08.  俺はもう一度キョンと一緒に風呂に入ったり、一緒のベッドで寝たりしたかった


「見て見て、これすごくない?」

 俺の部屋に上がるなり磯崎辰雄が突きつけてきたのは、一枚の紙切れだ。てっきりラブレターの自慢でもするつもりなのかと思ったが、よく見るとそれは教師をやっている人間なら目にする機会の多いものだった。
 教科名と数字の並んだ紙切れと言えば、成績表である。本日をもって一学期が終了した生徒たちの多くは、その紙切れ一枚に一喜一憂していることだろう。南高の生徒である辰雄も例外ではなく、こいつの場合はどうやら“喜”のほうだったらしい。

「お前、結構成績いいんだな」

 各教科の得点も、右端に記された席次も、本人の見た目の不真面目さとは正反対の優秀な数値を示していた。

「カンニングとかしてねーだろうな?」
「失礼だな〜。オレだって頑張ればそれくらいできるんだよ! 見た目がこんなので成績まで悪かったら、それこそホントに駄目男だよ」

 見た目とのギャップには少し驚きだが、素行が悪くても勉強ができるやつなら俺のクラスにも一人いるので決して変なことではない。

「ねえねえ、オレ何かご褒美が欲しいな〜」

 女子高に放り込めばそこの女子生徒の半分以上が一目惚れしてしまいそうなほどの端正な顔立ちが、悪戯な笑みをこしらえて俺に迫ってくる。

「そんな約束をした覚えはないぞ」
「でもオレ、浩二さんに褒められるために頑張ったんだよ? 何かあってもよくない?」
「図々しいやつめ」

 勝手な台詞にデコピンを返すと、辰雄はさも痛そうに呻いた。

「ちなみに何が欲しいんだ?」
「今日こそ生で入れて、中出ししてほしいな〜」

 筋肉をまとったたくましい腕が俺の首を捕える。短いジーパンからむき出しになった膝がぐりぐりと押しつけているのは俺の股間だ。

「ねえ、浩二さんの精液をちょうだい? オレの中にいっぱい出してよ」

 生で入れるつもりも中出ししてやるつもりもまったくないが、下腹部でいやらしく蠢く辰雄の膝の刺激とエロい台詞に、俺のあそこは不覚にも勃起していた。
 辰雄はキスをせがむように唇を突き出し、凛々しい瞳を閉じる。

 ――ピンポーン

 インターホンの音が耳に刺さったのは、いましも互いの唇が触れ合おうかとしていたときだった。

「誰だよ、こんなときに」

 口を尖らせる辰雄をよそに、俺はいそいそとモニターに歩み寄る。

「って、キョン!?」

 画面の中に佇んでいたのは、意外なことに昼間学校で成績表を手渡した生徒の一人だった。普通を絵に描いたような平凡な顔つきは、暑いせいかわずかに眉を寄せている。

「ちょっと待っててくれ」
『うっす』

 手にしたバッグの大きさからして、おそらく泊まるつもりで来たのだろう。実に嬉しい話ではあるが、いかんせんタイミングが悪い。だがしかし、辰雄とキョンのどちらをとるかと訊かれると、迷う余地など微塵もなかった。

「辰雄、悪いんだが大事な客が来たから今日は帰ってくれ」
「え〜」

 辰雄が不満そうな声を上げる。

「せっかく浩二さんと久々にエッチできると思ったのに! 誰だよ、その大事な客って?」
「……お袋だ。たまたまこの辺まで来たから、ついでに寄ってくれたらしい。本当にすまん」

 キョンの名前を出せばこいつはおもしろがって絶対に帰るとは言わないだろう。ブツブツと文句を垂れてはいるものの、懸命に絞り出した嘘を疑う様子はなく、しばらくすると渋々といった感じに立ち上がった。

「ちゃんと埋め合わせはしてくれよな」
「わかった、わかった」

 キョンと辰雄を天秤にかければ、きっとこいつが吹っ飛んでしまいくらい俺にとってはキョンのほうが大事だ。踵を返したたくましい背中に心の中でもう一度謝罪し、その姿が見えなくなると再びモニターの通話ボタンを押した。

「悪いが階段のほうから上がって来てくれ」
『わかりました』

 キョンに階段を勧めたのは、おそらくエレベーターで帰るであろう辰雄との鉢合わせを避けるためだ。とりあえずこれで面倒な事態に陥ることはないだろう。――と思っていた俺が甘かったらしい。
 インターホンが鳴ったので玄関のドアを開けてみると、そこには二つの影があった。一人は予想どおりのキョンと、もう一人はさっきここを出ていったはずの辰雄である。

