V.

 目を覚ましたとき、瞼がじっとりと濡れていた。瀧の夢を見て泣くなんて久しぶりだ。未だに片想いを振り切れていない自分に自分で苦笑をしながら、司は眼鏡を探そうと枕元をまさぐる。
 その手に触れたのは、そこにあるはずのないジョリジョリした感触。いったいなんだろうかとそちらに顔を向けた瞬間、司は驚きのあまり思わず叫びそうになった。なぜなら自分しかいないはずのベッドの上――身体を起こした司の隣に、坊主頭の男が横たわっていたからだ。
 慌てて周囲を見渡すが、裸眼だとその坊主頭以外は何も見えない。手探りで男とは反対のほうにあった眼鏡を見つけ、ようやく視界がクリアになって周囲の状況が把握できるようになる。
 そこはホテルの一室のようだった。シンプルな構造からしてビジネスホテルのようだが、ベッド幅は広く、男が二人で寝てもなおスペースに余裕がある。というかこの男は誰だったか……記憶を探るよりも顔を確認するほうが早い気がして、司は寝息を立てている坊主頭の顔をそっと覗き込む。
 男臭いがどこか冴えない感じの拭えない顔は、見覚えのあるものだった。同じ失恋の傷を抱え、ともに慰め合った男。確か名前は勅使河原だ。そばにいたのが顔見知りで安心したのも束の間のこと、司は自分が衣類を何も身に着けていないことに気づいて仰天する。上から下まで素っ裸だ。しかも隣の勅使河原も司と同じ状態で、布団を捲ると彼の逞しい肉体が露になった。

(まさか……いや、そんなわけないよな?)

 勅使河原はゲイではない……はずだ。三葉のことを好きと言っていたし、司がゲイであることを打ち明けても、そのこと自体にはあまり興味がないように見えた。きっと暑くて脱いだだけだ。酔って訳が分からなくなって下着まで脱いでしまっただけで、二人の間に何かいやらしいことがあったわけではない……のだろう。それにしたってこの状態のまま勅使川原が目を覚ましてしまうと、何かあらぬ誤解をされそうだから早く服を着よう。そう思ってベッドから出ようと身体を動かした瞬間に、ひどい頭痛に襲われた。
 いや、痛いのは頭だけじゃない。腰に――いや、もっと正確に示すなら、後ろの秘部とも言うべき場所に鈍い痛みを感じていた。この感覚は知っている。最近はすっかりご無沙汰だったが、男同士のセックスで入れられる側になった次の日に必ず出る症状だ。

(マジか……)

 勅使河原とセックスをした。事実を身体に突き付けられる。別にそれ自体は嫌じゃないけれど、どうやってその流れになったのか、どんな感じでしたのか、まったく記憶にないのが恐い。自分が強引に押し倒したりしなかっただろうか? 酔って動けない勅使河原に好き勝手したりしなかっただろうか?
 酒に消された記憶を探り出そうとしているうちに、隣の勅使河原がのそりと動き出した。裸の上半身が布団から出てくる。眠そうな顔は長い欠伸をすると、司のほうに目を向けてくる。

「おはようさん」
「お、おはようございます」
「目、めっちゃ赤くなっとる。昨日散々泣いたしな。まあ俺もやけど」

 確かに勅使河原の目元も腫れて少し赤くなっている。昨日あんなに明るい調子で話してくれた彼の、泣いている顔なんて想像できなかった。

「あの、勅使河原さん……なんかすいません」
「何がや?」
「ここ、勅使河原さんが泊まってるホテルですよね? 押しかけるような感じになって、しかも図々しくベッドで寝ちゃってすいません……」
「ああ、そんなん気にせんでもええよ。そもそもここに誘ったの俺やしな。ベッドも二人で一緒に使おうやってなったやろ?」
「実はここに来てからのこと全然覚えてなくて……。でもあれですよね。俺、絶対勅使河原さんに変なことした」
「おお、したした。意外と積極的でびっくりしたわ」

 やっぱり司のほうから誘ったのだ。酒に飲まれて何やってるんだと心の中で自分を叱咤しながら、もう一度頭を下げた。

「酔った勢いとは言え、本当にすいません」
「なんで謝るんやさ? 確かに誘ってきたんは司のほうやったけど、最終的には俺もしていいって言ってそういうことになったんやぞ?」
「で、でも勅使河原さんはゲイじゃないはずじゃ……」
「そのはずやったんやけどな……」

