「すいません、大坪さん」 「気にするな。そういうこともあるさ」 謝られるのも、そしてそれを宥めるのも、先ほどからもう何度も繰り返してきたやりとりだ。 酔いつぶれてしまった日向には、もう何が何だかわからないのだろう。ただ時々譫言を呟きながら我に返っては、いまのように突然大坪に謝ったりしている。 この日はバスケ部の新人歓迎会だった。一応二十歳になっていない部員――大坪も含まれる――には絶対酒を飲ませてはいけない決まりになっていたのだが、日向は誤って口にしてしまったらしく、それをおもしろがった先輩たちにどんどん飲まされたのだった。 結果的に日向は酔いつぶれてしまい、とても自分の足では帰れない状態になってしまった。先程のように意識も曖昧なもので、そんな未成年を街に放置して帰るわけにもいかないだろう。 いや、実際酔いつぶれたのが日向でなければ、大坪は積極的に介抱などしなかっただろう。 大学に入って迎えた二度目の春――少なくはあったが待望だった新入部員がバスケ部の門を叩き、その中に彼はいた。 日向とは高校時代にライバル校として対戦したことがあり、また、合宿先が重なってともに練習したこともあった。そんな縁もあってか彼はすぐに大坪に懐き、大坪もまた後輩として彼を可愛がっている。 (それだけではないだろう……) いつの日からか大坪の心に芽生えた甘い感情が、自分の嘘を指摘する。 後輩として可愛がっているというのは、決して嘘ではない。だがそれ以上に心を覆い尽くさんばかりの恋慕が、大坪の中に存在していた。 叶わない恋だとはわかっている。けれどもっと親密になりたいという気持ちはなくならなくて、いまもこうして積極的に介抱してやっているのだ。 キスから始まる 「はあ……」 日向をベッドに寝かせると、大坪は大仰に溜息をついた。 自分から彼の世話係を買って出たものの、大坪は彼の自宅を知らなくて、結局自分の家に運んできたのだった。 静かに寝息を立てる日向。短い髪をそっと撫で、その手を頬に滑らせる。 (柔らかい……) こんなふうに日向に触れるのは初めてだ。頭を撫でるくらいならたまにしていたが、頬を柔らかく抓るのは、素面ならさすがの日向も許してはくれないだろう。 でもいまは目の前で無防備に寝入っている。こんなチャンスを逃してなるものかと、大坪は思う存分に日向の身体を弄ぶことにした。 ゲーム中によくスリーポイントシュートを決めてくれる腕は、大坪からしてみればまだまだ細い。こんな腕でよくもあんなに重たいバスケットボールを上手くコントロールできるものだと、二の腕を揉みながら感心する。 次に服の裾を捲って、露わになった腹筋を指でなぞった。部活中、ジャンプをしたときにちらりと見える、この綺麗な腹筋に何度生で触ってみたいと思ったことだろう。 裾を更に捲り上げれば、薄い桃色をした乳首が顔を覗かせた。子どもならまだしも、いったいどうやったら大人になってもこんな色を維持していられるのだろうかと、半ば感心も含めた気持ちでそれを眺めやる。さすがに触れてしまうと自分の中の何かが切れてしまう気がして、伸ばしかけた手を引っ込めた。 (シャワー浴びるついでに、ヌいておくか……) いくら日向が寝入っているとはいえ、あまり変なちょっかいを出してそれがばれでもしたら、せっかく培ってきた彼との信頼関係が一気に崩れてしまう。そうなれば修復はもう無理だろうし、それどころか警察に突き出されてしまう可能性すらあるだろう。 いまにも暴れ出してしまいそうな熱い気持ちを抑えなければ。とりあえず浴室で欲望を吐き出しておこうと立ち上がりかけ――その腕を熱のこもった手に掴まれた。 「日向?」 視線を下げると、日向は眼鏡の奥の双眸を薄らと開き、じっとこちらを見上げていた。 「そばにいてください」 思わぬ台詞に目を瞠れば、日向の手が大坪の腕を優しく引っ張る。諾々とそれに従って再びベッドのそばに腰を下ろすと、日向は大坪の手を取って、それを自分の額に宛がった。 「大坪さんの手、冷たくて気持ちいい……」 日向の額は酒のせいでかずいぶんと熱い。空いたほうの手で首筋に触れれば、日向は気持ちいい、と小さく漏らした。 「気分はどうだ?」 「……最悪です」 だろうな、と大坪は苦笑する。初めての飲酒であれだけ飲まされて平然としていたら、そちらのほうがよっぽど恐ろしい。 「ここ、どこっすか?」 「俺の家だ。おまえの家なんて知らないからな」 「ああ、どおりで枕から大坪さんの匂いがすると思った」 「臭いか?」 「いや、全然。俺はこの匂い、結構好きっすよ」 「何を言ってるんだ、おまえは……」 酔っぱらいの戯言だとわかってはいるが、そんなことを言われて本当は少しだけ嬉しかった。 「匂いだけじゃないっすよ。顔も髪も、身体も……全部好きすぎてやばいっす」 ドキ、と音が聞こえてきそうなほどに胸が疼いて、大坪は思わず固まってしまう。一方の日向は、弱々しいが邪気のない笑みを顔に浮かべて、まっすぐにこちらを見上げてくる。 「……からかうのもいい加減にしろ」 なまじ本気で好きな分、どうしてもいろんな期待をしてしまう。だからそんなことを軽々しく口にするなと言いたかったが、日向がそれを制した。 「からかってなんか、ないっすよ。