X.

「――司」

 携帯電話のアプリに熱中していると、急に影ができた。誰だろうかと顔を上げる前に名前を呼ばれて、影の正体をすぐに理解した。

「結婚式以来だな、瀧」

 未だにどこか幼さを残す瀧の顔が、優しげに微笑んだ。

「そうだな。もう一週間経ったのか。あのときは来てくれてサンキューな。あとスピーチも」
「あれは緊張したな〜。高木が結婚するようなことになったら、そのときは瀧がやれよ」
「そこはお前が結婚するときじゃねえのか?」
「俺は結婚しないから」

 もし司が結婚するようなことがあれば、それは間違いなく偽装結婚だ。偽装でも女と結婚なんて考えられないから、瀧に友人代表のスピーチをしてもらうような機会もきっと一生ないだろう。
 立ち話もなんだと思って、司は瀧を近くの居酒屋に案内した。酒よりも料理に手をかけている店で、職場の人間の勧めで最近知った。瀧と来るのは初めてだ。
 世間話をしているうちに、頼んだ酒と料理が運ばれてくる。腹が減っていたのもあってどんどん箸が進み、結構量を頼んだつもりでもあっという間になくなっていった。
 食事が終わると、ちょっと散歩しないかと瀧を誘う。平日の夜だからか、訪れた広域公園には人の姿はあまりなく、外灯の光が寂しげに遊歩道を照らしていた。そんな景色を横目で見ながら、司は緊張で自分の胸が張り詰めそうになっているのを意識する。
 勅使河原に宣言したとおり、司は瀧に長年の片想いを今日告白することに決めていた。食事に誘ったのもそれが目的だ。言うと決めたはいいけれど、やはりなかなか言い出せずに歩く距離ばかりが伸びていく。
 結婚してから三葉とはどうなのかとか、新婚旅行はいつ行くのかとか、大して興味もないのに間を繋ぐために訊いてしまう。気づけば公園内を間もなく一周しそうになっていて、司は慌てて本題に持って行くための言葉を探した。

「世の中ってさ、いろんな偶然に囲まれてるよな」

 ふいに立ち止まったかと思うと、瀧がそんなことを言い出した。

「糸守に彗星が落ちたときのこと、司も覚えてるだろ?」
「ああ」
「たまたま町総出で避難訓練してて助かったなんて、すげえよな。それは偶然って言うより奇跡だけどさ。でもその偶然のおかげで三葉は助かって、偶然上京してきて、そんな三葉に俺は偶然出逢った。ドラマかよって言いたくなるくらい偶然続きだった」

 それを聞いて司は勅使河原のことを思い出す。彼との出逢いに対して、司は瀧が今言ったようなことを思った。世の中はいろんな偶然に囲まれている。確かにそうなのかもしれない。

「初めて三葉に逢ったとき、初めて逢ったって感じがしなかった。ずっと前から知ってたみたいな感覚がして、話しかけずにはいられなかった」
「前世で逢ったことがあるとか、そういう感じ?」
「そうなのかもしれない。写真の中の糸守の景色も、いつかどこかで見たことある気がしてた。ニュースで何回も出てきたから知ってただけなのかもしんねえけど、なんか他所ごとは思えなかった」
「そういえばお前、いつか糸守のことを必死に調べてたことあったよな。実際にあそこまで行ったし」
「うん。やっぱ前世で糸守と繋がってたんかな? そうやって訳もわかんねえまま糸守に執着して、大人になって糸守出身の三葉に出逢って、恋人になって、結婚して……。今思えばなんかとんでもないことだよな」

 その話を聞いていると、やはり瀧の運命の相手は三葉だったんだと改めて思い知らされる。偶然や奇跡がいくつも重なって成就した二人の恋。司の想いが入る余地なんて最初からどこにもなかったんだ。
 言葉がストンと胸に落ちてくる。今まで受け入れようとしなかったその事実を、このときは不思議なほどすんなりと受け入れることができた。受け入れて、それに押し出されるようにしてつっかえ棒が取れ、ついに長い片想いが言葉となって喉を震わせた。

