04.  好きな人に出会えてよかったなんて言われて嬉しくないやつなんていない


 進路相談室に入って数分、遠慮がちなノックの音が耳を叩いた。おそらくキョンだろう。木製の戸を開けると、予想どおりの平凡な顔が軽く会釈してきた。

「さあ、入れ入れ」

 この部屋でキョンと二人きりというシチュエーションは決して初めてじゃない。だからって逢引だとか校内プレイを楽しんでいたわけじゃないぞ? もしそうだったらいままでの三話はいったいなんだったのかと訊ねて回らなければならん。あくまで進路相談で二人きりになったんだ。
 俺は皮のシートに包まれたソファに腰を下ろし、キョンはそのテーブルを挟んだ向かい側の一人がけソファに座る。

「さっきの南高の不良だけど」

 何の前触れもなく本題に入ったのは、真相を早く知りたいだろうというキョンの内心を察してのことだ。あるいは自分が事情聴取されるんじゃないかと不安に思っていることだろう。

「あれは俺の従兄弟なんだ」

 そうしてそんな嘘を俺は平然と吐いた。

「最近、お前勉強頑張ってるだろ? そのことをあいつに“お前も見習え”って話していたら、うっかりお前のあだ名の話もしちまって、ぜひとも顔を拝みたいとか言い出したんだ。冗談だと思ってたけど、まさか本当に学校まで来るとは……」

 演技は決して得意なほうではないが、教師生命のためにもここは頑張らなければならんところだ。
 一方のキョンは特に疑う様子もなく、ホッとしたように表情を緩める。

「迷惑かけて悪かったな」
「いえ、先生が謝ることじゃないっすよ」
「あと、涼宮にはきっちり説明しといてくれ。あいつあのままじゃ俺の従兄弟のこと調べに南高まで行きそうだから」

 了解です、とキョンは苦笑気味に頷いた。

「にしてもお前、ホントに最近頑張ってるな。やっぱり受験が近づいてきてるからか?」
「それもまあ、理由の一つなんですが……。俺の成績の悪さを見かねたハル……涼宮が特訓しようと言い出して、まあどうもその成果が実ったみたいです」
「なるほどな〜」

 涼宮は性格に難はあるが、成績は優秀だ。要領もよさそうだし、あいつが面倒を見るというなら、変に専門知識をひけらかしたがるそこらの教師よりもよっぽど成長するかもしれない。

「そこまでされたら、やっぱりお前も涼宮のこと好きになっちまうんじゃないか?」

 そんな悪戯めいた質問を投げかけると、キョンはいつの日か似たような質問をされたときの、苦虫でも噛み潰したような顔をした。

「俺の中で涼宮は友達というポジションです。たぶんそれはこれからも変わらないと思います」
「そこまで言い切るか」
「ええ。魅力的な女だとは思います。顔もいいし、性格には多少難があるけど、部活じゃ団員思いのいいリーダーです。それに一緒にいて楽しい。でも恋愛感情とはなんか違うって言うか……。俺はあいつとは友達でいたいです」
「そっか」

 女友達のいない俺には男女間の友情なんてよくわからないが、キョンの恋愛のベクトルが涼宮に向いていないという事実は少しだけ俺に安堵をもたらした。まあ、だからって俺の恋心が報われるわけじゃないけどな。

「あいつの面倒見るのは大変だろうが、これからも頼むな」
「うっす」



 少女漫画なら、最初は反発し合っていた二人が次第に打ち解け合い、どちらかが自らの恋心を吐露する頃合いじゃないだろうか? 残念ながら俺の恋にそんな青春ストーリーは用意されているわけがなく、せいぜいキョンとヤっているのを妄想しながら一人えっちに励むのが関の山である。
 割れた腹筋を伝う精液をティッシュで拭ったとき、ふとコンドームがそろそろ尽きそうだったことを思い出し、俺はドラッグストアに向かうべく夜道へと繰り出した。
 外灯の頼りない明かりが照らし出すコンクリートの道は、不気味なほどに静まり返っている。変なおじさんに襲われないか心配だな、などと馬鹿げたことを考えながら疲れた足取りで歩いていく。
 あと数百メートル先に目的地を捉えたとき、いましも俺とすれ違おうとしていた誰かが足を止めた。

「岡部先生」

 呼ばわる声は、今日の放課後に進路相談室で会話を交わした人物のそれだった。

「キョン!?」
「こんばんは」

 外灯の元にゆっくりとした動きで躍り出たキョンは、苦笑気味に会釈する。

「なんでお前がこんなところにいるんだ?」
「……散歩です」

 お前の家はたしかここから十キロくらい離れているはずだ。散歩って言うには少しばかり――いや、だいぶ無理があるだろう。

「何かあったのか?」

 返事はない。代わりに先程と同じ苦笑を返してきたが、その顔はどこかやつれたようにさえ見えた。

「あのなー、高校生がこんな時間にこんなとこうろついてたら、下手すりゃ補導されるぞ?」
「わかってます。ただ、この辺歩いてたら先生に拾ってもらえるかなと思って……」
「頼ってくれるのは嬉しいが、俺に拾ってもらわにゃならんほどの事態ってなんだ?」
「実は両親と進路のことで喧嘩しました」

 へえ、冷静なお前でも人と喧嘩することなんてあるんだな。想像もできない。
 さて、この迷子の子猫ちゃんばりに救いを求めるような目を向けている少年だが、もちろんこんなところに放置しておくわけにはいかないだろう。いや、むしろこんなに可愛い子猫ちゃんならいさんで拾いたいね。