俺はマジで大坪さんのこと好きなんで」 「酒のせいで頭が混乱しているだけだ」 「混乱なんかしてない。自分が何言ってるのかちゃんとわかってるし、これは俺の本心だ」 日向の目は真剣そのものだ。だからきっといまの台詞に嘘はないのだろうと、理解はしていてもやはりどこか信じきれない。たとえ彼が素面だったとしても、きっと同じように信じきることはできなかっただろう。 (だって俺には、何の魅力もない……) 真面目さには自信があるものの、それが魅力になっているとは思えない。顔も厳つくてお世辞にもカッコイイとは言えないし、気を遣えなければ、おもしろいことも言えない。そんな男を日向のような、たくさん魅力を持った人間が好きになるはずがない。 「やっぱり気持ち悪いっすか?」 トーンダウンした日向の声に、大坪ははっとなる。 「男に好かれるなんて、やっぱ嫌っすよね」 「……そんなことはない。そんなものは個人の自由――」 日向のネガティブな言葉を否定しようとしたが、ふと彼の頬を零れ落ちるものに気づいて、それは途中で止まってしまった。 布団に隠れた身体は、震えていた。八の字に結んでいた唇はやがて小さく嗚咽を零し始め、枕にはどんどんシミが広がっていく。 「す、すまん、日向。泣かないでくれ」 咄嗟に涙を手で拭ったが、嗚咽はひどくなる一方で、大坪はどうしていいのかわからず一人あたふたとしていた。 「いま言ったこと、忘れてくださいっ。俺、大坪さんに嫌われるの嫌だ」 日向がいかに本気なのか、泣きじゃくる姿を見て思い知らされる。そしてなぜ彼の気持ちを疑ってしまったのだろうかと、素直に彼を信じてやれなかった自分を責めた。 「俺がおまえのこと嫌いになるわけないだろう」 こんな自分に、好きな人を泣かしてしまうような男に、愛される資格などあるのだろうかと思うけれど、それでも明るい未来を求めずにはいられなかった。 「俺も日向のことが好きだ」 口に出した瞬間、大坪の心に漂っていた靄が一気に晴れ渡るのを感じた。 一生叶わないと思っていた恋。彼に伝えることもできずに、いつしか消えていくだろうと思っていた感情。それをもう後ろめたく感じなくていいのだとわかって、大坪は純粋に嬉しかった。 「嘘だ……」 大坪の告白を聞いた日向は、小さくそう漏らした。 「嘘なんかじゃない」 「だって、そんなこと絶対ないって。大坪さんが、俺なんかのこと……。そうだ、泣いてる俺を見て、可哀想とか思ったんでしょ? だから同情してそんなことを」 「同情して好きでもない相手に告白するなんて、俺にはできない」 「でも、信じられな――」 なおも否定の言葉を並べようとした日向の口を、大坪は咄嗟に自分の口で塞ぐ。 恥ずかしながらキスをするのは初めてで、驚くほど柔らかい唇の感触に大坪は虜になってしまった。呼吸すらも忘れて夢中で吸いつき、息が苦しくなったところでようやく我に返る。 「……これでも、信じられないか?」 本当は興奮も極限に達しそうな状態であったが、そこは年長者の威厳を保ちたくて、なんとか冷静な自分を演じてみせた。 「お、大坪さんと、キス……」 日向の顔はただでさえ酒で赤くなっていたのに、いまのキスで更に色が濃くなっていた。それこそゆでだこのようだと思うけれど、大坪はそんな日向を笑ったりしない。なぜなら自分の顔も同じような色になっていると自覚しているからだ。さっきからやたら顔が熱い。 「ずっと……と言っても、再会してそれほど日にちは経ってないが、日向のことどうしようもないくらいに好きになってしまった」 「俺も大坪さんのこと好きすぎて、もうやばくて……。でも、叶うわけねえからって絶望してたんです。だから、いますげえ嬉しい」 そう言いながら日向はまた涙を零して、大坪がそれを拭ってやる。 「俺はその、なんだ……いままで誰かと恋人として付き合った経験がない。だから、あまり気の利いたことはできないかもしれないが、それでもいいか?」 「そんなの全然気にしないっすよ。それに俺だって付き合うの初めてだし、どうしたらいいかよくわかんないっす」 初めて同士っすね、と今度こそ日向は嬉しそうに笑い、大坪もそれにつられて笑みを零した。 これから日向といろんな初めてを共有できるのだと思うと、素直に嬉しい。初めてのデート、初めての添い寝、そして初めての―― (い、いまはまだそんなもの、早い……) ありとあらゆる手順をすっ飛ばし、いきなりキスをしたさっきの自分のことなどすっかり忘れて、大坪はあらぬ妄想を胸の奥に押し込む。 「大坪さん」 名前を呼ばれて視線を上げると、穏やかな表情をした日向の顔があった。 「ずっと俺のそばにいてください」 それだけの短い台詞が、大坪の心を鷲掴みにする。そして揺るがない決意を胸に宿らせ、それを言葉にしてみた。 「ああ、ずっとおまえのそばから離れない。辛いことからも、悲しいことからも、俺がずっと守ってやる」 よかった、と日向が小さく呟いたのが聞こえた。そのあとに続く台詞はなく、代わりに規則正しい寝息が大坪の耳朶を優しく撫でる。 「寝たのか……」 切れ長の瞳は、閉じられていた。危ないだろうと眼鏡をそっと外し、無骨な掌で、できるだけ優しく頭を撫でる。 そして大坪はこっそりと、薄く開かれた唇にキスを落とすのだった。 |