新郎の立花瀧が、新婦の宮水三葉のベールをそっと上げる。見つめ合う時間はそう長くなかった。瀧の顔がゆっくりと三葉の顔に近づき、その唇が彼女の額に触れる。
 拍手が上がった。列席者の一人である藤井司もそれに倣って拍手をしながら、胸の奥底から湧き上がる破壊衝動を堪えるように歯を食いしばる。
 誓いのキスを終えた瀧は、三葉と見合いながら照れたようにはにかんだ。まだどこかあどけなさの残る顔と相まって、危うげな色気を委細なく放つ。
 司は瀧のその顔が好きだった。顔だけじゃない。さらさらとした髪も、耳触りのいい柔らかな声も、素直で優しい性格も、瀧のすべてが愛しくて堪らなかった。友人としてそばにいながら、いつも彼の声や一つの表情に心を揺さぶられた。彼がいるだけで、この世界のすべてが輝いて見えた。
 そんな瀧が今日、結婚する。司の片想いは実を結ぶことなく、誰にも知られることもなく、ここで終わりを迎えようとしていた。覚悟を決めていたはずなのに、幸せそうに笑い合う二人を見ていると、ひどく寂しい気持ちにさせられた。まるでこの世界に一人ぼっちにされたような、そんな虚無感が司の心を覆い尽くそうとしている。
 もう帰りたい。これ以上ここにいたら惨めな気持ちが膨れていくばかりだ。けれど今日はちゃんと最後まで“瀧の親友”でいると決めていた。親友として瀧の新しい人生のスタートを祝ってやると自分に誓っていた。だからどんなに辛くても、どんなに寂しい思いに駆られても、この場から逃げ出すことは絶対にしない。

「新郎新婦が退場致します。皆様、お二人を盛大な拍手でお見送りください」

 司会が挙式の終わりを告げる。そして場内は再び大きな拍手に包まれ、主役の瀧と三葉の二人がバージンロードをゆっくりと歩いていく。
入場のときはこちらに笑顔を向けてくれた瀧だったが、退場のときは毅然とした表情でまっすぐ前を向いていた。司の目の前に差しかかってもそれは変わらない。通り過ぎていく背中を見つめていると、なんだか捨て置かれたような気持ちになって目を逸らした。

 そのときだった。

 何気なく視線を向けた先にいた男と、偶然にも目が合った。バージンロードを挟んだ向かい側、ちょうど司と同じ列にいて、他の列席者と同じように拍手をしている。修行僧かと思わせるような坊主頭に、男臭いが整った顔立ち。スーツがおそろしく似合ってない彼は、司と目が合うとすぐに視線を逸らした。司もすぐに興味をなくして今度は窓の外を見やる。この結婚式を祝うようなすっきりとした青空が、なんとなく憎たらしくて思わず舌打ちをしてしまった。




 綺麗な、とても綺麗な片想いの終わり





T.

 最近、友人の瀧の様子がおかしい。と言ってもいつもおかしいわけではなく、時々、週に二、三日ほどまるで別人のような仕草や喋り方をする日があるといった具合だ。
 童顔な瀧だが、その中身はどちらかと言うと男らしく、行動的で責任感も強い。そんな瀧がある日突然、仕草も喋り方もまるで女の子のようになった。しかもその日は学校の場所がわからないと言って遅刻したり、何カ月も続けているはずのバイト先がどこかわからないと言って司たちに案内させたりと、瀧の身体に別の誰かが入っているのではないかと疑いたくなるような言動や行動が目立った。
 次の日にはいつもの瀧に戻っていたが、それから時々、日単位でその女の子のような人格が現れるようになった。その現象がいったいなんなのか司にはさっぱりわからなかったが、二重人格だろうということにして深くは追及しないようにしている。
 今日の瀧は、女の子っぽいほうの瀧だった。朝早くにLINEでメッセージが入ったと思ったら、瀧からの「横浜に行きたいから連れて行って(ハート)」という誘いで、その一文だけでいつもの瀧じゃないと瞬時にわかった。



「瀧、横浜楽しかったか?」

 帰りの電車を待ちながら、司は横に並んだ瀧に訊ねた。

「うん! 小龍包美味しかったな〜。また食べに来たいな〜」

 幸せそうな顔をする瀧は、やはりいつもの瀧じゃない。うっかり可愛いな、なんて思いながら、その頭を撫でてしまいそうな自分に気づいて慌てて目を逸らした。

「司く……じゃない、司、付き合ってくれてありがとう。急に誘ってごめんね」
「いいって。どうせ今日は暇だったしな。それに俺も横浜は久々だったから、いろいろ楽しかったよ」

