その3


 引っ越してきて四日目の朝、ゴミを出しておこうと玄関を開けると、ちょうど隣の部屋から諏佐が出てきたところだった。

「おはよう」
「お、おはよう」

 この間から連日で諏佐をオカズに自分を慰めているせいか、少しだけ顔を合わせるのが気まずかった。けれどそれ以上にこうして会えたことが嬉しくもあって、小堀の胸はぽかぽかと温かくなる。

「あれから料理は自分でできたか?」
「食べられるものはなんとか作れたよ。簡単なものだったらなんとかなりそう」
「そっか。まあ、そのうち身についてくるって」

 柔らかく微笑んだ横顔を見て、やはりいい男だなと改めて思う。
 彼に対する気持ちの進行を抑えるどころか、小堀の好意は増々膨れ上がっていた。部屋にいれば隣の様子が気になり、時折壁に耳を押し当てては諏佐が何をしているのか探ることもある。
 もはやストーカーのようだと自覚はしている。結局自分の心に生まれてしまったその感情から逃げることなどできないのだと悟り、それを受け入れることにしたのだった。受け入れた上で、何も望まないことにした。
 ただの隣人、あるいは友達でいい。この想いは自分だけが知っていればいいのだと、二度目の恋を胸の内にしまっておくつもりでいる。
 いますぐ引っ越せば、想いを捨てるということもできただろう。しかし、今更また面倒な引っ越し作業をするのは嫌だし、何より諏佐と離れるのは寂しかった。

「諏佐はこれからどこ行くんだ?」
「バイト。小堀はニートだからいいな〜」
「ニートっていうなよ。一応入社式待ちだし、来週からは会社のバスケクラブに合流するんだから」
「そうだっけか?」

 この間話したじゃん、と指摘すれば、諏佐は覚えていないと冗談っぽく言った。

「じゃ、ここで」
「うん。バイト頑張れよ」

 アパートの階段を下りたところで諏佐と別れ、小堀はその後ろ姿をしばらく見送っていた。一度だけ諏佐が振り向いて手を上げたのに対し、小堀もまた満面の笑みで手を振り返す。

(なんか夫を見送る新妻みたいだな)

 などと思ってしまう自分はちょっとやばいなと思いながら、小堀はゴミ捨て場にトボトボと歩き出した。



 やることがないというのは実に退屈なもので、夜になるまでの時間がずいぶんと長く感じられた。
 この日の夕食もレシピ本を参考に四苦八苦しながら作り、それを食べてからはテレビをぼうっと眺めていた。そろそろ風呂でも入ろうかと思い立ったちょうどそのとき、インターホンが来客のあることを知らせた。

(誰だろう、こんな時間に……)

 宅配が来るにはもう遅い時間だし、他に思い当たる人物もいない。となるとまさか泥棒なのではないかと心配になり、ドアスコープ覗いてみれば、そこには隣人の男前な顔があった。

「よう」

 ドアを開けると、諏佐は酒の入った袋を見せつけ、少しだけ困ったような笑みを浮かべた。

「シャワーの調子悪くてさ、悪いんだけど今日は小堀んとこの使わせてもらっていいか?」
「いいよ。ってかそのチューハイはなんだ?」
「手土産。タダで使わせてもらうのも悪いからさ。あと洗濯機も使わせてくれ」
「どうぞ」

 思わぬ諏佐の来訪に、心が躍る。諏佐からしてみれば別に特別なことではないのだろうけど、自分を頼って来てくれたことが小堀は嬉しかった。

「小堀はもう風呂入ったのか?」
「いや、まだだけど?」
「じゃあ、先入って来いよ」
「いや、諏佐が先に入れよ。一応お客なんだし」
「そう? じゃあ、遠慮なく入らせてもらうわ。これ冷蔵庫に入れといて」

 差し出されたのはチューハイの入った袋だ。もう片方の手に提げられた袋にはどうやら着替えが入っているらしく、それを持って脱衣所に入っていった。

「服とかは洗濯機に入れといてくれればいいから」
「了解」

 アコーディオンカーテンが閉まり、中でもぞもぞと服が擦れる音がする。さすがにそれを下のわずかな隙間から覗こうなどとは思わなかったが、一枚一枚着ているものを脱いでいく諏佐の姿を想像しながら、一人興奮するのを抑えられなかった。
 リビングに戻ってもなんだか落ち着かず、決して広くない部屋をトコトコと歩き回る。幸いにも自慰の後処理をしたティッシュは今朝ゴミとして出しているが、残り香がするんじゃないかと心配だった。なまじ諏佐をオカズに使っているだけに、それを指摘されれば冷静でいられる自信がない。

「ファブリーズしとくか……」

 とりあえずその辺りは消臭剤でカバーするとして、他に見られては困るものがないかと一通り部屋をチェックし、自分を安心させる。

「上がったぞ」

 その作業を終え、一息ついたところで諏佐が風呂から上がってきた。入れ替わりで今度は小堀が脱衣所に入り、着ているものを脱ぎ始める。

(あ、諏佐のパンツだ)

 洗濯機の中身にふと気づいて、小堀は脱衣の手を止めた。
 黒色の柄のない地味なボクサーパンツ。さっきまで諏佐の地肌に触れていたのかと思うと、なんだかいやらしい気分になってくる。

(さ、触るだけなら……)

 いけないとわかっていながらも、本能はその行動を止められない。伸ばした手は洗濯機の中から諏佐の下着を掴み取り、柔らかい布地の感触を確かめる。

(まだ少し温かいな……)