「瀧、好きだよ」

 え、と幼さの残る顔がこちらを振り返る。

「ずっと好きだった。優しくて、可愛くて、責任感強くて、何事にも一生懸命なお前が好きだった」

 ずっと言えなかったそれだけの言葉。短い言葉かもしれないけど、その中にはいろんな感情が詰まっている。
 司が本気で告白したということは、瀧にちゃんと伝わっているようだった。笑い飛ばしたりせず、だからと言って気味悪がるような様子もなく、どこか神妙な顔つきになってこちらを見ている。
 やがてそれは、ふわりと柔らかい笑顔に変わった。優しい陽射しを思わせるような、温かい笑み。ドキリと胸を高鳴らせながら、司はしばらく見惚れていた。

「司」

 名前を呼んだ声も、浮かんだ笑顔に見合った優しいものだった。

「俺のこと好きになってくれてありがとう。あとずっと気づかなくてごめん。びっくりしたけど、でも司の気持ちは正直結構嬉しいよ。けど……ごめん。俺は三葉が好きだから」
「わかってる。それでいいんだ。ただ俺がちゃんと終わりにしたかっただけなんだ。瀧が気に病む必要もないし、今までどおりにしてくれればそれでいい」

 わかった、と瀧は頷いた。
 ずっと言うのが恐かった。言えば二人の関係が崩れ、今までの思い出も全部否定される気がしてできなかった。でも最後には瀧を信じることにした。信じて言って、彼の優しさに救われて、その想いは行き場をなくさずに済んだ。
 頭の中に、瀧との思い出の数々が蘇る。初めて瀧をそう言った意味で意識した日のこと。友達同士で買い物だなんて言って、実はデート気分だったあの日のこと。彼女ができたと告げられた日のこと。そして、三葉と結婚すると言われ、家に帰って一人涙を流した日のこと。
 思えばたくさん辛い思いをした。傷つき、瀧を恨んだことだってあった。それでもこの恋に出逢えてよかったと今は思える。だって瀧を好きになったことで、なんでもない平凡な日常が――そして、目に映る世界のすべてが輝いて見えた。辛かった思い出よりも、楽しかった思い出のほうがたくさんあった。
 胸の奥底から熱いものが込み上げてきたかと思うと、それは涙となって零れ出た。いったん零れ始めると歯止めが利かなくなって、まるで泉が湧くように次々と溢れ出す。眼鏡を外して手で目元を拭うが、拭っても拭っても止まらず、あっという間にその手もびしょびしょに濡れてしまった。

「司……」

 心配そうに近づいてくる瀧から泣き顔を隠すように、司は顔を伏せた。

「大丈夫、だから……そのうち収まる、と思うから、今はごめん……」

 告白したからと言って、瀧への想いがすぐに消えてなくなるわけじゃない。きっとしばらくは司の中に留まって、けれどそれも少しずつ薄れて最後にはなくなるのだろう。なんとなく、それが寂しいことのような気がした。それは今までの司の生きる意味の半分以上が、瀧への想いに集約されていたからかもしれない。
 ふと、坊主頭の男臭い顔立ちが頭に浮かんでくる。勅使河原も今頃三葉に告白しているだろうか? ちゃんと伝えられていたらそれでいい。自分もちゃんと瀧に言えたから、あとで報告し合って、慰め合って、今度こそ足並みをそろえて前へ進もう。

「司」

 名前を呼ばれて、司は反射的に顔を上げた。その瞬間に唇に柔らかいものが触れた。一瞬のキス。子どものような触れるだけのキスだったのに、重なった部分がぶわっと熱くなったような気がした。

「いいやつ見つけろよ。そんでそいつをちゃんと俺に紹介しろ。それで……それで、いつかちゃんと幸せになれ。俺以上に幸せになってくれ」

 ありがとう、の気持ちは言葉にならなかった。嬉しさと切なさで余計に涙が溢れて、嗚咽ばかりが零れた。
 この片想いはここで本当に幕を閉じる。実ることはなかったけれど、それでも後悔や悲しみの尾を引くことはもうないだろう。瀧を好きになってよかった。その気持ちで胸がいっぱいだった。そしてそれが長い片想いの、綺麗な、とても綺麗な結末だった。









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