 よかった、と無邪気に笑う瀧に司も自然と笑い返して、他愛もない話をしているうちに電車が来た。
 タイミングがよかったのか中は結構空いていて、二人とも椅子に座ることができた。歩き回って足が疲れ始めていたから、これは嬉しい誤算だった。
 電車が発車して最初のうちはさっきの会話の続きをしていたが、次第に瀧からの返事が少なくなり、ついに静かになったと思ったら隣で寝息を立てていた。幸せそうな寝顔を見て司は思わず苦笑を零しながら、旅の記念にスマホのカメラでそれを撮っておいた。
 話し相手がいなくなり、暇になった司はスマホのアプリで時間を潰すことにした。肩に重みを感じたのは、間もなく乗り換えの駅に着こうかというときだった。眠った瀧の頭がこちらに倒れてきたのだ。
 瀧の柔らかい髪の毛からは何か甘い匂いがした。それに混じって少し汗っぽいような匂いもわずかに鼻を掠める。
 その瞬間、司は全身の血が沸騰するような興奮を覚えた。同時に瀧に対して興奮した自分に驚きながら、身体を硬直させて意味もなく息を飲む。
 司は自分がゲイだということを、中学生の頃にはすでに自覚していた。けれど瀧をそういった意味で意識したことはこれまでなかった。確かに可愛い顔をしているし、放っておけないとも思うけれど、司のタイプは男らしい兄貴系だ。だから童顔の瀧は対象外のはずだった。
 けれど肌と肌が触れ合った今、司は強烈に瀧を抱きしめたくなった。いや、肌と肌が触れ合うスキンシップなんて日常茶飯事だったはずなのに、なぜだかこのときは触れた部分を強く意識してしまった。
 人の姿が疎らなのをいいことに、司はそっと自分も瀧のほうに寄りかかる。さっき感じた匂いが一段と強くなり、司の興奮もグッと高くなる。このまま永遠に電車に揺られていたい。駅に着かなければいいのにと願ったが、無情にも間もなく駅に到着するというアナウンスが車内に響き渡った。



 突然の衝動は、やがて好意に変わって司を悩ませた。瀧にそちらの素質がないのはわかりきっているのに、彼を好きでいることをやめることはできなかった。むしろ日に日にその感情は深まるばかりで、司は底なし沼に足を突っ込んでしまったような気分になった。
 てっきりあの“おかしいときの瀧”に魅かれているのかとも思ったが、いつの日からかそちらの瀧が姿を現さなくなっても自分の中の気持ちは変わらなかった。どうにかしたいけれどどうすることもできず、悶々と悩みながら友人として彼のそばにいた。時には好きな人のことを相談されて辛い思いもさせられたけど、気持ちが消えたり小さくなったりすることはなく、高校を卒業してもそれは司の中に根を張ったままだった。


 ◆◆◆


 頭上に広がる星空を眺めながら、司は瀧を好きになったあの日のことを思い出していた。
 夜の公園に人の姿はなく、奥まった場所にある東屋となるとそれは尚更だった。司はベンチに一人座り、買って来た酒を飲んでは何度も溜息をつく。
 瀧の結婚式はなんとか最後まで耐えられた。けれどさすがに二次会に出る気力はなくて、披露宴が終わるとそそくさとあの幸せを祝う場所を離れた。その足でなんとなくここに来たのだった。
 結婚すれば瀧のことは綺麗さっぱり諦められると思っていたのに、司の片想いは今も胸の中にある。正直に言えば、瀧を他の誰かに取られたことが死ぬほど悔しかった。帰り際に列席者を見送る瀧に「幸せにな」と言ったが、内心では不幸になればいいと思った。そして三葉と別れて傷心の瀧を、自分がたっぷり慰めてやるのだ。そうすれば瀧は自分に振り向いてくれるかもしれない。

(そんな都合のいいこと、あるわけないだろ……)

 妄想は頭の奥に押し込んで、司はまた酒を一口飲んだ。あの二人が別れることなんてきっとない。あったとしても、そしてどんなに自分が瀧に尽くしたとしても、瀧の気持ちがこちらに向くことはないのだろう。世界はそういうふうにできている。
 寂しくて涙が出そうだった。けれどここで泣いたって瀧が結婚した現実は変わらないし、きっと惨めになるだけだ。だからグッと堪えて、それを誤魔化すようにまた酒を煽った。
 足音がしたのはそのときだ。落ち葉を踏みしめる音が徐々に近づいてくる。そして木々の向こうから人影が現れた。外灯の光に照らし出されたのは、坊主頭の冴えない男だった。
 その顔に見覚えがある気がしてもう一度よく見れば、今日の結婚式の、新婦側の列席者の一人だった。挙式の最後に目が合ったからなんとなく覚えている。
 男はそのまま東屋を通り過ぎようとしたが、司と目が合うと驚いたような顔をして足を止めた。それも一瞬のこと、男はその顔を愛想笑いに変えて司のほうに近づいてくる。

