U.

 高校時代に瀧たちとよく行っていたカフェがある。メニューの種類も食事の味もその辺のカフェとさして変わらないレベルだが、北欧をイメージしたお洒落なインテリアが気に入って通うようになった。
 社会人になった今も、瀧たちに会うときはここに来ることが多い。そして今日も瀧の誘いを受けて、仕事帰りにそのまま寄ったところだった。
 少し遅れると瀧からメッセージが入っていたから、司は先に入って奥のテーブル席で待つことにした。すっかりお決まりになったエスプレッソを注文し、それを飲みながら携帯のアプリで時間を潰す。
 大好きな瀧と会えるというのに、この日の司はそのことを少しも楽しみに感じていなかった。なぜなら瀧の目的が、自身の恋人を紹介することだったからだ。
 瀧に恋人がいることはずいぶんと前から知っていた。確か名前は三葉だ。何度か話を聞いたことはあるけれど、実際に会うのは今日が初めてになる。憎き恋敵との対面。正直顔なんか見たくないし、紹介すると言われたときに断ることも考えたけど、どんな女が瀧を独占しているのか確認もしておきたかった。
 手に持ったスマホがメッセージの受信を知らせる。瀧からの到着を知らせるメッセ ージだった。出入り口に目を向けると、メッセージを送ってきた本人と、瀧より少し背の低い女が辺りを見回していた。瀧はすぐに司に気づいてこちらに来る。

「待たせてすまん」
「いや、大丈夫。さっき来たところだし。まあとりあえず座ったら? 話はなんか注文してからにしようぜ」
「そうだな」

 瀧が椅子に座ったのに倣って、隣の女も席に着いた。
 こいつが三葉。三葉は瀧よりも三つ年上だと聞いている。年上らしく落ち着いた雰囲気で、ストレートの長い黒髪がその雰囲気をより深いものにしていた。メニュー表に目を落とす顔は結構な美人だ。モデルをしていると言われても疑わないほどだが、確か仕事は会社員だと言っていた覚えがある。
 司はコーヒーに追加して軽食を頼んだ。二人もそれぞれ好きなものを注文し、店員がオーダーを取って下がっていったところで瀧がわざとらしい咳払いをする。

「あ〜、え〜と……俺の彼女の宮水三葉さんです。こっちは友達の藤井司」
「初めまして。司くんのことは瀧くんからいつも聞いてます。三つ上って言ったらもうおばさんかもしれないけど、よろしくね」
「おばさんなんてとんでもないですよ。童顔の瀧と並んでても同い年に見えます」
「あ、ありがとう。司くんって女の子を見る目が厳しいって瀧くんから聞いてたから、
なんて言われるか恐かったんよ」
「今のお世辞に決まってんだろ。真に受けんなよ」

瀧が椰輸するようにそう言うと、三葉は可愛らしく頬を膨らませた。

「そんなのわかっとるよ! 瀧くんはすぐそういうこと言うんやから。女心がわかっとらん」
「うるせえ」

 口喧嘩をしながらも、二人は仲がよさそうだった。軽い皮肉を言う瀧。それはいつもの瀧だけど、今日は司と一緒にいるとき以上に笑っている。やっぱり三葉が好きなんだなと、初めて二人が一緒にいるのを見て思い知らされた。悔しいし、腹が立った。仕方がないことだとわかっていても、その事実を簡単に受け入れられるほど司の心は柔軟じゃない。
 どうして自分じゃないんだろう。どうして自分は瀧の特別になれないのだろう。女だったら少しは違っていただろうか? 自分が女だったら、瀧は意識してくれただろうか?
 仮に司が女だったとしても、三葉と並べられると瀧は自分を選ばない気がする。三葉は美人なだけじゃなくて、性格も可愛かった。明るいし、素直だし、おもしろい。憎い憎いとばかり思っていたのに、実際に話してみると司は三葉を嫌いになれなかった。
 二人の話を聞き、相槌を打ちながらも、司は抜け殻のような状態になっていた。心に羽が生え、身体の中から飛び去っていく。けれど片想いだけは司の中に残されて、瀧と目が合うたびにドキリとさせられた。