「とりあえず俺んち来るか?」

 そう提言してやると、沈んでいた顔がホッとしたように表情を緩めた。

「話は家に着いてからな。とりあえずそこで夜食買ってくぞ」



 ドラッグストアにはコンドームを買いに来たはずだったが、キョンの前でそれを手に取るわけにはいかないので、結局夜食だけをかごに入れることになった。
 ついでにキョンの分も買ってやろうかと言ってみたのだが、本人が自分で買うと言って聞かなかったのでそれはなしとなる。

「結構いいところに住んでるんですね」

 俺の部屋に入るなり、キョンはさも驚いたような声を上げた。

「この歳で独身だからな。大した趣味もないし、金が余ってるんだよ」

 それになんと言っても教師は給料がいいからな。

「失礼ながら、もっと質素なところに住んでいるイメージがあったのでびっくりです」
「よく言われる」

 リビングに突っ立っているキョンをソファに座るよう促すと、俺はキッチンでコーヒーの準備に取りかかる。キョンは俺と同じく砂糖とミルク派だそうだ。

「ほらよ」
「ありがとうございます」

 ダイニングの椅子とキョンの隣、どちらに座るか少し迷った結果、キョンの隣に腰を下ろす。

「んで、いったい親御さんと何を揉めたんだ?」

 肌が触れ合うような距離に内心でドキドキしながら、表はあくまで教師――というか、大人の威厳を保った。

「進路のことです」

 進路ねえ。まあ、親と揉めるにはまだ少しばかり早い気がするが、高二にもなれば誰しも先のことを考え始めるものだ。

「実は俺、就職しようと思うんです」
「ほお、そりゃまたなんで?」

 仮にもうちは一応進学校を名乗っている。そんな環境で就職を思いつくなんて、いったいどういう風の吹き回しだ?

「目的もなく大学に行くのは無意味というか、無駄だと思うんです。残念ながら俺にはなりたい夢もないですし、それならいっそ就職したほうが有意義かと。金にもなりますし」
「なるほどな。で、ご両親はなんて?」
「考え直せと一蹴されました」

 キョンには悪いが、正直俺が両親の立場なら似たような台詞を吐いていたと思う。別に子どもと喧嘩したいわけじゃない。親は子どものことが心配なんだ。高卒で就職したってろくなポストに就けないし、そもそもうちの高校からじゃろくな就職口も少ないだろう。ともすればそんな茨の道よりも、絶対とは言えないが安全な大学進学を勧めるのが親というものである。って子どものいない俺が言うのもおこがましい話だが。

「なんとなくわかります」

 そんな意見をそのまま口にすると、キョンはそう返してくる。

「あのときは頭ごなしに否定されたんで、衝動的に家を出てきてしまいました」

 思春期の少年にはありがちな行動だな。俺も高校生のときはしょっちゅう親父と喧嘩しちゃあ友達の家に飛び込んでいた覚えがある。

「まあ、ゆっくり考えろよ。受験まではまだ一年以上もあるんだから。ただ、大学に入ってからやりたいことを見つけるって手もあるぞ」

 むしろ夢を持って大学に入る人間よりも、そういう輩のほうが多いのではないだろうか?

「そんなもんですかね?」
「そんなもんだよ。あと、大学ってのは楽しいとこだぞ。もう少し青春を味わいたかったら素直に進学しとけ」

 大学生ってのは立場や責任という言葉からはまだ少し遠い。更に高校よりも自由度が高いから遊ぶ環境としては最高だな。俺も大学時代は若いのを売りにいろんな男と遊んだもんだ。

「まあでも、お前の人生だからお前が思うように進めよ。俺の意見はあくまで参考の一つとして捉えてくれ」
「うっす」

 いまめちゃくちゃいいこと言ったな、と自画自賛しつつ、臭い台詞を吐いた照れ隠しにコーヒーをすする。

「先生はどうして教師になろうと思ったんですか?」
「理由はいろいろあるけど、一番はハンドの顧問やってみたかったからかな」

 俺は中学から高校にかけてハンド部に所属し、大学でも同好会ではあるが、辞めるのはおしいと思い、続けていた。しかし大学二年に上がる頃、練習中に肩を壊し、しかもそれは未来永劫付き合っていかなければならない状態となってしまう。
 悔しかったし、悲しかったさ。ハンドが半ば生きがいみたいになっていたから。だからプレイヤーとして駄目ならせめて教える側になろう。身体の自由が効かないところもあるけど、自分にできる範囲で持ってる技術を教えたい。そう思って顧問になるべく教師を目指したのだった。
 あとはまあ、若い子(特に男)と触れ合いたかったし、体育教師ってのは自分の一番得意な科目を選択しただけだ。-・

「いまとなっては天職だとしみじみ実感してるよ。お前みたいな可愛い生徒にも出会えたしな」
「親と喧嘩して家に押しかけるようなやつでも可愛いですか?」
「こんなに頼られて嬉しくない教師なんていねーよ」

 でも実際はキョンだからこんなに嬉しいんだろうな。

「俺も先生みたいな人に出会えてよかったです」
「……嬉しいこと言ってくれるじゃねーか」

 俺は思わずキョンの華奢な身体を抱きしめた。下心がまったくなかったと言うと嘘になるが、ほとんど衝動的にとった行動だった。
 好きな人に出会えてよかったなんて言われて嬉しくないやつなんていないだろう。その半面で報われない自分の恋心が冷たい光を放っていたが、それよりも喜びのほうが胸いっぱいに満ちている。そしておずおずと背中に回っていたキョンに腕が、更に嬉しかった。



続く……




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