火神くんと木吉くん 夜を迎えたとあって、バスケ部の部室には誰もいない。 自主練を終え、帰り支度を済ませた火神はある一つのロッカーの前に立ち止まる。 『木吉』 名前の記されたシールをじっと見つめながら、火神はそっとロッカーに触れた。――まるでそこにロッカーの主がいるかのように。 火神にとって木吉は、よくわからない人間だった。何を考えているのかわからないし、何を目指しているのかもわからない。ただ誰にでも平等に優しく、どこか温かい雰囲気を持つ先輩だ。 そんな木吉に魅かれている自分を火神はちゃんと自覚している。 きっかけは部活後の自主練をたまたま見かけた木吉に、頑張っているなと頭を撫でられたことだった。そんなことくらいで、と自分の単純さに呆れるものの、好きになってしまうのを止めることはできなかった。いまではもうオカズにできるくらいになってしまっている。 開かないとわかっていながらも、ロッカーの取っ手をそっと引いてみる。その瞬間、ガチャリと歯切れのいい音がして、本来なら見られるはずのない他人のプライベートな空間が露わになってしまった。 「あ、あ、あ、あ、開いちまった!?」 鍵をかけ忘れたのだろうか、いとも簡単に開いてしまったことに火神は逆に驚きながらも、すぐに閉めることはしない。何せ好きな人のロッカーだ。中が気にならないわけがない。 無骨なロッカーの中にはあまり物が入っておらず、練習着が無造作に落ちているだけだった。 掴んでみると、その練習着は湿っていて、どうやらさっきの練習のときに使っていたらしい。粗方持って帰るのを忘れてしまったのだろう。 (これ……どうすっかな) どうすっかな、などと言わずとも、次に自分がどうしたいかはわかっている。 鼻に押し当てると、酸っぱい臭いがした。 (汗くせえ……でも、木吉先輩の臭い) この服があの人の身体に張り付いて、この短パンがあの人のあの部分にきて……ただちょっと匂ってみるだけの予定が、いつの間にか衣類を鼻に押し当てての深呼吸になってしまっている。 (やべえ……なんか、興奮する) 変態的な行為をしている自覚はあるが、それでも本能を止めることはできない。それにこの機会を逃せばあの人の練習着を嗅げる日などもう訪れないだろう。だから思う存分にその臭いと感触を味わうことにした。 「――誰かいるのか〜? 練習着持って帰るの忘れてな、あれ置いておくとロッカー臭くなるから取りに来……」 突然の来訪者に、匂いに夢中だった火神は完全に反応が遅れてしまった。顔を上げたときには、手に持っているものを隠すより早く、出入り口からぬっと入ってきた人物にばっちりと目撃されている。 「き、木吉……センパイっ!?」 二人の人間がいるはずなのに、更衣室は妙にしんと静まり返っていた。 長椅子に並んで腰掛ける図体のデカい男たち。 火神は木吉の使用済み練習着を持ったまま硬直しており、木吉もまた座ったまま何も言わない。 気まずい。どうしようもないくらいに、気まずい。何せ人の練習着を嗅ぐという変態行為を、その練習着の持ち主に見られてしまったのだから。 いくら器の大きい木吉と言えど、こればっかりはさすがにドン引きだろう。せっかく仲良くなれてきたと思っていたのに、ここで距離を開けられたりなんかしたらショックだ。自分のロッカーと間違えましたテヘペロ、などという言い訳はあまりにも苦しいだろうし、仮にそのとおりなのだとしても練習着を(しかも短パンの股間の部分)を嗅いでいるとなれば、変態認定されるに違いない。 「……いや、まあ、年頃の男だし、そういうこともしたくなるよな」 ようやく不気味な静寂を破ったのは、木吉のほうだった。横を向けば、いつものように柔らかく微笑む男前な顔がある。しかし、それがどこか引きつってるような気がして火神は割と本気で死にたくなった。 「え〜と……火神って、俺のこと好きなの?」 「すっげえやばいくらい好きっす!」 間髪入れず肯定してしまった自分に自分でハッとなり、しかしもう口から出てしまったものは誤魔化せない。このときばかりはなんだか怖くて木吉の顔を見ることができず、手に掴んだままの(木吉の)練習着をじっと見つめていた。 「なんで俺なんだよ? 俺ってお世辞にも可愛いとは言えないし、火神よりデカいし、それに男臭いって言うか……むしろおっさん臭い?」 「そんなことないっす! 真剣にバスケしてるとこはすっげえカッコイイと思うし、そうじゃないときはすっげえ優しくて、一緒にいて安心するって言うか……とにかくセンパイはいい男だ……です」 本音をぶちまけるついでに顔を上げれば、木吉は少し驚いたように目を瞬かせており、それが次の瞬間には嬉しそうな笑みに変わる。 「そういうふうに言われたこと、男にも女にもないからさ。なんか変な感じだな。