その6
バイトに行ったのか、あるいは遊びに行ったのか、諏佐が何をしに出かけたのはわからない。だから部屋に帰って来るのも何時になるかわからないのだが、それでも小堀は玄関の前で彼の帰宅を待つことにした。
まだ春先とあって、夕方になると少し肌寒い。最初はジャージを着て突っ立っていたのだが、さすがに耐えられなくなっていまは厚手のダウンジャケットを上に着ている。
もしも今日笠松が来てくれなかったら、諏佐に会う勇気など出なかったかもしれない。声をかけてみて無視されたり、嫌な顔をされたりするのはやはり恐い。けれど理由もわからぬまま一方的に拒絶されるのは納得がいかないし、ちゃんと諏佐を話し合いたいと笠松のおかげで思えた。
諏佐がどんな答えを返してくるかはわからない。もしかしたら彼の言葉で自分はひどく傷ついてしまうのかもしれないが、このまま何も知らずに終わってしまうのはもっと嫌だ。
コツコツと、階段を踏む音がしたのは、小堀が待ちぼうけを始めて一時間ほどしてからのことだった。
音のするほうに目を向ければ、期待どおりの人物が廊下に躍り出てきた。彼は玄関の前に立つ小堀に気づいて、一瞬驚いたような顔をする。
「お帰り、諏佐」
「……ただいま」
無視されなかったことにひとまず安堵するが、やはり彼の表情は小堀を歓迎しているようには見えない。だからといって嫌悪しているふうでもないので、なんとかなりそうだと少しの希望を見い出せた。
「俺とはもう会わないほうがいいっていったろ?」
目が合うと足が竦んでしまいそうだった。内心でなんとか踏ん張りながら、小堀はきちんと自分の言葉を返す。
「じゃあ、その会わないほうがいいっていう理由を教えてくれ」
「聞いたらたぶん、小堀は俺のこと嫌いになると思う」
「嫌いになんかなるもんか! だいたい、嫌いになってんのは諏佐のほうだろ?」
「別に、小堀のこと嫌いじゃない」
「じゃあなんで避けようとするんだ!? 俺は諏佐ともっと親しくなりたいし、理由もわからずに拒絶されるのは結構きついんだぞ!」
諏佐はバツが悪そうに視線を逸らした。
「昨日、一緒に寝てるときに俺なんかしたのか?」
「そういうわけじゃない」
「じゃあ、なんでだよ? ちゃんと言ってくれ。でないと、ここで騒ぐぞ」
半ば脅すような台詞を口にすると、諏佐は少し驚いたように目を瞠る。まさか小堀がここまで押しが強いとは思っていなかったのだろう。今度は何か考えるように目を伏せ、しばらく何も言わなかった。小堀もそこはあえて急かしたりせず、諏佐が答えを出すのと黙って待つ。
「……わかった」
長い沈黙の末、諏佐がぼそりとそう呟いた。
「ちゃんと話す。でも、後悔しても知らないぞ?」
「後悔なんかしないよ」
理由を聞くよりも聞かないほうが、きっと後悔するだろう。どんな答えであれ受け入れる覚悟はできている。
「中に入って」
諏佐がドアを開錠し、先に入っていく。小堀もそれに続いて久しぶりに諏佐の部屋に足を踏み入れたのだが――後ろ手にドアを閉めた瞬間に、それは起きた。
「痛っ!」
いきなり肩を掴まれたかと思うと、そのまま閉まったドアに身体を押しつけられた。
いつも優しげに見える諏佐の垂れ目には、鋭い光が灯っている。初めて見るそれに小堀は少しばかり恐くなった。いったい何をされるのだろうかと、たちまち不安が押し寄せてきて、思わず息を飲む。
(な、殴られたりするのか? それほどのことを俺はしてしまったんだろうか?)
だが、小堀の心配はすぐに杞憂に終わった。
諏佐の男らしくて端正な顔立ちがぐっと迫ってきたかと思うと、次の瞬間には唇に何か温かくて柔らかいものが覆い被さっている。
(え? え? え? え?)
自分の身に何が起こっているのか、すぐには理解できなかった。唇に触れた何かは表面をざらりと這ったあと、下唇を軽く吸う。そのうちぬるっとしたものが小堀の唇の隙間から侵入してきて、歯茎をこじ開けようとしてくる。諾々とそれに従えば、まるで生き物のように口内で暴れ始めた。
その段階になってようやく小堀は、唇に被さったものの正体を理解した。
(す、諏佐とキ、キ、キスしてる!?)