「なんとなく階段下りてみたら彼がいてさー。キョンくんが来るんだったらそう言ってくれればいいのに」

 そう言った辰雄の顔には、新しい悪戯でも見つけた子どものような、無邪気の中にわずかな悪意の滲む笑みが貼りついていた。

「さあキョンくん、入って入って」
「何自分ちみたいに言ってんだよ。つーか、お前は帰れ」
「嫌だよ。オレだってキョンくんとお話したいんだから」

 辰雄に背中を押されたキョンは、苦笑を浮かべつつ靴を脱ぐ。

「二人はソファに座ってて。オレがコーヒー用意するから」

 すっかりテンションの上がった辰雄はキッチンに入る。

「キョンくんは砂糖とミルクいるかな?」
「はい。すいません」

 甲斐甲斐しく世話を焼く不良高校生を尻目に、俺はキョンとソファに腰かける。
 なんだか不思議な感覚だ。隣に座った男は俺の想い人で、カウンターを挟んだ向こう側にいるのは現在関係継続中のセックスフレンド。まるで二股をかけているような気分だな。

「そう言えばキョン、成績ずいぶんとよくなってたな」
「自分でもびっくりです。やっぱりここに泊まり込んだのがよかったみたいですね。自分ちだと、ついゲームとかしてしまうんで」

 少しでもお前の役に立てたなら俺は嬉しいさ。

「なんだったらテスト毎に来てもいいんだぜ?」
「ホントですか? それはとても助かります」
「はいはーい! それならオレもテスト毎に泊まりたいでーす!」

 キッチンから辰雄が元気よく手を振っている。

「お前は駄目だ」
「えー!? なんで!?」
「お前は自分ちでちゃんと勉強できてるだろ? 成績もよかったんだし」
「キョンくんだけずるいー!」

 むしろお前は俺といると勉強どころじゃなくなるだろう。精力旺盛なその身体は机につく時間よりもベッドの上で喘ぐ時間のほうが長くなるに違いない。
 それに俺はもう一度キョンと一緒に風呂に入ったり、一緒のベッドで寝たりしたかった。決して身体を重ねることができなくても、同じ空間で同じ時を過ごすだけで俺の心は満たされる。

「はいどうぞ」
「ありがとうございます」

 コーヒーを淹れて来た辰雄にキョンは律義に礼を言うと、カップに口をつける。俺も同様にミルクと砂糖入りのコーヒーを啜りながら、どうすれば辰雄が早急に帰ってくれるかと、少し汚いことを考えていた。

「担任の先生のうちに来る生徒って珍しいね。オレだったら絶対行かないな〜。浩二さんってそんなにいい先生なの?」
「はい。よく相談に乗ってくれますし、生徒のことよく見てるなーと思います」
「そうなんだ。あ、そう言えばこないだは突然学校に押しかけてごめんな。浩二さんの話聞いてたらすごく君のこと気に入っちゃったんだ」

 その謝罪はむしろ俺にしてほしいな。あのときは俺の教師生命が終わったかと本気で焦ったぜ。

「一緒にいた気の強そうな女の子は彼女だったのかな?」
「いえ、あれは友達です。あなたのことを不良の殴り込みと思ったらしくて、興味本位で出てきたんです」
「そっか。なんだかすごく親密そうだったから、彼女かと思ったよ」
「あいつ、キョンとクラスも部活も同じで、すげえ世話焼きなんだよ」

 それからしばらく、キョンと辰雄の間で繰り広げられる会話に時々俺が口を挟むという状態が続いた。俺と初めて出会ったときと同様に、辰雄はバンバン質問をぶつけている。キョンもこいつのことは決して苦手じゃないのか、楽しそうに笑いながら受け答えしていた。

「ちょっとトイレ行ってくるわ」

 そうして一時間くらい経った頃、尿意をもよおした俺は行き先を告げて立ち上がる。その瞬間、急に頭がぼうっとして、身体を支えていた足から力が抜けてしまった。咄嗟にソファに手をついて倒れるのを防いだが、眩暈にも似た感覚は消えそうにない。

「大丈夫?」

 心配そうに顔を覗き込んできた辰雄に頷き返す。再びソファに座り直した俺の身体を侵食しつつあるのは、急激な眠気だ。仕事に追い込まれた日にはたまにこういうことがある。

「なんかいまにも目を瞑りそうだよ? ベッドで休んだら?」

 客がいるのに部屋の主が寝てしまうなんて失礼な話だが、このときの眠気はそんな常識も無視せざるを得ないほどのものだった。辰雄のたくましい腕に支えられながら、なんとか寝室まで移動する。

「オレはキョンくんともう少し話したら帰るよ。そんときにまた起こすから、ちゃんと戸締りして寝るんだよ?」
「ああ。……俺が寝てる間にキョンに変なことするんじゃねーぞ」
「大丈夫だよ。 キ ョ ン く ん に は 何もしないから」

 その台詞の真意を確かめる前に、視界がブラックアウトしてしまう。
 そして俺はすぐに、夢も見ないほどの深い眠りに就くのだった。




続く……




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