05. 愛が壊れる瞬間


 足が重い。それは決して青峰とのセックスに疲れたというだけでなく、木吉を裏切っていることに対しての罪悪感が圧しかかっているせいだろう。
 やはり青峰と会うべきではなかった。彼を見送り、家路に着くときにはそう思うのに、次の日にはそれが会いたいという気持ちに変わっている。だから結局秘密の逢瀬をやめることはできず、そして回を重ねるたびに若松の足は重くなっていった。
 玄関の前に立ち、ごちゃごちゃとした気持ちを切り替えようと、深呼吸する。それをしたところで罪悪の意識がなくなったりなどしないが、いつの日からか癖のようになっていた。
 鍵を開錠し、ゆっくりとドアを開ける。短い廊下を過ぎればすぐにリビングだが、そこからは物音一つ聞こえてこない。不思議に思いながらドアを開ければ、部屋の中には薄闇が広がっており、人の気配はなかった。

(鉄平……買い物にでも行ってるのか?)

 いつもならこの時間は夕方のアニメでも観ているはずだが――とテレビのほうに視線を向けて、その正面のソファーに人が座っていることに気がついた。

「鉄平!? 電気も点けないで何やってんだよ!?」
「ふぁ〜。お帰り、孝輔。ちょっと寝てた」

 木吉は大仰に欠伸をする。

「鉄平の好きなアニメもう始まってんぞ。つーか、むしろ終わりそうだぜ?」
「はっ!? ちょっと寝すぎた!」

 慌ててテレビのリモコンを手に取る木吉を見ながら、若松はいつもどおりの日常に戻れそうだと、内心で安堵の息をついた。

「そうだ、孝輔。今日は後輩と何して遊んでたんだ?」
「今日はカラオケに行ってた。やつばっか歌ってて、俺はあんま歌えなかったけど」

 この質問も、いままで何回も訊かれたことだ。今更焦ったりなどしないし、嘘を返すことにももう慣れてしまっている。

(そんなことに慣れたくなんかなかったけどな)

 木吉は素直でまっすぐな人間だ。たぶん若松に対して嘘をついたことなどないだろう。それがわかっているだけに、やはり彼に対して嘘をつくのは辛いと感じる。だが、それ以上に自分の秘密を打ち明け、すべてが壊れてしまうことのほうがよっぽど恐かった。

「ごめん。俺の訊き方が悪かったよ」
「訊き方?」

 その恐れていることがすぐ近くまで迫ってきていることなど、このときの若松は微塵も気づいていなかった。次の瞬間に木吉の口から飛び出した一言で、戻れたと信じていたいつもの日常に大きなヒビが入る。

「 青 峰 と 二 人 で 何 し て た ん だ ? 」

 いつもの笑顔で、いつもの声で、木吉が若松の秘密に触れてきた。ハンガーにかけようとしていたジャケットを思わず落とし、軽い眩暈に襲われて壁に手をつく。

「ど、どこで見てたんだよ?」

 落ち着け。ただ二人でいるのを見られただけだ。本当の秘密を知られたわけではない。

「買い物に行ってたら、たまたま車に乗った孝輔と青峰を見かけたんだ。後輩って青峰のことだったんだな。なんでいってくれなかったんだよ? 青峰なら俺だって知ってるのに」
「……別に、後輩は後輩なんだから名前までいう必要ねえだろ?」
「他のやつなら俺だって気にしないさ。でも青峰は別だろ? 孝輔の初恋の相手なんだし」
「昔の話だろ? いまは別にどうとも思ってねえよ」

 青峰への気持ちを否定するのには、少しだけ抵抗を感じた。けれどここでちゃんと否定しておかなければ、すべてが終わってしまう。だからそんな嘘をついた。

「嘘だッ!」

 鋭い声が若松の鼓膜を震わせた。
 ソファーから立ち上がった木吉が、こちらにずかずかと歩み寄ってくる。その顔にははっきりと怒りが浮かび上がっており、付き合い始めて一度も見たことがないそのの表情に若松は思わず後ずさる。

「痛っ!」

 目の前まで迫ってきた木吉は、若松の肩を掴んでそのまま身体を壁に押しつける。鋭い痛みに呻き声が零れるが、手の力が緩むことはなかった。

「どうしてそんな嘘つくんだよ!」
「嘘なんかついてねえ」
「全部嘘じゃないか! 後輩と遊んでるだけって、カラオケに行っただけって、青峰と何もなかったって……。本当は青峰とラブホテルに入ったくせに!」
「なっ!?」

 時間の流れも、思考も、そして呼吸さえも、その瞬間に止まったような気がした。
 若松はただ茫然と、自分を睨む木吉の瞳を見返す。怒りに満ちたそれは、もうどんな嘘も見逃さないといっているような気がした。
 なんで、どうして、という疑問が少し遅れて湧き上ってくる。けれどそれは声にならなくて、ただ小刻みに吐息が零れただけだった。

「今日、ずっと孝輔のあとをつけてたんだ。最近ちょっと様子がおかしいことあったから。たぶん俺の見えないところで何かしてるんだろうなって思ってた」

 木吉は憤りを押し殺すような声でいう。

「でも、浮気してるとまでは思ってなかった。だから青峰が出てきたときも、気を遣って俺には名前を出さないだろうなとしか思わなかったよ。けど最後までつけたら、二人はホテルに入っていった」

 肩を掴む木吉の手に力がこもる。痛みに顔を引き攣らせるが、声を出すのは我慢した。
 これは受けて当然の痛みなのだ。欲望に負け、木吉を裏切った自分に与えられた罰。だから黙って受け入れなければならない。