でも、すごく嬉しいと思った。ありがとな、火神」 火神のよりも更に大きな手が、優しく頭を撫でてくる。彼に好意を寄せるきっかけとなった掌の感触をじっと感じながら、このあと木吉にいったいなんと言われるのか不安になる。 自分は男で、彼もまた同じ男だ。木吉は確かに優しいが、自分の本来の性癖を投げ打ってまで相手の気持ちを汲んでくれるほど流されやすい人間ではない。きっとここはやんわりと断られて、また明日会ったときにはいつもと変わらぬ態度でいてくれるつもりなのだろう。 それならいっそここで玉砕してしまえばいい、と思う半面で、自分のこの気持ちを諦めなければならないという事実を突きつけられるのが怖い。なまじ破裂しそうなくらい大きくなってしまった分、心には大きなダメージが残るに違いない。 「火神、身体あっち向けてみ」 だが、木吉の口から拒絶の言葉は出てこなかった。 言われたとおりに長椅子を跨ぐ形で木吉に背を向ければ、脇の下から火神に負けないくらい逞しい腕が現れる。二本の腕はそのまま火神の身体をがっちりとホールドし、背中にぴたりと木吉の身体がくっついてきた。 「せ、せ、せ、せ、せ、せ、センパイ!?」 「こら、動くな。じっとだ、じっと」 子どもを言い聞かせるような口調に普段なら腹を立てるところなのだが、背中に感じる木吉の存在に意識を奪われて、他に何も考えられなくなってしまう。 「火神、顔真っ赤」 指摘されずとも、顔が紅潮しているのは自覚している。むしろ沸騰してしまいそうなほどに熱くて、このままでは頭の中が溶けてしまいそうだ。 「正直、愛だとか恋だとかってのは、俺にはよくわからないんだ。ましてや男同士なんて考えたこともなかったな」 まあ、ノーマルな男ならそんなことを考える機会などないだろう。 「でもいま火神に好きって言われて、すごく嬉しいと思った。そんで、火神と恋人になったら、すごく楽しそうだなって思ったよ。だから火神とのこと、前向きに考えたい」 「……嘘だ」 「俺が火神に嘘ついたことあるか?」 「だって、おかしいって思うだろ普通! ドア開けたら練習着嗅いでるやつがいて、それだけでもドン引きなのに、そいつが告ってくるなんて鳥肌もんだろ!」 改めて自分の行動とここまでの流れを思い返すとひどく惨めな気持ちになるが、いまは木吉の真意を問い詰めるほうが大事だ。 「それに俺、デカいし、女みてえにふわふわしてないし」 「ふわふわ? それはよくわからないけど、デカいって言っても俺より少し小さいだろ? それに俺は火神のこと可愛いって思うよ」 「か、可愛い!?」 「うん。俺に抱きしめられて赤くなってるところとか、俺が撫でたときにリアクションに困ってるところとか、すごく可愛い」 幼少期にすらあまり言われた記憶のない可愛いという形容詞で褒められ、心が舞い上がるのを抑えられない。それが顔に出ないよう必死に気持ちを落ち着かせ、火神は一番重要な質問を木吉に投げかける。 「でも、俺のこと恋愛的な意味で好きってわけじゃないんだろ?」 火神の抱く好意とは種類が違うのなら、安易に自分のことを前向きに考えるなどと言ってほしくない。 「確かにいままでは、そういった意味で火神を意識したことなんてなかった。でも、俺はたぶんこの先火神のこと恋愛的な意味で好きになると思うよ」 「そんなの、わかんねえだろ!」 「いや、わかるんだ。現にいまだって心ん中がどんどん火神のことで埋まっていってるし、こうして抱きしめてて、悪くないなって思ってる」 火神を抱きしめる腕の力が強くなる。 「恋してるってはっきりと確信してるわけじゃない。そもそもいままで恋なんてしたことなかったから、それがどんなものなのかわからない。でも、いま火神に対して抱いてるぽかぽかした気持ちが恋って言うなら、俺は火神に恋してることになる。――それじゃ駄目か?」 「駄目じゃねえ……です」 もしもそれが一過性のものだとしたら、後に自分が傷つくような結果になるのかもしれない。それでも少しの間木吉と甘い関係でいられるなら、根拠のない返事でも受け入れたい。 「お、俺はちゃんと自分の気持ち言ったから、センパイもちゃんと言ってほしいっす」 始めの第一歩を踏み出すための言葉がほしい。真剣な目で木吉の顔を見れば、彼は少し恥ずかしそうに苦笑した。 「火神……いや、こういうときは下の名前のほうがいいよな。――大我」 「!?」 いきなり下の名前で呼ばれて、火神の鼓動が一瞬にして跳ね上がる。 「大我のことが好きです。俺と付き合ってください」 実にシンプルな告白のフレーズだったが、それでも火神の心は十分すぎるほど満たされた。嬉しくて、恥ずかしくて、どんな顔をしていいかわからずに下を向けば、木吉がそっと頭を撫でてくれた。 「こ、こちらこそ、よろしくお願いします。鉄平……さん」 |