07. 二人の始まり


 街を彩る桜の花は早くも散り始めていた。
 短命な桜はもう終わってしまうのかもしれないが、多くの日本人にとってはこれからが始まりの季節である。
 若松孝輔もまた、人生の新たなスタートラインに立とうとしていた。惜しみながら幕を閉じた高校生活をあとに、今日からついに一社会人として生きていくことになる。高校に入学するときも確かこんなふうに期待や不安の入り混じった気持ちを抱いていたと、風で舞い散る桃色の花弁を眺めながら若松は思い出していた。
 今日は入社式だ。駅前の道には若松以外にもスーツ姿の若者たちが多く見受けられる。皆一様に硬い表情なのは、やはり緊張しているからだろうか。もちろん、若松とて例外ではない。
 そんな新たな始まりを実感させられる景色を眺めながら歩いていると、突然人にぶつかった。

「すいません」

 ぶつかった相手は若松と同じくらいの長身だった。自分と背丈の近い人間を街中であまり見かけることがないだけに、珍しいこともあるものだと若松は内心で驚いた。

「大丈夫ですよ」

 柔らかい声とともに、目の前の人物がこちらを振り返る。
 男臭いが優しそうな目をした男だった。年齢も若松ときっと変わらないくらいだろう。男はふわりと笑って、そっちこそ大丈夫ですかと訊ねてくる。
 それは見覚えのある顔だった。瞬時にその人物の名前を頭の中で弾き出し、若松はすれ違った人たちが思わず振り返るような大声でその名を口にした。

「木吉鉄平!?」

 相手のほうはいきなり名前を呼ばれて目を丸くするが、若松の顔を覚えていたのか、すぐに「あっ」という顔に変わった。

「おまえは……笠松!」
「似てるけどちげえよ! 若松だ」

 そうだった、と木吉はへらりと笑う。
 木吉鉄平――高校時代、若松の在籍していた高校と都内でよく一、二を争ったライバル校の司令塔的存在だった男だ。ポジションが若松と同じセンターということもあり、当時最も意識していた相手が彼だった。
 しかし、昨年度は木吉が負傷していた膝の手術に臨んだため、コートで彼の姿を見ることはなかった。ライバル心を滾らせていただけに、彼の不在を寂しく思ったのもついこの間の話だ。

「木吉もこれから入社式だったりするのか?」

 今日この時間にスーツ姿でうろついている同い年の人間など、入社式かあるいは大学の入学式に向かう者くらいである。

「うん。若松もか?」
「おう。会社この辺?」
「そうなんだけど、この辺あんまり来たことないから迷っちゃって……地図はあるんだけど、さっぱりだ」
「どれどれ……って、これ日本地図じゃねえか!?」

 これで目的地に辿り着けるやつがいるなら見てみたいと、若松は地図を木吉に突き返そうとする。しかしその直前に、東京都に打たれた小さな点のそばの文字に見覚えがあると気づいて、もう一度地図を確認する。

「なあ、ここに書いてあるのっておまえが入る会社の名前か?」
「そうだぞ。どこにあるか知ってるか?」
「知ってる。つーか、いまから俺もそこに行くところだったから」

 地図上の点のそばに書かれた文字は、若松がいまから入社式を迎える企業の名前だ。木吉もそこに行くということは、つまり、どうやら彼も若松と同じ企業に入社するようだ。

「若松もって……まさかスパイ!?」
「なんでそうなるんだよ! 入社するんだよ! 同じ会社で働くってこと!」

 高校時代は将来のことを彼と話す機会なんてなかったし、膝のこともあって、正直彼がバスケ関係の企業に引っ張られるとは思っていなかった。

「バスケでそこに入ったんだよな?」

 会社までの道を二人で並んで歩きながら、若松は興味本位に話を聞く。

「一応そういうことになるな〜」
「ってことは、膝はもう大丈夫なのか?」

 てっきりバスケへの復帰は無理なほどの怪我だと思っていたが、どうやらそうではないらしい。

「だいたい大丈夫だ。けど、まだドクターストップかかってるから、しばらくはマネジャーみたいなことをするようになると思う」
「なるほどな。復帰したらライバルだな」

 どちらもポジションはセンターで、体格もほとんど変わらない。いずれはポジション争いになるだろうと、木吉のぼけっとした顔を見ながらそんな未来を想像する。
 木吉のスタートが遅れる分、若松のほうが有利ではあるが、彼の持つバスケセンスは絶大的だ。あっという間に伸し上がってくるに違いない。
 若松はフィジカルにこそ自信はあるものの、それ以外の部分では木吉に一歩及んでいないと自覚している。そんな自分がどうすれば彼とのポジション争いに勝てるのか、早くも頭の中でシミュレーションしているうちに、二人は目的地へと辿り着いた。