「今日の式にいた人ですよね?」

 男らしく低い声が訊ねてくる。

「はい。えっと、そちらは三葉さんのほうの……」
「そうです。やあ、やっぱこの頭だから覚えてもらえるんかなー」

 言葉そのものは標準語だが、イントネーションはどこか東京人とは違っていた。そういえば三葉もそんな感じだったなと、いつかのことをふと思い出す。

「俺はあんまり目立つほうじゃないのに、よく覚えてましたね」

 確かに一回目が合った覚えはあるが、それだけで印象に残るほど自分の容姿に目立つ点はないはずだ。

「なんか頭がよさそうなんがいるなあと思って、なんとなく覚えとったんですよ」
「たまにそれ言われるけど、見た目だけで中身は決して頭よくなんかないですよ」
「本当かな〜」

 笑った男の目が、司の目の前に置かれた複数の酒を捉える。

「二次会には行かんかったんですね」
「ああいう賑やかな場所はあまり得意じゃないので……。そちらも行かれなかったんですか?」
「俺は最初から出る気なかったから。たぶんそういう気にはなれんだろうと思って最初から断っとったんです。だから酒飲み足りなくて、ほら」

 男が持っていた袋の口を広げる。中身は酒とつまみのようで、その数は司が買った分よりも多い。

「今からホテルに帰って一人酒しようかって思ってたとこですよ。でもやっぱ一人じゃ寂しいし、せっかくだから一緒してもいいですか? 邪魔だったら遠慮なく断ってください」
「あ、いえ……どうぞ。あんまり綺麗なところじゃないですけど」

 一人で気持ちの整理をしたいという思いもあったが、誰かと話していると気が紛れて楽になれるかもしれないと思って、司は男のためにベンチの端に寄ってスペースを空けてやった。

「ありがとう。俺の酒も遠慮せんと飲んで。あ、俺三葉の幼馴染の勅使河原克彦って言います。そっちは?」
「藤井司です。瀧の高校からのダチになります」
「ってことは俺らの三つ下ってことでええんか?」
「そうなりますね」

 勅使河原は司の隣に座ると、自分の買ってきた酒をさっそく開けて飲んだ。

「東京は夜も賑やかやね。俺んちの辺、この時間になったらなんの音も聞こえんくなる」
「東京に住んでるんじゃないんですか?」
「うん。三葉の結婚式のついでに東京観光しとこうと思って、今週いっぱいはこっちにホテルとっとる。普段は岐阜の飛騨ってとこに住んどるよ」
「三葉さんと幼馴染ってことは、生まれは糸守ですか?」
「そうそう。糸守を知っとるんか? ……って、あんだけの騒ぎが起きたら知っとるのが普通か〜」
「ええ、まあ」

 三葉や勅使河原が生まれ育った糸守町は、十数年ほど前にテレビや新聞を賑わせた。当時地球に大接近していた彗星の一部が糸守町に落下し、人が立ち入れなくなるほどの大災害が起こったからだ。
 住人はたまたま避難訓練をしていて全員無事だったらしい。そんな偶然あるんだなと、ニュースを見ながらひどく驚いたのを今でも覚えている。

「俺、高校の頃に瀧と一緒に糸守に行ったことがあるんです」
「司くんたちが高校の頃っちゅーたら、彗星が落ちた後か。なんもないのに何しに行ったん?」
「瀧が何かを探しに行くのについていったんですけど、どれだけ思い返しても何を探していたのか思い出せないんです。瀧本人も忘れてるみたいで……。でもあのとき見た景色は覚えてますよ。高校の校舎からひょうたん型になった湖を眺めたり、あと図書館にも行ったっけな……」
「おう、そうそう。あの日はみんな高校に避難しとって無事やったんやわ。爆風がすごくて、あっこにおっても死ぬんじゃないかって思ったわ」

 懐かしいなあ、と勅使河原はどこか嬉しそうに目を眇める。

「田舎でなんもなかったけど、毎日楽しかった。三葉たちと一緒にぐだぐだ一日を過ごして、他愛もない話をして、全然退屈せんかったな〜」

 勅使河原は糸守での思い出話をいくつかしてくれた。瀧との思い出話を訊かれたから、司も昔のことを思い出しながらいろいろと話した。
 話しながらも酒を飲む手は緩めなかったから、少しくらっとする程度に酔いが回ってくる。隣の勅使河原も顔が少し赤くなっているし、喋る声もさっきより大きい。