 生々しい温もりをいっぱいに感じながら、小堀の興奮は高まる一方だった。何せこれは男の身体のセックスシンボルが収まっていたものだ。しかも自分が好意を寄せる人のものであれば、何も感じないほうがどうかしている。
 暴走し始めた本能は、もっと卑猥で変態的なことを小堀にさせようとしていた。それだけは駄目だ、と理性が働きかけるけれど、それもどんどん本能に飲み込まれていく。そして――小堀は諏佐の下着の局所部分を鼻に押し当て、ゆっくりと息を吸った。

(これが、諏佐の匂い……)

 少し汗臭くて、その中に男独特の匂いも混じっていて、小堀は堪らなくなる。
 気づけば小堀の下着は大きく盛り上がっており、その頂点に少しだけシミを作っていた。
 邪魔な下着を脱ぎ捨て、はち切れんばかりに膨らんだ己の肉棒を諌めるように握ると、いきなり激しく擦り始める。すでに先走りが亀頭を濡らしていたため、始めから扱きやすかった。

(こんなの……俺、めちゃくちゃ変態じゃないか)

 ふと顔を上げると、洗面台の鏡には諏佐の下着を嗅ぎながら性器を扱く自分が映っていた。いつから自分はこんな変態になってしまったのだろうか? 向こうの部屋にはこの下着の主がいるというのに、それをわかっていながら自慰に没頭している自分は、なんていやらしくて、汚らわしいのだろう。

「イクっ……!」

 しかし、やはり行為を止めることは最後までできなかった。
 このまま洗面台に白濁をぶちまけるのは拙い、と判断できるだけの理性は奇跡的に残っていて、小堀は咄嗟に諏佐の下着で先端を覆った。

「はあ……」

 ドクドクと、身体に溜まっていた欲望の塊が放出されていく。それが収まる頃には、諏佐の下着はドロドロに汚れてしまっていて、小堀は思わず顔を顰めた。

(諏佐のパンツにかけてしまった……)

 急速に冷めていく頭の中で、自分のしてしまったことにとてつもない罪悪感を抱き始める。
 とりあえず白濁塗れの諏佐の下着は洗面台で軽く洗って、自分の服とともに洗濯機に放り込んだ。それから自分の身体を――特に股間を念入りに洗い、浴室を出て身体を拭く。

「あ、着替え持ってくるの忘れてた」

 その段階になって、プラスチック棚に着替えがないことに初めて気づき、小堀は自分に呆れて溜息をついた。
 小堀は自分の身体を他人に見せることがあまり好きでなかった。相手が諏佐ならなおのこと見られたくない。だからといって、こんなところでいつまでもじっとしているわけにもいかず、覚悟を決め、バスタオルを腰に巻いて脱衣所を出た。

「長かったな……って、すげえセクシーサービスじゃん」

 案の定、リビングに戻ると諏佐の視線が痛いほどに突き刺さってきて、小堀は途端に恥ずかしくなる。

「着替え持ってくの忘れてた」
「言ってくれれば持って行ったのに。つーか、小堀って身体細いな」
「言うなよ。気にしてんだから」

 小堀は肉の付きにくい体質で、健康診断でも痩せすぎという評価をもらってばかりだ。身体を鍛えようにも、筋肉が付くには付くのだが、やはり肉が薄いせいで貧弱なものに感じられてしまう。
 だから昔からそれを気にして、人前で脱ぐことに多少の抵抗があったし、高校を卒業したいまもまだその気持ちは変わらない。
 そんな小堀の心情を知ってか知らずか、諏佐は無遠慮にこちらを眺めている。しかもなぜだか急に立ち上がり、タンスに向かおうとしていた小堀の前に立ちはだかった。

「な、なんだ?」

 小堀の問いかけに、諏佐は何も答えない。ただ真剣な目つきで身体を舐め回すように見られ、どうすればいいのかと戸惑っていると――いきなり両手で脇腹を掴まれた。

「ちゃんと飯食ってんのか? これはちょっとやばいだろ」
「だ、大丈夫だって。変なとこ触るなよ」

 諏佐が触っている部分はちょうど小堀がくすぐったく感じるポイントで、さっきからむずむずと落ち着かない状態だ。
 そろそろ離してくれという意思を乗せた視線を送れば、諏佐はにやりと少し意地の悪い笑みを浮かべた。そして――

「ひゃほっ!?」

 次の瞬間に脇腹を指でなぞられ、小堀はとても自分のものとは思えないような嬌声を上げながら、身体を仰け反らせた。

「へえ。小堀ってここが感じるんだ」
「ちょ、やめ、駄目だって! そこは、ほんとっ、勘弁してくれっ!」

 小堀の反応がおもしろかったのか、諏佐は一層笑みを濃くする。さわさわと指を動かされれば、たちまち呼吸が苦しくなるくらいにくすぐったくて、腹の底から笑いが込み上げてきた。

「ぎゃははははっ! それ、ファウル! マジで、やめろって! 諏佐の馬鹿!」

 手を退けようにも力では諏佐に敵わず、逃げようと身を引いても悪魔の手はしつこく追いかけてくる。このままでは本当に窒息してしまうんじゃないかともがくけれど、諏佐はなかなかやめてくれない。

「タイム! タイム! このままじゃ、死ぬっ! ぎゃはっ!」

 そして悲劇は唐突に訪れた。小堀があまりにも激しく暴れるせいで――腰に巻いたバスタオルが、ひらりと足元に落ちたのだ。

「「あっ」」

 二人同時に間の抜けた声を上げ、時間の流れが一瞬にして凍り付いた。








■続く■





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