妄想の中で何度もしていることなのに、いざ現実で体験してみると嬉しさを感じるより先に頭が混乱してしまった。そもそも自分がなぜ諏佐にキスをされているのかさっぱりわからない。
「んっ……」
キスなんて初めてで、何をどうすればいいのかわからず、小堀はただされるがままになっていた。次第に息が苦しくなってきて、思わず諏佐の身体を押し戻してしまう。
「おまえといると、こういうことしたくなるんだよ」
諏佐は感情を押し殺したような声でそういった。
「昨日だって、おまえが寝ているのをいいことにキスしたり、身体触ったりしてしたんだ」
「え? ほ、ホントに?」
「ああ。あのまま一緒に寝てたらやばいところまでいっちまいそうだった。だから途中で抜けたんだ」
それはどういうことだ。そう訊きかけたが、一瞬早く諏佐のほうが口を開いた。
「俺は小堀が好きなんだ」
その一言が小堀の内耳に滑り込み、心にじんわりと浸み込んでくる。すると、小堀の中にあった不安や焦りが一瞬にして消え去り、身体が急に軽くなったような気がした。
胸はいままでにないくらいにドキドキしている。足には上手く力が入らなくて、いまにもその場にへたり込んでしまいそうだった。
「こういうの、気持ち悪いだろ? だからそう思われる前に、小堀と距離を開けたかった。もっと親しくなってからじゃ、もっと辛くなるから」
「気持ち悪くなんかないよ。だって俺も――」
諏佐に届かないと思っていたこの気持ちを、諦めなくてもいい。もう何も我慢なんてしなくていいのだ。
諏佐の言葉が嬉しい。とにかく嬉しい。バスケの試合に勝利したときよりも、自分が入りたいと思っていた企業から内定をもらえたときよりも――これまでの人生で感じたことがないくらいに嬉しかった。
だからちゃんと諏佐に伝えなければ。自分も同じ気持ちだと。自分たちはちゃんと通じ合っているのだと。
「俺も、諏佐が好きだよ」
何度も何度も心の中で呟いた言葉。それが空気を震わせて、諏佐本人の耳に届くことが信じられない。でも、これは夢などではない。諏佐の手が自分の肩を掴んでいる感触がちゃんとある。そして手を伸ばせば、ちゃんと諏佐の身体に触れることができた。
「本気でいってるのか?」
むしろ信じられないというような顔をしているのは諏佐のほうだった。
「本気だよ。最初は一目惚れだったけど、一緒にいるうちにどんどん好きになった。諏佐こそ本気なのか?」
「冗談でこんなキス、するわけないだろ。俺だって最初は一目惚れだった」
諏佐が小堀の背に腕を回し、小堀もまた彼の逞しい身体を腕いっぱいに抱きしめて、二人の身体はいよいよ密着し合う。
なんて温かいのだろう。こんな温もりが存在するなんて、いまこの瞬間初めて知った。
「避けたりして悪かった。小堀が俺と同じ気持ちでいてくれるなんて全然思ってなかったから、もうああするしかなかったんだ」
「いいよ。ちゃんと理由もわかったんだし、こんなに嬉しいことってない」
覚悟していた失恋の痛みも、ずっと抱えて生きていかなければならないと思っていたジレンマも、もう感じなくていい。あるのは諏佐と並んで歩いていける明るい未来だ。
「こんな俺でも恋人として付き合ってくれるか?」
諏佐の顔はまだどこか心配そうだった。それを安心させるように小堀は微笑んで、一つ頷いた。
「当たり前だろ。こんなに好きなのに、断るわけないじゃないか」
「……ありがとう」
柔らかく笑んだ諏佐と目が合って、一瞬の沈黙が訪れる。いま必要なのは言葉なんかじゃない。もっと温かくて、柔らかいものがほしい。
それは諏佐も同じだったらしく、どちらともなくキスをした。
いままで我慢していたものすべてを開け晒すような、激しくて濃厚なキスだった。まるで久々に餌にありつけた飢えた獣のようだと、痺れ始めた意識の端で小堀はそう思った。
下唇に軽く噛みつかれ、同じように諏佐の下唇に噛みつけば、唇の表面を舐め回される。そしてそのまま舌を口内に招き入れて、自分の舌を必死に絡ませた。
「小堀……」
キスの応酬が止み、名前を呼ばれて顔を上げれば、諏佐は困ったような顔で下を見た。
「これ、どうしようか?」
「これって……あっ」
諏佐が何を言いたいのか、その目線を追って小堀はすぐに理解する。
諏佐のズボンの股間部分が異常に膨らんでいたのだ。それが何を示すのか、同じ男としてわからないわけがない。
だからといって小堀にはそれをからかうことはできなかった。なぜなら小堀の股間もまた、同じような状態になっていたからだ。
「あのさ、もし小堀が嫌じゃなかったら、軽くでいいからやらないか?」
「か、軽く?」
諏佐が何をやりたいのかはおぼろげにわかったが、経験のない小堀には彼のいう“軽く”がどの程度のものなのか想像もつかない。
「つーか、この状況でお預けとかいわれたら、結構辛いぞ?」
それは小堀だって同じだ。高ぶったままのこの感情をそのままにしておくのは、正直辛い。
迷ったのは、ほんの一瞬だった。互いに気持ちが通じ合っているのなら、関係が急速に深くなっても構わない。たとえそれが未知の経験であっても、諏佐が相手なら恐いことなど何もない。それに小堀だって男だ。諏佐とやりたくないわけがなかった。
「俺、経験がないから下手かもしれないけど、お願いします」
「大丈夫。俺がちゃんと教えてやるから」
■続く■
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