 勅使河原は曖昧に苦笑する。ふいに伸びてきた右手は、司の頭を優しく撫でた。

「泣いてる司見て、こいつのこと守りたいって本気で思った。初めて男に対してそんなふうに思った。それが三葉に持っとった気持ちと同じかどうかはまだよくわからんけど、少なくとも司とエッチするのは嫌じゃなかったし、昨日のお前は可愛かった」

 可愛かったと言われて、自分でもわかるくらい顔が赤くなった。言われ慣れていないせいだろうか。それとも勅使河原がお世辞じゃなくて本気で言ってるのがわかったからだろうか。そんな司の反応を見て、勅使河原は声を出して笑った。

「ほら、可愛い。もっとクールなやつやと思っとったに、素直やし泣き虫やし、最初のイメージとは全然違うわ。でもそっちんが俺は好きやぞ」
「か、からかわないでくださいよっ」
「からかっとらん。本当にそう思ったんやさ」

 頭を撫でる手が背中に下りてきたと思ったら、今度はギュッと抱きしめられていた。直に触れ合った勅使河原の肌は、どこか安心するような温もりを持っていて、司は少し躊躇しながらもその背中に腕を回した。

「今日は暇なんか?」
「あ、いえ……実は昼から仕事なんです。朝だけ休みをもらっていて」
「そっか。なら帰らんといかんな。まだ間に合うか?」

 訊かれてサイドテーブルの時計を見ると、あまりゆっくりしている余裕はなさそうな時間だった。

「すぐ帰ります。本当はもうちょっとゆっくりしたいところなんですけど……」
「昨日も言ったかもしれんけど、俺週末までここに泊まっとるから、気が向いたらいつでも来てええよ。あ、でも基本夜だけな。昼間は観光して来るわ。冴えんやつかもしれんけど、気を紛らわすための相手にはなるやろ? つーか俺が寂しいから来てくれ」

 勅使河原は頼りなく眉を垂れ下げる。

「一人になったらたぶんまだ三葉のこと考えてしまう。どうして俺のものにならんかったんやっていろいろ後悔したり、寂しくなったりするんやと思う。そういうの、嫌なんよ。苦しいし、辛いし、惨めになる。けど昨日司と一緒におったら、少しだけ三葉のこと忘れられた」

 それは司も同じだった。昨日あのまま一人でいたら、いろんな負の感情に押し潰されていたと思う。それに、正直傷の舐め合いは心地よかった。自分の痛みをわかってくれる人のそばにいると、心が少しだけ楽になれた。

「じゃあ、今夜また来ます。酒は要りますか?」
「ちょっとだけあったら嬉しいな。俺もなんか適当に買っとくから」



 二日酔いは、それ用のドリンクを飲んだおかげか仕事をしているうちにずいぶんと楽になっていた。後ろの痛みも夜になる頃にはなくなっていて、体調の回復に司はホッと息をつく。
 仕事をしながら、早く勅使河原に会いたいと思っていた。勅使河原と話すのは楽しかったし、そばにいるとなんだか落ち着けた。それは同じタイミングで同じように失恋した仲間意識によるところもあるけれど、何より彼の前では瀧を好きでいる自分を隠さずにいられるから楽だった。
 しかし仕事が終わる頃になると、逆にもう勅使河原に会わないほうがいいんじゃないかと思い直すようになっていた。
 あの人は優しくて温かい。その胸に縋れば安心できるとわかっているけれど、それが自分にとってよくないんじゃないかと思ったのだ。だってあの人は、週末には東京からいなくなってしまう。そうなったとき、心の拠り所をなくした自分が平気でいられる気がしない。その日までに失恋から立ち直れるとはとてもじゃないけど思えないし、なら今のうちから一人で歩いていく練習をしておくべきじゃないだろうか。
 勅使河原は司が来なければきっと寂しがるだろう。しゅんとした彼の姿を思い浮かべると心が痛くなる。行きたい。でも駄目だ。
 迷い迷いしながら仕事を終えて、家に帰ろうとしていたはずの足はなぜか勅使河原の泊まっているホテルに向かっていた。馬鹿だな、と心の中で自分に呟く。けれどそのときにはもうすでに彼の部屋の前まで来ていた。
 ノックをすると、少しの間を置いて鍵の開錠される音がした。ついで開いたドアから勅使河原が顔を覗かせ、目が合うと嬉しそうに笑った。

