺を選んでくれた。青峰に比べたら俺なんか全然駄目なのに、それでも選んでくれたことが嬉しかった」

 それに、と木吉は一拍置く。

「この一週間孝輔に会えなくて死ぬほど寂しかった。御飯も喉を通らないし、仕事も手につかなかった。そのくらい孝輔は俺にとって大事な存在だったんだ」

 こんな自分を大事だといってくれる。こんな自分ともう一度やり直したいといってくれる。これほどまでに自分を想ってくれて、優しくしてくれる人間など他には一人として存在しないだろう。だからこそ、今度は彼を大事にしなければならない。持てる力の限り彼を幸せに導いてやらないといけない。

「オレにとっても鉄平はめちゃくちゃ大事だよ。なのに……ごめんっ」
「もう謝らなくていいよ、孝輔。もう過ぎたことなんだから、どうしようもないだろう? それに浮気されるってことは俺に魅力が足りなかったってことだろうし」
「そんなことねえって! 鉄平は男前だし、優しいし、この世で鉄平に適うやつなんていねえよ!」
「いや、孝輔がいるじゃないか」
「オレなんて取るに足らねえよ。鉄平と比べるのも失礼だ」
「いやいや、孝輔のほうがカッコイイし、モテるじゃないか」
「はあ!? おまえのほうがよっぽど女どもにいい男だとか噂されてるよ!」
「それなら孝輔のほうが長身のイケメンって噂になってるよ」
「どっせぇい! おまえのほうが――って、何やってんだ、オレら」

 そこで自分たちがいかに馬鹿げた討論をしているか気づいて、二人同時に噴出した。夜の公園に二人の明るい笑い声が響き渡る。こんなふうに自然に笑うのも、ずいぶんと久しぶりな気がした。

「でも、本当によかった。もう孝輔と話すことも、こうやって抱きしめるのもできないと思ってたから。迎えに来てくれてサンキューな」
「礼をいうのはこっちのほうだよ。こんなオレを受け入れてくれてありがとう。オレはどうしようもないやつだし、いろいろ駄目かもしれねえけど、これからもよろしく頼む」
「こんな、なんていうなよ。オレには孝輔しかいないんだから」
「うん……うん、ありがとう、鉄平っ」

 出し切ったはずの涙が、再び瞳から溢れ出す。けれどいま流れたのは嬉しさや安堵が入り混じった、温かな涙だ。

「帰ろうか。俺たちの家に」
「おう」

 若松の右手を木吉の大きな左手が握ってくる。寒い中を待ってくれていたはずなのに、不思議と繋がれた手は温かい。まるで彼の持つ優しさそのもののようだと、握った手の感触を確かめながら若松は思った。

 約三年間の日々を色鮮やかなものにしてくれた愛と、若松の心の奥に住み着いて離れなかった初恋。どちらも大事で、捨てがたくて、若松の心に迷いを生んでしまった。そのせいで大事な人と繋がれた幸せの糸が切れかけてしまった。
 だが、それがあったからこそ木吉が何よりも大事であることに気づけた。再び繋がった糸はより強固なものになり、もう二度と二人が離れないようにしてくれるだろう。木吉の隣を歩きながら、若松はそう信じることにした。



 季節は巡り、気づけば桜の花も散る時期になっていた。
 テーブルの上に並んだ自作料理の数々を眺めながら、若松は一人大きく頷いた。
 今日は木吉と付き合って丸四年の記念日である。せっかくだから少し奮発して会席膳でも食べに行こうかと提案したのだが、木吉は若松の手料理が食べたいといって聞かなかった。そのため、こうして料理に精を出していたわけである。
 その間に木吉は用事を片づけてくるといって出かけた。部屋を出る直前にいっていた帰宅時間はもうすぐだ。こちらも料理は仕上がったところだし、タイミングはばっちりだろう。
 案の定、それから少し経った頃に木吉が帰宅した。テーブルに並んだ料理を目にした途端、嬉しそうな声を上げる。

「美味そうだな〜。さっすが孝輔!」
「オレの手にかかりゃこんなもんよ。冷めねえうちに早く食おうぜ」
「そうだな」

 料理はいつも作るものより豪華だったが、食事中の雰囲気はいつもと何一つ変わらなかった。テレビを観ながら食べて、時々テレビの内容に突っ込みを入れたり、今日あったことを話したりしながら、穏やかに時間は過ぎていく。

「そういえば、さっきどこに出かけてたんだ?」

 出かける前は行き先を聞きそびれたと、今更だが気になっていたことを若松は木吉に訊く。

「ああ、ちょっとな。ある物を買ってきたんだよ」
「ある物?」
「うん。とっても大事なもの。あったあった」

 ガソゴソと鞄の中を漁っていた木吉は、その中から黒色の小さな箱を取り出した。

「なんだ、それ?」
「孝輔が開けてみてくれ」

 箱には英語で何やら書いてあるが、若松にはそれが何を意味するのかさっぱりわからない。だから中身もまったく想像がつかなくて、少しドキドキしながら蓋を開けた。
その中には一回りほど小さな箱が入っており、それをそっと取り出してまた蓋を開けるが――その中には更に一回り小さな箱が入っていた。なんとなくそうだろうな、と思いながら次の箱を開けると、予想どおり更に小さいサイズの箱が姿を現す。

「……ひょっとしてオレへの嫌がらせか?」
「そんなわけないだろう。最後まで開けてみたらわかるって!」

 いわれるがままに箱を開け続け、出てくる箱のサイズもいよいよ二センチ四方ほどの大きさになってくる。次こそは何か違うものが出てくるだろうか、と少しだけ期待を込めて蓋を開けると――何か光るものが若松の目に飛び込んできた。