「若松」

 入門の手続きを済ませ、会社の敷地内に入った途端、木吉に呼ばれる。なんだよ、と振り返れば、ふわりと笑って手を差し出してきた。

「これからよろしくな」
「なんだよ、改まって」
「こういうのは大事だろ? それに長い付き合いになるだろうし」
「まあ、確かにな」

 若松はその手をぎゅっと握る。
 体格は同じくらいのはずなのに、手は一回りくらい木吉のほうが大きい。男らしく硬い感触だが、心地のいい体温に思わず長く握ったままでいた。

「行くか」
「おう」



 こうして二人は思わぬ再会を果たしたのだった。

 木吉とは配属された部署が違ったものの、勤務が終わればバスケ部で毎日顔を合わせることになった。同い年で元々顔見知りということもあり、二人はあっという間に打ち解け合う。
 木吉は、日本地図で会社の場所を探していたことからもわかるように、少しずれた人間だった。けれど付き合いにくいということはなく、むしろ一緒にいて飽きない人柄だ。
 本人がいっていたように、バスケ部では最初はマネージャーのようなことをしていたものの、二ヶ月もすれば練習に加わるようになり、彼の優れたバスケセンスを目の当たりにすることになる。しかし、若松が予想していたポジション争いは起こらなかった。というのも、監督は木吉をポイントガードとして育てたいらしく、結局若松とは違うポジションに任命されたからだ。
 体格的にもったいないと感じるものの、木吉のパスセンスや状況判断はポイントガードとしてかなり優秀なレベルだった。しかも単にアシストするだけでなく、自らもシュートを決めるし、長身を生かしたブロックも十二分に発揮していた。
 チームメイトとして同じコートに立つのは最初こそ違和感があったが、慣れればなんということもない。むしろ彼とバスケをプレイすることに大きな喜びさえ感じていた。
 次第に二人はプライベートでも行動をともにするようになり、いつの日からかお互いを苗字ではなく下の名前で呼び合うようになっていた。

「孝輔って休みの日はいつも俺に付き合ってくれてるけど、彼女とかいないのか?」

 訊かれて初めて、そういえば木吉とはそういう話をしたことがないなと思い出す。

「いねえけど? そういう鉄平は……いないよな?」
「いないぞ。孝輔は男前だからてっきりいるんじゃないかと思ったけどな〜」
「男前なんかじゃねえよ」

 同じ部署の先輩や上司にも、同じようなことをいわれたことがある。同じように恋人の有無も訊かれて、若松はそのたびに内心で動揺していた。
 若松の恋愛対象は男だ。世間的にはやはり理解されるばかりだとは限らないため、疑われないためにも話を合わせて、あたかも女が好きかのように演じている。それが苦痛でならなかった。
 けれど、と若松は木吉の顔を見る。彼なら自分が同性愛者であることを理解してくれるのではないだろうか?
 木吉は心が広い。それはこの半年の付き合いで十分にわかったし、正直にいえば、カミングアウトをしても彼がいままでどおりの友人でいてくれるという確信がある。だから若松はこの機会に自分の性的嗜好を彼には話しておこうと決心した。

「鉄平、ちょっと大事な話」
「なんだ?」

 でもやはり、理解してくれるという確信があっても、いざそれを打ち明けるというときになれば緊張するものだ。若松は少しの間沈黙し、喉まで上がった台詞をなんとか吐き出す。

「俺、男しか好きになれないんだ」
「へえ、そうなのか」
「そうなのかって……そんだけか?」

 驚くことさえしない木吉に、逆に若松のほうが面食らってしまった。

「別に、そういうやつが自分の周りに一人くらいいてもおかしくないだろ?」
「で、でも男が男好きなんて気持ち悪くないのか?」
「どうしてそれが気持ち悪いんだよ? 孝輔は孝輔じゃないか。何も気持ち悪いことなんかない」

 そういって木吉は、いつもの穏やかな笑みを浮かべる。

「ゲイをあまりよく思わないやつがいるってことくらい、俺でも知ってるよ。だから俺にこうして話すのだって、結構勇気が要ったろ? そりゃ、ちょっとびっくりはしたけど、孝輔が信頼して話してくれたのがすごく嬉しいよ」

 予想していたよりも温かい言葉をかけられ、若松は嬉しさのあまり泣きそうだった。ゲイ向けのコミュニティーなどで知り合った、同じ性的嗜好の友人はそれなりにいるが、こんなに近くに自分を受け入れてくれる存在がいるというのは実に心強い。

「ありがとう、鉄平」
「礼なんていう必要ないだろ? それが孝輔なんだから」
「そうかもしんねえけど……でも、ありがとよ」



 この時点では、若松も木吉もまだ互いを友人以上の存在としては見ていなかった。二人の関係に変化が訪れるのは、それから数ヶ月が経ったある日のことである。





■続く……■





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