「こんばんは」
「おう、こんばんは。ちょうど飯食いに出ようかと思っとったとこや。司はもう食ったか?」
「いえ、まだです」
「じゃあちょうどよかったな。一緒に行こうや」

 ホテルの近くには居酒屋が何軒か立ち並んでおり、司たちはそこで食事を済ませた。酒も軽く飲んで、ほろ酔い状態になって再び部屋に戻る。
 司はとりあえずシャワーを借りた。身体を隅々まで綺麗にしてから、歯も磨く。裸で出るのはなんだか躊躇われて、持ってきた清潔な下着の上に備え付けの浴衣を羽織って浴室を出た。
 入れ替わりに勅使河原が浴室に入っていく。司はどこに座っていようか迷った結果、ベッドの上に落ち着いた。なんだか誘っているふうに思われそうな気がしないでもないが、それでよかった。昨日の情事のことはほとんど覚えていない。だから勅使河原がどんなふうに司を抱いたのか、どんなセックスをするのか、改めて知りたいと思っていた。
 勅使河原が浴室から出てくる。司と同じ浴衣姿だ。昨日のスーツ姿と違ってなかなか似合っていた。

「はあ……」

 息をつきながら、勅使河原は司の隣に腰かける。距離がずいぶんと近い。その距離感に、きっと彼もその気なんだと感じて人知れず胸が高鳴った。

「浴衣、似合ってますね」
「そうか? 司も似合っとるよ。なんか妙に色っぽいわ。男の浴衣姿に変な気起こすのなんか、司が初めてや」

 男らしく硬い腕が司の肩を引き寄せる。司も遠慮なく勅使河原の身体に縋った。

「今日も抱いてええんか?」
「はい。そういうつもりで来ましたから。でも大丈夫ですか? 今日は昨日みたいにあんまり酒入ってないから、勢いつかないんじゃないですか?」
「酒の力なんか借りんでも、司相手なら勃つぞ。ちゅーかもうすでに半勃ちやしな。司のほうこそ、相手が俺でええんか? 俺って別にええ男でもなんでもないと思うんやけど」
「俺は勅使河原さんの顔結構好きですよ。男らしいし、優しそうだし、誠実そうな感じがします」

 その言葉に嘘やお世辞はなく、司の本心そのものだった。元々瀧のような童顔よりも、男臭い硬派な雰囲気の男のほうが好きだし、そう言った意味では勅使河原は結構タイプだ。
 急に静かになったなと思って横を見れば、勅使河原はそれとわかるくらい顔を赤くしていた。坊主頭だからゆでだこみたいだな、なんて少し失礼なことを思いつつ、なんだか可愛くて抱きしめたくなった。

「照れてるんですか?」
「あ、あんま年上をからかうなや」
「からかってなんかないですよ。俺の本心です」
「でも瀧くんのほうが好きなんやろ?」
「それはまあ、今のところ越えられない壁ですよ。勅使河原さんにとっての三葉さんと同じです」
「そうやよなぁ……」

 寂しそうに細められる目。どこか遠くを見つめるようなその目には、きっと三葉が映っているのだろう。少し無精髭の生えた頬に触れると、寂しげな色を残しながらその目はこちらを向いた。不意打ちのようにキスをして、そのままベッドになだれ込む。

「司ってやっぱこういうの慣れとるんか?」
「慣れてるってほどじゃないですよ。この歳だからそれなりに経験はありますけど」
「俺はぶっちゃけそんな経験ないんやさ。男に関しては司が初めてやったし、たぶん上手くはないと思う」
「そんなの気にしなくて大丈夫ですよ。期待してませんから」
「それはそれでひどいわ!」
「冗談ですって」