「瀧くんかー。俺もどうせならあんな感じの美男子に生まれたかったわ」
「でも童顔なのたいぶ気にしてますよ」
「贅沢やな。俺なんかむさ苦しいって言われるんやぞ」

 確かにむさ苦しいが、司はその顔を決して嫌いじゃなかった。

「でも瀧くんは幸せ者や。三葉みたいな別嬪で優しいやつを嫁にもらえるなんて、正直羨ましいわ」

 そうですね、と司は適当に相槌を打った。本音を言えば羨ましいのは三葉のほうであって、瀧じゃない。可愛くて、でも男らしくて優しい瀧。そんな彼と夫婦になれるなんて三葉は幸せ者だ。自分には叶えることのできない夢。女に生まれたかったとは思わないけど、それでも変われるならその場所を三葉に変わってほしかった。

「三葉さんって昔からあんな感じなんですか?」
「そうやぞ。まあ昔はもうちょっと落ち着きなかったけどな。そういやあいつ一時期えらく行動的で男っぽくなってたことあったな。突然髪をばっさり切ったりもして。まあ、いろいろストレスがあったんやろうけど……」

 勅使河原は何か勢いでもつけるように酒をぐいぐいと飲んだ。

「俺な、三葉のことが好きやった」

 優しい声で告げられた一言に、司は驚かなかった。さっきの口ぶりからなんとなくそうだったんじゃないかと気づいていたからだ。

「でも結局なんも言えんまま離れ離れになって、いつの間にか三葉は別の誰かのもんになっとった。最初知ったときはえらくショックやったなー」

 その気持ちは痛いほどわかる。司も瀧に三葉のことを紹介されたとき、家に帰ってから泣くほどショックだった。それに今も――
「今も」

 司の頭の中の声に、勅使河原の低い声が重なる。

「今も三葉のことが好きで好きで堪らん。だから今日の結婚式、死ぬほど辛かった。本当に好きならそいつの幸せを願ってやらんと駄目ってわかっとるんやけど、どうしても瀧くんのこと憎いって思ってしまう。三葉のこと諦めんといかんって思うのに、気持ちが全然なくならん」

 寂しそうな顔でそうぼやいた勅使河原は、今の自分と同じ苦しみを抱えているのだ。長い片想いが叶わずに終わってしまう寂しさ、諦めなければいけないのに諦めきれないもどかしさ――全部わかってしまうから、自分を見ているようで辛くなる。けれど同時に仲間意識のようなものも司の中に芽生えていた。

「俺も同じなんです」

 そして言葉を紡ぎ出す。

「同じって……ひょっとして司くんも三葉のこと好きやったんか?」
「違います。そっちじゃなくて、俺が好きなのは瀧のほうで……」

 司は自分の性的指向を、同類以外には誰にも打ち明けたことがない。けれどこのときは自分でも驚くほどあっさりとカミングアウトできた。たぶんさっきの仲間意識のせいと、来週には飛騨に帰るであろうこの人になら何を言われてもどうでもいいという意識があったからだ。

「あー、え〜と……どういうことや?」

 困惑したような表情を見せる勅使河原に、司は思わず苦笑を零す。

「俺、ゲイだから男しか好きになれないんです。だから瀧のこともそういう意味で好きでした」
「そうやったんか……」
「……やっぱり気持ち悪いですよね?」
「いや、別に平気やぞ。男が男を好きになっちゃいかんなんて決まりないしな。ただそういうやつが周りにおらんかったし、テレビの中の話やと思ってるとこあったから、かなりびっくりした」

 特に差別的な感情もなさそうな勅使河原の反応に、司は少しだけ安堵した。

「でもそっか……俺ら同じ境遇なんやな。司くんも今日の結婚式辛かったやろ?」
「覚悟はしていたけど、やっぱり辛いもんですね。本当に人のものになってしまったんだってまざまざと思い知らされましたよ」
「俺もや。手の届かんところに行っちまったんやなって、もう俺の出る幕なんかないんやろうなって感じさせられたわ。おめでとうとか幸せになれとか、よくもそんな思ってもないこと言えたもんやな〜俺。本当は悔しくて泣きそうやったに」

 勅使河原の顔が悲しそうに曇る。大丈夫かと訊けば、その顔を少し無理のある笑顔に変えた。

「司くんは大丈夫なんか? 泣きたくなったりせんのんか?」
「俺は……さっきは泣きそうだったけど、勅使河原さんといるとなんだか気が紛れて平気になりました」
「そっか。よし、今日はとにかく飲んで飲んで飲みまくろう。そんで、叶わなかった恋のことなんぞ忘れてしまおうや」
「そうですね」

勅使河原といると、自分の心が悲しみの海に沈まなくて済む。後悔も寂しさも、そして瀧を想う気持ちも、彼の明るい声に掻き消されて司は少しだけ楽になれた。









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