インターホンを鳴らすと、ドアの向こうから人の動く気配がした。これから隣人としてご近所付き合いをしていく相手はいったいどんな人間だろうかと、期待と不安をない交ぜにした気持ちで小堀浩志はドアが開くのを待った。 「――はい」 鍵が開錠される歯切れのいい音に続いてドアが開き、部屋の主が顔を覗かせる。 「あ、隣に越してきた小堀です。これからよろしく……って、あれ?」 用意していた引っ越しの挨拶が途中で止まった。なぜなら、出てきた隣人の顔が小堀の知っている人間のそれだと気づいたからだ。 決して派手ではないが、男らしく精悍な顔立ち。背は小堀とあまり変わらないくらいの長身で、身体つきはがっしりとしている。 最後に彼を見たのは、高校最後のウィンターカップだった。直接対戦したわけではないが、インターハイで敗戦を喫したチームとありマークをしていたため、目の前の彼がその中にレギュラーとして在籍していたのを覚えている。 「桐皇の……」 「あんたは海常の……」 相手のほうも小堀のことに気づいたらしく、驚いたように目を瞠った。 季節はそろそろ桜の花が咲き始める頃。 そんな頃に二人の男は、小さなアパートで再会を果たした。 恋するときの感覚 その1 同い年で、同じバスケをしていて、かつて対戦したことのある小堀たちが打ち解け合うのにさして時間はかからなかった。 元桐皇学園の彼は、名前を諏佐というらしい。小堀がまだ部屋の片づけを終えていないことを話すと、諏佐は作業を手伝ってくれ、一日仕事のつもりでいたのが半日もかからないうちに、日常生活ができそうな空間を作り上げることができた。 「助かったよ、諏佐。ありがとう」 「いいって。ちょうど暇だったから」 片づけをしながら、いろんな話をした。高校時代の部活のこと。更に遡って中学時代のこと。そして、これからのこと。 就職することになった小堀に対し、諏佐は大学に進学することを選んだらしい。しかもかなり名の知れた大学と聞き、小堀は素直に感心させられた。 「よかったら今日、うちで一緒に晩飯食わないか? 作ってやるから」 「手伝ってもらった上に晩飯まで作ってもらうなんて悪いよ。でも、今日だけは世話になろうかな」 小堀に料理のスキルはない。もちろんいまから一人で暮らしていく上で身につけるつもりではいるが、いまはちゃんと食べられるものを作れる自信がなかった。今日は朝からロクなものを食べていないし、せめて夜くらいはまともなものを食べたい。まあ、諏佐の料理スキルがいかほどのものかは不明だが。 「お邪魔します」 夕方になり、約束どおり小堀は諏佐の部屋を訪れた。 短い廊下を過ぎ、ドアを開けると決して散らかってはいないが、生活感のある空間が広がっている。越したばかりでまだ綺麗な自分の部屋よりも不思議と安心感を持てた。 「テレビでも観ててくれ。まだ作ってる途中だから」 「わかった」 六畳の部屋には26Vのテレビと本棚、それからこたつがあり、家具はそれですべてのようだ。小堀の身長と同じくらいの高さの本棚にはバスケ雑誌の他に、なんだか難しそうなタイトルの本がたくさんあり、顔や言動からはわからない諏佐の知的さが窺える。 小堀はこたつに足を突っ込む。開きっぱなしのドアの向こうには、真剣な顔で料理をしている諏佐の姿が見えた。男臭い顔と逞しい体格からは料理をするイメージなどまったく浮かばないのに、実際にエプロンを着けて中華鍋を振るう姿は妙に様になっていた。 「諏佐ってエプロン似合うのな」 思っていたことを素直に言葉にすると、諏佐は少しだけはにかんだ。 「自分じゃ全然そういうふうに思わないけどな〜。むしろ小堀のほうが似合うと思うぞ。なんか家庭的な感じするし」 「それこそ自覚ないんだが……」 エプロンを着けた自分の姿を想像すると、笑えてくるほどに似合わない。 そうこうしているうちに夕食が出来上がったらしく、諏佐が料理を盛った皿をこたつに運んでくる。