 この野郎、と勅使河原は司の頬を抓ってくる。その手が今度は頬を包むような優しいそれになったかと思うと、柔らかいキスが降ってくる。確かに慣れていない感じのキスだ。それでも不思議なくらい気持ちよくて、司も積極的に舌を絡めた。
 浴衣の裾から無骨な手が侵入してくる。硬い指先が乳首を探り当て、クリクリとこねくり回される。触るだけでは飽き足らなくなったのか、裾を大きく開かれ、露わになった突起に勅使河原は舌を這わせた。

「あっ……」

 思わず零れる甘い声。その声に気をよくしたように、舌の動きがしたたかに、大胆になっていく。
 やがて帯が解かれ、浴衣を取り去られ、身体中を舐め尽すような勢いで責められた。与えられる快感に身体がいちいちビクつく。それを堪えようと勅使河原の肩や腕を掴んだりしているうちに、彼の浴衣がはだけて上半身が露わになる。服の上からでも鍛えられているのだとわかったが、実際に目の当たりにしたそれは、思わず見惚れてしまうほどに綺麗に引き締まっていた。はだけた浴衣と相まって妙にエロい。
 勅使河原本人はそんな自分のエロさに気づくふうもなく、司の身体を責めることに夢中になっているようだった。最後の砦であった下着を司の足から引き抜くと、はち切れんばかりに勃起した性器に、なんの躊躇いもなさそうに口を付けた。

「勅使河原さんっ……あんま無理しなくていいですよ」
「別に無理やない。したいって思ったからしとるんや」

 フェラチオすることに抵抗がない辺り、きっと勅使河原はノンケではなくバイセクシャルなんだろう。その歳まで無自覚だったというのはある意味すごいが、初めて興味を持った男が自分であったということに、司はどこか優越感にも似た気持ちを抱いていた。
 しかしやはり男性経験がほとんどないだけあって、勅使河原のフェラチオは決して上手くはなかった。それでも懸命にしゃぶりついている様に興奮した。司も態勢を変えて勅使河原の股間に顔を埋め、そそり勃ったそれにむしゃぶりつく。
 途中で指が尻の谷間を這う感触がした。入口の辺りを突かれる。いつの間に準備していたのか、ローションをそこに垂らすのが見えて、そのすぐあとに指がするりと入ってきた。
 異物感も最初のうちだけで、優しく動かされると覚えのある快感がせり上がってくる。そのまま二本、三本と指を増やされても、痛みはほとんど感じなかった。

「入れてもええか?」

 そう聞いてきた勅使河原の顔は、早く入れさせろと訴えているかのように険しかった。いちいちエロいな、なんて思いながらも、男臭いその表情に胸がキュンとした。

「来てください」

 了承の返事をすれば、窄まりに熱いものがあてがわれる。そしてゆっくりと司の中を押し拡げながら、奥へ奥へと入ってくる。根元まで収まっても、不思議なほど痛みはなかった。たぶん昨日したばかりだからある程度拡がっていたのだろう。なんだか自分の身体がひどくいやらしいものになった気がしたが、それでいいやとすぐに受け入れる。

「あっ、あんっ、ああっ」

 指とは違う質量に、痛みはなくとも苦しさはあった。けれどそれ以上に気持ちいい。突かれるたびに頭が痺れるような快感に襲われて、はしたなく声を上げる。

「ひあっ……あっ、あっ、あっ」

 深く穿たれ、揺さぶられ、逞しい雄に犯されて司の身体は喜んだ。もっと欲しいとねだるみたいにそこが収縮し、勅使河原にいやらしく絡みつく。

「司っ……」

 堪らないと言いたげな声が、司を呼んだ。目が合った瞬間にキスをされ、強く抱きしめられた。
 勅使川原の目は、どこか遠くのほうじゃなくて――三葉のことじゃなくて、ちゃんと司を見ていた。自分は三葉の代わりにされているわけじゃない。そう感じた瞬間だった。
 もちろん司だって勅使河原を瀧の代わりだなんて思っていない。繋がった身体も、自分を呼ぶ声も、勅使河原のものだとちゃんと認識している。そしてその勅使河原を欲しいと身体が言っているのがわかる。他の誰かじゃなくて、今は勅使河原だけがいいんだ。
 心を引っ張られる。そんな感覚がした。繋がった糸を勅使河原にぐいぐいと手繰り寄せられ、しかしあるところまで来るとそれはピンと張って動かなくなる。心にもう一本の糸が付いていて、それが勅使河原とは反対のほうに伸びている。辿っていくと、そこには瀧がいた。糸は瀧の身体にグルグルと巻き付いて、簡単には解けそうになかった。