「あれ、これって……」

 銀色に輝く、美しいリング。表面には細やかな模様が入っており、素人目にも高価なものだとすぐにわかった。
 指輪、だった。まさかそんなものが出てくるとは思ってもみなくて、若松はまじまじとその指輪と、傍らで嬉しそうに微笑む木吉の顔を見比べた。

「俺たち、お互いにそういうものをプレゼントしたことってなかっただろう? いい機会だからと思って買ったんだ。あれ、でもその箱の色は俺のだ。孝輔のは……ああ、これだ」

 そういって鞄の中から取り出したのは、いま開けた箱の一番外側のものと同じサイズの、白い箱だった。それもいまのと同じように、箱の中に箱が入っている形になっているようだ。

「これ結構面倒だな。おもしろそうだからお願いしてみたんだけどな〜」
「自業自得だっつーの」

 ようやく出てきた指輪は、いま若松が手にしているものよりも少しサイズが小さいようだった。体格がほぼ同じだが、指の大きさはそれぞれ違っていて、木吉のほうがやや大きい。天然の木吉がそれをちゃんと考慮してサイズを選んだことが少し驚きだったが、あえて口にはしない。

「高かったんじゃないのか? すげえいい指輪じゃん」
「まあ、そこそこな。でも付き合ってもう四年になるから、こういうのを一つくらい持っててもいいと思ったんだ」

 それに、と木吉は少し照れくさそうな顔をした。

「もう三年半も一緒に暮らしてきたんだ。それって結婚しているようなもんだろ? 結婚してるのに結婚指輪がないんじゃ、なんか指が寂しい」
「なんだ、それ……。結婚って……まあ、確かにそうかもな」

 この国では、男同士では結婚はできない。しかし、普通の男女で三年半も同棲しているカップルがいるのだとしたら、それは夫婦か、あるいは結婚を前提に付き合っている者たちである。それに従うなら木吉のいうとおり、自分たちは結婚しているか、それを前提に付き合っているのと変わらないだろう。

「でも、ちゃんとプロポーズしたことなかったから、いま改めてさせてくれ」
「いや、別にいいって。つーかなんで鉄平からなんだよ。俺も男なんだぞ」
「じゃあ孝輔からしてくれるのか? ドキドキするな〜」
「しねえよ! 恥ずかしすぎるわ!」
「じゃあ、やっぱり俺からだな〜」

 木吉の大きな両手が、若松の両肩にそっと触れてくる。

「孝輔」
 
 自分を呼んだ彼は、いつになく真剣な顔をしていた。たまに見せるそんな表情に、いつも自分は胸を疼かせていたとふと思い出しながら、このときもやはり若松の鼓動は速まっていた。

「俺と結婚してくれ」

 シンプルな台詞だったが、格好をつけるということをあまりしない彼らしい台詞だと若松は思う。だからこそ素直に嬉しかったし、嬉しすぎてなんだか目頭が熱くなってきた。

「よろしくお願いします」

 了承の返事をした途端、木吉に容赦なく抱きしめられた。少し苦しいとさえ感じるくらいに強く抱きしめられ、若松も負けじと彼の身体を強く抱く。

「オレは馬鹿で、おまえを傷つけるようなこともしてしまったけど、絶対大事にするよ。だからこれからも一緒にいてくれ」
「確かに辛いこともあったさ。でも、あれを乗り越えられたからこそ、これから何があっても大丈夫だと思う。俺たちは絶対幸せになれるよ」
「オレはいまだって十分幸せだよ」
「俺もだよ。孝輔がそばにいてくれるから、毎日が楽しくて幸せだ。孝輔がいない世界なんて、俺にとっては生きる価値もないかもしれない」

 こんな幸せが赦されるのだろうか? 木吉を裏切り、傷つけた自分が幸せになっていいのだろうか? あの事件があってからずっと、心の片隅でそう思うことが幾度となくあった。
 けれど当の木吉が若松を望んでくれる。一緒にいたいと、ともに幸せになりたいといってくれる。だからその幸せを素直に噛み締めていいのだと、このとき若松の中からようやく迷いがなくなった。

「指輪、俺につけてもらっていいか?」
「ああ」

 差し出された木吉の左手。それにそっと触れ、やはり大きな手だと改めて思う。

「あ、その前にあれやろうぜ! 結婚式に妊婦さんがいう、雨にも負けず、風にも負けずってやつ」
「妊婦じゃねえ、神父だ! しかも台詞全然ちげえし!」

 そうだっけか、と笑う木吉に溜息をついて、若松は正しい台詞を記憶の奥底から引き出す。

「えっと、あなたは健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、これを愛し、これを敬い、その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?」
「誓います! よし、指輪!」

 銀色の美しいリングは、木吉の薬指にぴったりと嵌った。それを木吉は嬉しそうに眺めたあと、若松のほうに再び視線を戻した。

「次は孝輔の番だな。え〜と、晴れの日も、雨の日も――」
「ちげえよ! 俺の台詞ちゃんと聞いてたか!?」
「悪い、冗談だよ。それじゃあ改めて……あなたは健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、これを愛し、これを敬い、その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?」

 いろいろあった四年間だった。木吉と公園のトイレで初めてキスをして、そのあと若松の家で初めてセックスをして、恋人になって、一緒に住み始めて――
 でもやはり、この間の事件が若松にとっても、そして木吉にとっても一番大きな出来事だっただろう。一度は二人の愛が壊れかけたが、木吉もいっていたように、あれを乗り越えたからこそ、もうどんなことがあってもこの愛が壊れてしまうことはないと思える。
 若松の左手に触れた、彼の温かい手。この温もりを二度と失わないようにと、そして彼を二度と傷つけないようにと、様々な決意を胸に若松はその言葉を口にした。

「誓います」





■終わり■





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