炒飯と餃子という実にシンプルなメニューだが、その量は小堀が軽くめまいを起こすくらいに多かった。 「諏佐って結構食うんだな」 「男ならこれくらい普通だろ?」 「少なくとも俺の思っている普通とはだいぶ違う」 「細かいことは気にすんなよ。さあ、食え食え」 まあ、見た目と匂いは美味しそうではあるし、大飯喰らいには程遠い小堀でも案外完食できるかもしれない。 「いただきます」 そしてその味は、見た目を決して裏切らない、思わず舌鼓を打つほどのものだった。餃子のほうも外はパリパリ、中は柔らかく濃厚な肉の味が楽しめる。 「どうだ?」 「すごく美味しいよ。店で出されてもおかしくないくらいだ」 嘘偽りのない感想を言うと、諏佐は安堵したように笑った。 「よかった。自分の手料理を人に食わせるのって初めてだから、ちょっと心配だったんだ」 「そうだったのか。マジで美味いよ」 「そう言ってもらえると、作った甲斐があるってもんだよ。やっぱり人に美味いって言ってもらえるのは嬉しいな」 諏佐は心底嬉しそうな顔をしながら、自らも炒飯を口に運び始める。しかし、すぐに手を止めたかと思うと、突然立ち上がって部屋を出ていった。 「いきなりどうしたんだよ?」 「チューハイあるの忘れてた」 「チューハイ?」 キッチンから戻ってきた諏佐の手には、300ml入りの缶が二つ握られている。ラベルには先ほどの台詞のとおりチューハイの文字が記されており、それが酒であると小堀は理解した。 「小堀も飲めよ」 「いやいやいや、俺たちまだ二十歳じゃないし!」 「高校卒業したからもういいんだよ。家で飲むくらいなら誰にも迷惑かからないし、誰かに怒られることもない。それにチューハイなんてジュースと変わんねえよ」 「……ホントに?」 「本当だって。ほら」 諏佐はわざわざ蓋を開けて缶をこちらに寄越す。 「じゃあ、飲んでみる」 小堀は真面目な人間だ。それは自分でもちゃんとわかっているし、だからこそチューハイを飲むことに躊躇した。その半面で、たまにはハメをはずしたいという願望もあり、目の前に差し出されたそれを迷いながらも手に取る。そして恐る恐る口の中にチューハイを注ぎ込んだ。 「あ、本当にジュースと変わらないな」 「だろ?」 口の中に広がる味は、普段飲んでいる炭酸飲料のそれとそんなに変わらない。これなら確かにジュースと言って差し出されても、決して酒だとは疑わないだろう。 しかし、丸々二本飲み干したところでなんだか身体が熱くなってきて、気分が高揚してくるのを感じた。これが酒に酔うということなのかと、小堀は初めて味わうその感覚を、決して悪くないと思っていた。 「小堀ってさ、彼女いんの?」 当たり障りのない話題から、諏佐は突っ込んだ話題へと急にシフトチェンジしてくる。年頃の男たちの間でそんな話題が出るのは決しておかしなことではないが、いかんせん急すぎやしないかと小堀は少し戸惑った。 「……いないよ。そういう諏佐はどうなんだ?」 「俺もいない。これでもし小堀に彼女がいたら、空き缶投げつけてやろうと思ってた」 「ひどっ!」 どおりでさっきから空き缶に手を添えているわけだと、小堀は諏佐の手元を見て苦笑する。 「でも一人身ってことは、やっぱ小堀も自分でしてんのか?」 「ん、何を?」 「オナニー」 「ぶはっ」 諏佐の口からいきなり飛び出した卑猥な単語に、小堀は思わず飲みかけのチューハイを噴出した。 「い、いきなり変なこと言うなよ」 「別に変なことじゃないだろ? 普通にダチに訊かれたりしたことあるだろ?」 「ないよ! 諏佐のスケベ!」 小堀はそういった下世話な話があまり得意ではない。興味がないわけではないのだが、周りにそういう類の話題を積極的に投下するような友人はいなかったし、慣れないだけに聞くだけでも恥ずかしいと感じてしまう。 「男はみんなスケベなんだよ! 小堀だって無害そうな顔して、エロ本とか読みながら一人エッチしてんだろ!」 