「あのさ、司。今日は三葉を紹介するだけじゃなくて、大事な話があったんだ」

 瀧の顔と声音が急に真面目な空気を帯びる。ひょっとして転職でもするんだろうかと暢気なことを一瞬考えたが、次の瀧の言葉で司は凍りつくこととなった。

「俺たち、来年結婚しようと思うんだ」

 その言葉は鋭い槍のようだった。切っ先が真っ直ぐに司の胸に突き刺さり、強い衝撃と激しい痛みに襲われる。司の胸のほとんどを占めていた片想いが、バラバラに砕け散った。けれどそれは消えたりはせず、身体のあちらこちらに貼り付いて離れなかった。
 形だけでもおめでとうと言わなければと思うのに、それがなかなか喉から上に上がってこない。息を吸い込んで、ただ吐き出して、意味もなく時間が過ぎていく。

「司?」

 瀧が心配そうに顔を覗き込んでくる。慌ててかぶりを振って、意識を現実に繋ぎ直した。

「いや、ちょっとびっくりして……」
「まあ、いきなりだったしな」

 確かにいきなりだった。けれどいつかはこの日が来るかもしれないと、危機感を持っていなかったわけではない。ただ、覚悟は何一つできていなかった。そんな日が来るとしてもきっと遠い未来の話で、しばらくは何も考えずに瀧のそばにいられるものだと思っていた。
 なんとなく、目の前の二人の顔を見る。可愛い瀧と、美人の三葉。二人はきっと幸せになる。子どももできて、家族でいろんなところに出かけたりして、そんな当たり前の――それでいて幸せに満ち溢れた家庭を築くのだろう。そんな二人の人生に、司の片想いが入る余地などない。

「まさか瀧に先を越されるとは思わなかったな」

 瀧の親友という名の仮面がどこからか舞い降りてくる。司はそれをさっと掴み、自分の顔に被せた。

「やっぱり早かったかな?」
「そんなことねえよ。三葉さんのこと、この人しかいないって思ったから結婚を決めたんだろ? だったら早いも遅いもないんじゃないか。まあ、恋人のいない俺が言ったって説得力ないかもしれないけど」
「いや……今の言葉、結構ありがたかった。サンキューな、司。今日ちゃんと言ってよかったよ。高木は忙しいみたいで会うのは難しいみたいだから、今度電話で伝えるわ。それまでは一応黙っててくれよ」
「了解」

 そのあとの瀧たちとの会話の内容を、司はよく覚えていない。降りかかってきた言葉に適当に返事を返して、楽しくもないのに笑って、そうしているうちにいつの間にか自分のアパートの最寄り駅まで帰って来ていた。
 ロータリーを抜けた瞬間に、司は走り出していた。夜の街を全力で疾走する。じっとしていると、足元からどす黒い影のようなものが生えてきて、その中に飲み込まれてしまいそうだった。
 アパートに着いて、鞄を部屋に放り投げて、ベッドの上に倒れ込む。自分しかいない部屋の中。いつも以上に空虚に感じるのは、たった今突き付けられた恋の終わりのせいだろうか。
 泣いて堪るか。泣いたって起こった現実は変わらない。瀧が自分のものになるなんて、そんな夢のようなストーリーは訪れない。そう思うのに、目の奥から湧き上がってきた涙を止めることはできなかった。

「瀧っ……」

 もう手の届かない彼の名前を呼ぶ声は、悲しみに震えていた。目は焼けるように熱いのに、そこから溢れて腕を伝い落ちる涙は雪のように冷たい。まるで現実そのもののようだと心の中で自虐しながら、身体中を覆う悲しみに身を任せていた。
 この恋にドラマなんてものはなかった。ただひっそりと始まって、そしてひっそりと終わりを迎える。誰にも負けないほどに好きだと思った気持ちも、彼を好きだった時間も、すべてが無駄だったのではないかと思うほど、あっけなく幕を閉じた。
 どうやったらこの失恋を乗り越えられるのだろう? どうすればこの悲しみを自分の中から打ち消すことができるだろうか? いっそもう瀧と会わなければ、徐々に気持ちが小さくなっていって、最後には何も感じなくなるのかもしれない。
 だけど司は知っている。自分はその選択肢を選ばない。自分はそんなに強くない。顔を見られなければ寂しいと思うし、きっと今どうしているだろうかと気になってしまう。
 いっそ他の誰かに成り代わりたい。自分ではない誰か――瀧のことを好きではない別の誰かと入れ替わって、これまでとこれからの自分の人生に、そいつの人生を上書きしたい。そんなできもしないことを時々想像しながら、司は朝になるまで泣き続けた。









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