「どうしてだよ……? なんであいつとヤったんだ!? 俺のこと嫌いになったのか!?」
「違う! おまえのこと嫌いになるわけねえだろ!」

 それは紛れもない若松の本心だ。木吉に不満があって浮気をしたわけではない。ただどうしても青峰を諦められないだけだ。

「ごめん。俺、青峰のことちゃんと終わりにできてなかった。ただずっと奥のほうに引っ込んでただけで、あいつと再会したらそれがまた出てきちまった……」
「だからって浮気していい理由にはならないだろ!?」
「わかってるよ! でもしょうがねえだろ! 自分でもどうしようもできねえくらいの気持ちなんだからよ!」

 逆切れなんて最低だ。そう思うけれど高ぶった気持ちを抑えられなくて、つい声を荒げてしまった。

「……その気持ちは、俺に対する気持ちよりもデカいもんなのか?」

 そう訊ねてきた木吉の声は、どこか恐る恐るといったトーンだった。たぶんその問いかけに対する若松の答えが、二人のこれからを決定づけてしまうからだろう。だから若松も胸の内では答えが出ているのに、それを言葉にすることを躊躇った。
 木吉との関係を終わらせたくないなら、もちろん嘘をつくべきだ。しかし、それを選ぶと結局のところ、木吉に嘘をつきながら生きていかなければならなくなる。果たしてそんな人生が二人にとって幸せといえるだろうか?

「ごめん……」

 やがて若松は自分の中の正直な気持ちを、消え入りそうな声で呟いた。

「ごめん。俺、青峰のことが好きだ」

 自分を抱く青峰の腕の強さが、気持ちよさそうに歪む顔が、若松の頭から離れない。そしていまの自分からそれを切り離すことは、かなり辛い選択のように思えた。

「なんでだよ……?」

 木吉は悲しそうな、それでいて恨みがましそうな声を吐き出す。

「俺のほうが絶対孝輔のこと好きなのに、どうしてあいつなんだよ? そもそもあいつは孝輔のことどう思ってるんだ?」
「……恋愛的な意味では好きじゃないっていわれた。けど、セフレとしてなら付き合っていいって」
「そんなの、飽きたら孝輔が捨てられるだけじゃないか! そのあとはどうするつもりなんだよ!?」

 青峰との関係が終わったあとのことなんて考えたこともない。いつか終わってしまう関係だとわかっているが――いや、わかっているからこそ、繋がりのあるいまを大事にしようと、身体を重ねるたびにその感触をしっかりと記憶している。

「そのあとのことなんかどうでもよかった。あいつが少しでも特別な関係でいてくれるんなら、それで満足なんだ」
「でも、それじゃ孝輔は全然幸せになれないだろ? 俺なら孝輔を大事にできるし、一生愛してるって誓えるぞ?」

 愛されるほうが幸せになれると、若松もちゃんとわかっている。しかしこの心はもう、いうことを聞かない。理性から完全に分離して、ひとりでに暴走しているのだ。

「鉄平が俺のことずっと大事にしてくれるってわかってるよ。でもいまはあいつを切り離せない」
「青峰のほうを選ぶんだな……」

 若松は何も言葉を返せない。そうだと認めるのは心が痛むし、ここまできてやはり違うともいえなかった。
 二人の間に沈黙が舞い降りる。若松にとっては苦痛でしかない時間――いや、いまの若松にはどんな時間も苦痛にしか思えないだろう。二人で笑い合っていた幸せな日々が、もうずいぶんと昔のことのように思えた。

「俺はどうすればいいんだ?」

 やがて木吉はぽつぽつと、悲しげな声音で言葉を漏らす。

「孝輔の気持ちが他のやつにいってんなら、孝輔のことしか好きじゃない俺はどうしたらいいんだ?」

 木吉の頬に、一筋の軌跡が浮かび上がる。それは次々と数を増していって、止めどなく床に零れ落ちていった。
 約三年の付き合いの中で、木吉の涙を見るのはこれが初めてだ。いつもふわりとした笑みを向けてくれるその顔が悲しみに歪んでいるのを見て、若松は自分の罪の重さを再認識させられる。

「……別れようか」

 嗚咽混じりの声で木吉はそういった。

「それは……」
「じゃあ、青峰のこと黙認しながら孝輔と付き合っていけっていうのか!? そんなのおかしいだろ!」

 自分の気持ちが青峰のほうに傾いている。だから木吉とはここで終わりにしないといけないのに、その決意がなかなか固まらない。
 この三年、若松はとても幸せだった。自分を愛してくれる人がいてくれる。ただそれだけで世界が色鮮やかなものに感じられた。木吉にも同じように感じてほしくて、精一杯彼を愛した。いまだってどうしようもないくらいに愛している。
 その愛は、簡単に取って捨てられるようなものではない。できることなら手放したくないと、若松の心は揺れている。

「もういい。もう、疲れた……」

 しかし木吉のほうはもう気持ちを固めたらしい。答えを濁した若松に背を向け、ソファーまで歩み寄ると、床に置いてあった旅行鞄を取り上げた。

「鉄平!?」

 木吉が何をするつもりなのか、若松は瞬時に理解した。この部屋からいなくなるつもりだ。

「最初は黙認しようとも思ったよ。孝輔と喧嘩になって、別れるってことになったらやっぱり辛いし、俺が我慢してればこの生活も終わらないから。でも、やっぱり無理だ。青峰に触られたのかと思うと、全然笑えない。たぶん優しくすることもできない。だからもう終わりだ」

 終わり、という単語を聞いて若松の中に焦燥感が生まれる。このままでは本当に木吉が行ってしまう。――そう思うのに、身体がなぜだか動かなかった。

「じゃあな」

 素っ気ない別れの挨拶を木吉が口ずさむ。
 そしてそれが、二人の愛が壊れる瞬間だった。








■続く……■





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