09. もう一度始めよう


 写真の中の幸せそうな自分と木吉。それが急に歪んで見えなくなる。
 若松の頬を、温かい雫が次々と滑り落ちていった。それは拭っても拭っても止まることなく、フローリングを瞬く間に濡らしていく。

「鉄平っ……」

 木吉とつくった思い出の数々をまるで映画のように頭の中で再生し、それをひどく懐かしく感じるとともに、どうしようもないくらいに恋しく思った。
 愛と幸せに満ち溢れた、二人の時間。若松を喜ばせようと努力する木吉に対して、若松もまた彼を喜ばせようと必死になることもあった。互いが互いを想い合い、これでもかというほどの愛情を注ぎ合って、とても居心地がいい場所を築くことができた。
 決して不満がなかったわけではない。それでも幸せだと感じる瞬間のほうが圧倒的に多くて、これからもずっと一緒にいたいと心の底から思っていた。

 けれどそれを、若松自身が壊してしまった。
 木吉を裏切ってしまった。
 木吉を傷つけてしまった。
 
 もう、やり直すことはできないのだろうか?
 もう、二人で笑い合うことはできないのだろうか?
 もう、幸せな時間を取り戻すことはできないのだろうか?

 自分から壊したくせに、若松はいまどうしようもないくらい木吉に会いたかった。会って、あのがっしりとした身体を抱きしめて、自分も抱きしめてもらって、そしてまた初めてキスをしたときのように、時間を忘れるほどにキスに没頭したい。
 自分にとって大切なのは、初恋の相手なんかじゃない。本当に大切なのは、五年の時をともに支え合って生きてきた、木吉のほうだ。

 やり直したい。もう一度木吉と幸せな時間を築きたい。
 
 けれどもう、何もかもが手遅れだ。二人の関係はもう終わってしまった。それも修復不可能な形に若松自身がしてしまい、どうすることもできない。

(いや……どうにか、できるはずだ)

 希望の灯は、完全に消えてしまったわけではない。何か元に戻るための糸口はあるはずだ。
 とりあえず木吉と接触しないことには何も始まらないだろう。そう思ってポケットから携帯を取り出し、アドレス帳から木吉の電話番号を呼び出すが、発信ボタンを押すだけという段階で若松は踏み止まる。

(駄目だ。中途半端なまま元鞘に戻りたいなんて、ふざけてる)

 自分から別れるきっかけをつくっておきながら復縁したいなんて、ただでさえ都合のいい話だ。その上青峰とのことを放置したままそれを木吉に持ちかけるのは、誰が聞いたって納得できるような話ではないだろう。
 木吉と復縁したいなら、まずは青峰との関係をちゃんと終わらせなければならない。すべてはそれからだ。

(青峰との関係を終わらせる、か……)

 ずっと胸の片隅で燻っていた、初恋への未練。それを今度こそはきっぱりと断ち切らなければならない。
 若松はアドレス帳から青峰のメールアドレスを開き、近いうちに会いたいという旨を送った。



「若松サンから会いたいっていってくるなんて珍しいじゃん」

 ホテルに着き、青峰が最初に口にしたのはそんな一言だった。確かにいつもは青峰のほうから誘ってくるのが普通だったし、珍しがるのも無理はない。

「そんなに俺のチンコが恋しかったのか?」
「ちげえよ、馬鹿! 大事な話があるから誘ったんだよ!」

 いつもと変わらぬ調子の青峰に呆れつつ、若松は用意していた台詞を喉の奥から引っ張り出す。

「おまえとヤるの、今日で最後にしたい」

 そういった瞬間、青峰は驚いたような顔をしたが、すぐにいつもの挑発的なにやけ面に戻った。

「何、もしかして飽きちゃったのか?」
「そうじゃねえ。俺の勝手な都合で悪いけど、ちゃんと相方一筋で生きていこうって決めたんだ」
「散々俺に抱かれといて今更何いってんだか」
「わかってるっつーの! それでも、あいつのことすげえ大事って気づいたから、おまえとは終わりにしたい。俺の勝手に付き合わせて悪かった」

 青峰は何も言わないまま、ソファに腰かけた若松の隣に腰を下ろした。

「別に若松サンの勝手に付き合わされてるなんて思ったことねえよ。若松サンとのセックスすげえ気持ちよかったし、だからいつも俺から誘ってたじゃん? 謝る必要なんてねえし」
「でも、俺の勝手でこの関係も終わりだぜ?」
「セフレなんてそんなもんじゃねえの? どっちかの都合が悪くなりゃそれまでだ。だから気にすることなんてねえだろ」

 それに、と青峰は視線を自分の膝に落とし、言葉を紡ぐ。

「若松サンの選択は正しいと思うぜ? 俺は若松サンのことすげえ好きだけど、それって恋愛感情じゃねえし、この先も恋愛感情になることはねえと思う。だから若松サンの恋人にもなれねえし、幸せにすることもできねえ。たぶんどっかで若松サンのこと、捨て置かなきゃいけねえときが来ただろうな」

 穏やかだが、確かに若松を突き放す台詞をいわれ――若松は“よかった”と胸を撫で下ろした。

(青峰が、変わらないままでいてくれてよかった)

 もしもここで青峰に優しい言葉をかけられていたら、自分の決意は揺らいでいたかもしれない。だから突き放されてよかったのだ。青峰が自分に対してセックスフレンド以上の感情を抱かなくてよかった。