 セックスが終わっても、勅使河原は司を離さなかった。シャワーは浴びさせてくれたけど、ベッドに戻るとまた腕の中に閉じ込められて、時々頭を撫でられる。司はそれが決して嫌じゃなかった。むしろそうされるとものすごく安心して、司も勅使河原に抱き着いて離れなかった。

「失恋から立ち直るんには、新しい恋を見つけるとええらしい」

 勅使河原が前触れもなくそう言った。

「よく聞きますよね。確かにそうだなって思いますけど」
「瀧くん以外に失恋したことあるんか?」
「中高生の頃なんか失恋しまくりですよ。告白とかしたわけじゃないけど、いつもノーマルな男を好きになって、そいつにいつの間にか彼女ができてて、勝手に失恋してっていうのを結構やりました。それでまた別の男を好きになって、前に好きだったやつのことなんかすぐに忘れちゃってたな」

 溜息とともに吹き飛ばすことのできた、幼い恋の数々。当時はその恋に必死だったのかもしれないけど、もう相手がどんな顔だったかもおぼろげで、些細な思い出だったんだと今は思う。
 けれど瀧のことはきっとそう簡単に割切れない。気持ちを切り替えるのは容易ではない。彼を好きになったときの自分は、もうある程度大人になっていた。だから愛しく想う気持ちに重みがあった。それは司の心に立派な根を張って、引き抜くことができなくなっていた。

「でも今度は難しいですよ。思春期の子どもじゃないから、恋なんかほいほいするもんじゃない。他の誰かを好きになれたらきっと楽になれるのに、瀧を好きだった気持ちが大きすぎて心が動かないんです」
「俺も同じや。完全な失恋やのに、諦めて他の誰かを好きになるなんて考えられんわ。でももし三葉以外のやつを好きになるんやったら……」

 言葉が途切れたかと思えば、勅使河原の目が司のほうをじっと見つめていた。その視線に熱っぽい何かが紛れているのを感じ取って、思わずドキッとしてしまう。

「三葉以外のやつを好きになるんやったら、俺は司を好きになりたい。好きになりたいっちゅーか、実際ちょっと好きになってるんやと思う。今日部屋に来てくれたとき、すげえ嬉しくなった。一緒にいたら抱きしめたい、キスしたいって思った。それってそういうことやろ?」

 勅使河原にそういう気持ちがあることは、一緒にいてなんとなく伝わってきた。そこに迷いや戸惑いがあることも感じ取れた。一緒にいた時間はまだ短いけど、共有するもの――同じ痛みや苦しみ――があったせいか、互いに気を許し合って、感情のすべてがダダ漏れになっていたように思う。だからきっと、勅使河原だって司の気持ちを少しだけでも察していることだろう。それを言葉にすることで、失恋から一歩踏み出すための力にしようと、司は決めた。

「俺も勅使河原さんが好きですよ。でもまだ瀧を好きな気持ちのほうが大きい。俺は瀧を好きだった気持ちにちゃんとケリをつけてから、あなたと向き合いたいです」
「俺もそうしたいほうがええって思っとった。中途半端な気持ちのまま付き合い始めたら、たぶんどっかで駄目になる。そりゃ、司と付き合うことで三葉のことを少しずつ忘れていくんかもしれんけど、忘れるための手段にしたくないんやさ。真剣やからこそそう思っとる」

 きっと勅使河原なりに昨日から司のことを真面目に考えてくれていたのだろう。思い付きや勢いで言ってるんじゃないんだと、真剣な表情と声音から感じられた。

「でもどうやったら三葉への気持ちがなくなるんや……」
「問題はそこですよね……」

 新しい恋は目の前にあるのに、一歩踏み出すことができない。司はさっきの糸のことを思い出した。気持ちを繋ぎ止める厄介な糸。それはとても強固で、鋏やナイフをもってしても断ち切ることができない。
 実らないとわかっていながらずっと好きでいることは、辛くて苦しい。諦めることを容易に許してくれない瀧を、司は少しだけ恨んだ。









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