「し、してるけど、そんなの普通訊かないだろ! プライバシーの侵害だ!」 「へえ、してるんだ。どんなのオカズにしてんの? なあ、教えろよ」 「ほっとけよ!」 完全にからかわれている。それがわかっていても冷静な対応ができなくて、悔しくて顔を背けていると諏佐が笑い声を漏らした。 「耳が赤いぞ」 「うるさいっ。諏佐のスケベ」 まるで子どもみたいだと自分で思いながら、小堀は赤くなった顔を隠すためにこたつに潜り込んだ。 それから何時間が経っただろう? いつの間にか小堀は眠りに落ちていて、目を覚ましたときには部屋の明かりが小さく淡いものに切り替わっていた。 「諏佐……?」 こたつから這い出し、辺りを見回すとすぐにベッドに横たわる部屋の主を見つけた。小堀と同じくらいの巨体は規則正しい寝息を立てており、時折何かしら寝言を呟いてはもそもそと寝返りを打っている。 小堀はそっとベッドにすり寄り、淡い光に照らされた諏佐の顔を覗き込んだ。地味な顔立ちだが、男らしく精悍で、真面目そうな印象を抱かせる。眉は細く吊り上がり気味だが、目は少し垂れていて厳つさを和らげている。 (すごく、タイプだな〜……) 小堀の恋愛の対象は基本的に男のみだ。だから諏佐のこともはっきり言えばそういう意識を持って目を向けることができるし、むしろ彼の顔は小堀の好みの範疇に入っていた。 (諏佐……カッコイイな〜) このままキスでもしてしまおうかと、小堀にしては大胆な考えが頭をよぎったが、さすがに勇気が出なくて実行には移せなかった。しかし、こんなにも好みの顔をした男が目の前で無防備に眠りこけているのに、何もしないのももったいない。せめて触るだけでもと手を伸ばし――その手をいきなり掴まれた。 「!?」 次の瞬間には小堀の身体はそのまま布団の中に引っ張り込まれ、たくましい腕にがっちりと抱き込まれている。そしてすぐ目の前には、にやりと笑う諏佐の顔があった。 「す、諏佐!? 起きてたのか!?」 「いや、いま起きた。ったく、人が寝てる間にちょっかい出そうとすんじゃねえよ」 どうやら小堀に顔を覗き込まれていたのは知らないらしく、また、こちらの意図をはき違えているようだ。それはそれで小堀にとっては都合がいいのだが、いまのこの状況は気を楽にできるようなものではない。 「こたつじゃ風邪ひくから、こっちで一緒に寝ろよ」 「いや、でも狭いし」 「遠慮すんな。その代わり今夜おまえは俺の抱き枕だけど」 「ええ!?」 好みの男に抱き枕にされる。もちろん嬉しくないこともないのだが、それ以上にどうしようもなく胸が高鳴って、これではもう眠りに就くことはできないのではないかと心配になる。 心配事はそれだけではない。諏佐の身体と触れ合い、彼の体温と匂いを感じて、小堀の男のシンボルが反応し始めていた。 (お、落ち着け、俺!) 諌めようとする小堀の意思とは裏腹に、そこは心の中に満ちるやましい気持ちをダイレクトに表現しようとしている。これが諏佐にばれたらとんでもない誤解――実際、誤解でもなんでもなく、小堀の素直な気持ちなのだが――を生んでしまう。今日住み始めたばかりのアパートでいきなり隣人と気まずくなるなんて、勘弁願いたい。 「諏佐、身体の向き変えてもいいか?」 「別にいいけど」 向き合って密着していれば絶対にばれてしまうだろうと、小堀は諏佐に背中を向けた。これでとりあえずは大丈夫だが、諏佐の腕は拘束を解いてくれず、背中に彼の体温を感じながら――小堀は完全に勃起してしまった。 (諏佐のスケベっ) 酒に酔ってしまったのか、ずいぶんと刺激的なことをしてくれる。当の諏佐は小堀の気持ちなど知る由もなく、すぐに寝息を立て始めた。 そして小堀はやはり、眠れない。身体が熱くて、心も熱くて、蕩けてしまいそうなほどにくらくらする。 ああ、と小堀はふと思い出した。この感覚がなんなのか。ただの興奮じゃなくて、どうしようもないくらいに心を掴まれてしまうこの感覚―― (これって、恋するときの感覚だ) |