「でもこのまま『はい、さよなら』ってのはなんか悔しいから、最後に抱かせろよ」
「……ああ。いいぜ」

 それは想定していたことだし、若松自身もそのつもりでいた。青峰を断ち切るための、最後のセックス。高校のときからずっと自分の中に居座り続けた青峰への気持ちを、ここに置いて帰る。
 青峰との最後のセックスは、いつになく激しくて気持ちのいいものだった。けれどやはりそこに“愛”は一切ない。身体は十分すぎるほどに満たされても、心は虚しさを感じるばかりだった。
 ただ、愛情は返ってこなくてもこの男に恋慕していたという事実は変わらない。いまだってこんなにも好きだし、最後の一回を名残惜しく思っている。

「若松サン、なんで泣いてんの?」
「……ほっとけ」

 憧れから始まった、若松の初恋。熱くて、切なくて、どうしようもないくらいに心を揺さぶられた恋だった。薄れはしたが、消えることのなかったそんな初恋に、若松はいま終止符を打った。



 アドレス帳から呼び出した、木吉の電話番号。あとはその番号を指で押すだけなのだが、若松はなかなか押すことができずにいた。
 青峰とのことはちゃんと終わりにできた。けれど、それでも復縁を持ちかけるなんて、木吉にとっては気持ちのいい話ではないだろう。だからかけたところで彼に罵られたり、突き放されたりするだけに終わるかもしれないし、そもそも若松からの電話に出てくれないかもしれない。
 会社は同じだが、木吉とは部署が違うため顔を合わせる機会もない。クラブには祖母の体調不良――本当かどうかはわからないが――を理由にしばらく参加していないため、結局別れてから一度も彼の姿を見ていなかった。だからどんな様子なのか、若松に対して彼がどんな態度をとるのか、まったく検討がつかない。

(それでも、ちゃんと伝えねえといけねえ)

 結果がどうなろうと、自分のいまの気持ちはちゃんと木吉に伝えなければならない。それは、このめちゃくちゃに壊れてしまった愛へのけじめでもあるし、もう修復ができないのだとしても、次に進むためのステップでもあるのだ。
 指が震える。足も震える。木吉の声を聞きたいと思う半面で、それを聞くのが怖いとも思う。

(逃げるな。どんなことになっても、ちゃんと受け止めなきゃいけねえだろ)

 そう自分に言い聞かせ、若松はついに発信ボタンを押した。
 呼び出し音が一回、二回、三回と鳴る。その間も緊張は解けず、携帯を持った手はカタカタと震えていた。
 かけ始めて一分は経っただろうか。これだけ経っても出ないということは、やはり若松からの電話に出る気がないということだろうか? それともたまたま出られなかっただけだろうか? そんなことを考えているうちにまた一分が経ったが、それでも木吉が出る気配はない。

(今日のところは諦めるか……。また明日にでもかけてみよう)

 そう思って携帯を耳から話した瞬間、

『もしもし?』

 耳に懐かしい声が、確かに若松の鼓膜を震わせた。

『どうかしたか、孝輔?』

 木吉の声だ。ついこの間まで毎日聞いていた、彼の優しさの滲んだ柔らかい声。それを聞いた瞬間、若松の中で何かが切れた。胸の中から激しい情動が湧き上がり、それが声となって外に溢れ出る。

「会いたい……」

 言葉を吐き出すと同時に、涙が零れた。何の涙なのか自分でもわからぬまま、止めることもできずに泣き続ける。

「鉄平に……会いたい……っ」

 用意していた台詞があった。ちゃんと順番に話さなければならないと思っていた。けれど口から出たのはその一言で、嗚咽で途切れ途切れになりながらも、電話の向こうの彼に自分の想いを懸命に伝える。

『俺だって、会いたいよ』

 返ってきたのは、そんな一言だった。

『でも、このまま元に戻ったって、やっぱり俺は辛い。孝輔が俺以外のやつを見てるなんて耐えられない』

 木吉が涙ぐんでいるのが、声から伝わってくる。彼が負った傷の深さとそれに対する罪悪感を再認識させられ、若松は心が折れそうだった。けれどここで自分がすべてを諦めてしまったら、もう木吉に触れることはできない。もう、彼との幸せな日々は戻ってこないのだ。

「オレ、やっぱり鉄平のこと死ぬほど好きだ。だから青峰とのこと、全部終わりにして、でもそれで元に戻ろうなんて都合がいいってわかってるけどっ……」

 若松がしたことは決して赦されることではない。それは自分でもわかっているし、その上で元に戻ろうなど、おこがましいにもほどがあるだろう。

「わかってるけど、それでもやり直したいんだ。もう一回最初から始めて、今度は鉄平を幸せにしてやりたい」

 自分の幸せのためではないと言い切れはしない。だが、それ以上に木吉の笑顔を取り戻してやりたいと、彼を幸せに導いてあげたいと心から思っている。
 木吉を幸せにしてやる力は、きっとまだあるはずだ。道を踏み外さなければ今度は傷つけることもなく、笑い合って生きていけるはずだ。時には喧嘩もするかもしれないが、すぐに笑って元どおりになれるはずだ。

『じゃあ、いまから迎えに来てくれ』

 電話の向こうから聞こえた台詞は、若松を拒絶するものではなかった。

『実家の近くの公園、わかるだろ? そこで待ってるから、迎えに来てくれ』

 希望は絶たれなかった。若松の想いは木吉にちゃんと伝わった。無論、言わなければならない言葉はまだたくさんあるが、まずは彼を迎えに行くほうが先だろう。

「わかった。すぐに行くから……ちゃんと、待ってろよ」
『うん。待ってるぞ』





■続く……■





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