10. それはマジか? 「いってぇ……」 いきなりのことで殴られた辰雄は一瞬我が身に何が起きたのかわからなかったのだろう。驚いたように目を瞠っている。そんな様子にキョンは同情など欠片も見せることなく、拘束を解かれた身体で辰雄に掴みかかった。 「先生になんてことしやがるッ!」 怒りに歪んだ顔も、そして荒くなった声音も、普段の平和そのもののようなキョンとはまるで別人のようだ。細い腕は組み敷かれて必死に抵抗する辰雄に絡め取られながらも、第二撃をぶち込もうと足掻いている。 「絶対に赦さない! お前だけは、絶対に!」 こんな緊迫した状況にもかかわらず、馬鹿な俺はキョンが俺のために怒り狂ってくれていることを嬉しいなどと思っていた。なんっつーか、人としてはさておき教師としては駄目な思考だな。 「おいキョン! やめろ!」 これ以上二人を放置しておくのはどちらにもよくない。静止の声を上げると、キョンははっと我に返ったように動きをぴたりと止め、俺のほうにゆっくりと顔を向ける。その顔にさっきまでの憤怒は欠片も見られない。 「とりあえず、これ解いてくれ」 俺の動きを封じていた紐が足から順に解かれていく。やってくれたのはキョンばかりで、縛った辰雄はその場を動かなかった。 「お前、自分がどれだけ最低なことしたかわかってんのか?」 ベッドに座り、少し丸くなった背中に声をかけるが、反応はない。 「いくらなんでもこれはひどすぎだ」 ちょっとした悪戯っていうレベルじゃない。もはやこれは強姦罪であり、しかも生徒の前でケツの穴犯されるなんて、最低の最悪だ。いっそ俺も辰雄を殴ってしまいたい衝動に駆られながらも、キョンの目を気にして必死に堪える。 「なんとか言えよ、辰雄」 相変わらず沈黙を守っていた辰雄の肩を掴み、無理矢理こちらを向かせる。 切れ長の瞳から涙が溢れていた。それは決して殴られた痛みに耐え切れなくなったわけではなく、悔しさに唇を噛み締めているようだ。 「……オレだって、好きなのに」 やがてオレのセフレだった男は、涙混じりに告白する。 「オレだってこんなに浩二さんのこと好きなのに、どうしてキョンくんなんだよ!」 「お前……」 荒げた声で俺に対する好意を打ち明けた辰雄に、俺は何も言葉が出てこなかった。 こいつの気持ちには薄々気づいていた。必要以上に俺に甘えてくるし、キョンや他の男の話をすれば嫉妬丸出しで口を尖らせる。俺がこいつに友情なんてものを抱いているのに対し、こいつはそれ以上の感情を乗せて俺を見つめていたんだ。 それに気づいていながら俺が目を背けていたのは、やはり自分の中でキョンの存在が大きかったからだ。俺のクラスの生徒だからっていうのももちろん一つの要因ではあるが、それを抜いたってこいつは可愛い。少し大人ぶった落ち着きを放ちながらも、時折油断して見せる無邪気な笑顔が堪らなく好きだ。 でも辰雄、お前にもつけ入る隙がなかったわけじゃないんだぜ? 顔や体格は断然お前のほうがタイプだしな。その隙をふいにしたのはお前自身だ。 初めて辰雄とセックスした日、こいつは俺の教師という立場を脅しの材料として使い、身体の関係を強引に続けさせた。その時点で、こいつとは絶対に付き合えないと自覚したんだ。 脅さなくったって、もう少し普通にごり押ししていればきっと俺は折れていただろう。そうすればもしかしたら、今頃俺の心は辰雄のほうに向いていたかもしれない。 「俺の気持ちは変わらん」 静かに突き放す言葉を俺は口にした。 「でも、お前の気持ちは嬉しかった」 そして、キョンとは対照的に筋肉をよろった辰雄の身体を後ろから優しく抱きしめる。 「セックスも気持ちよかったし、懐いてくれるのも嬉しかった。情も抱いていたさ。でもそれは友情とか弟的なもんであって、愛情じゃない。――いままで辛い思いさせて悪かったな」 最初からちゃんと、きっぱりといまの台詞を言っていたなら、こんな最悪な事態に陥ることもなかったのかもしれない。 「俺がお前とヤったことは別にばらしてくれても構わない。どちらにしろ、お前とはこれきりだ」 「……そんなの、ばらすわけないじゃん。浩二さんが不幸になったって何も嬉しいことなんてないよ。だから安心して」 もっとごねるんじゃないかと心配していたが、辰雄は意外なほど素直に俺との決別を受け入れようとしているようだ。 「お前は顔も身体もいいんだ。卑怯なところさえなくせば、きっといい男が見つかるさ」 「そうかな?」 「ああ」 「じゃあ、浩二さんよりもいい男捕まえて、絶対に幸せになってやるよ。あとでやっぱりオレと付き合いたいなんて言っても駄目だからな」 台詞の調子のよさとは裏腹に、辰雄の顔は悲しみに歪んでいた。一度止まっていたはずの涙が、見る見るうちに再び零れ出している。 「好きだよ、浩二さん。大好き……」 しがみつくようにして俺の胸に倒れてきた身体は少し震えていた。 「オレのこと忘れないで」 「忘れないさ。会うのはもう駄目だが、メールならしてくれたっていいんだぜ?」 「やめとくよ。そんなことしたら、きっと会いたくなっちゃうから」 腕の中から嗚咽が上がる。ありがとよ、辰雄。こんな俺を好きになってくれて。そして同じ気持ちを返せなくてごめんな。 さようなら、という短い台詞と絞り出したような微笑みを最後に、辰雄は自分の服を持って寝室を出て行った。初めて出会ったとき、思わず見惚れてしまったその端整な顔立ちは、もう二度と目にすることはないだろう。せめて幸せになってくれ、と胸に残った辰雄に対する情が訴えている。 さて、一見して事態は収束を迎えたように見えるが、一つだけまだ放置されたままの問題があることを忘れてはいけない。そう、キョンだ。辰雄に怒りの一撃をお見舞いした俺の生徒は、一連の流れを黙って見ていた。 「変なことに巻き込んじまって悪かった」 言い訳なんて今更通用しないだろう。何せこいつは俺が男に掘られ、よがってイクところを実際に目にしているのだから。 「俺はゲイで、辰雄とはセックスフレンドだったんだ。最低だよな、教師が高校生に手を出すなんて」 半ば自虐的に呟いた言葉に、キョンは何も返してこなかった。 生徒をこんなことに巻き込んだ上、未成年との淫行がばれる――新聞に名前が報道されてもおかしくないような事案だ。それ相当の責任の取り方というものがあるだろう。覚悟はすでに決まっている。 「気持ち悪かっただろう? 嫌な思いをさせて悪かったな。せめてお前が卒業するまで教師をやってたかったけど、これで終わりだ」 「……そんなことありません」 クビにしろ自主退職にしろ、これ以上教師という俺の生きがいにもなっていた仕事を続けるわけにはいかない。だがしかし、キョンはそれを静かに否定した。 「先生は何も悪いことなんてしてません。だから教師をやめる必要なんてない。そんなことよりも……」 おいおい、人の人生にかかわる重要な問題を“そんなこと”で片づけてくれるなよ。至極真剣な顔をしたキョンにそれを口にすることは叶わなかったが、いったい何を言い出すつもりなのか予想もつかない。 「さっきの話、本当なんですか?」 「俺がゲイって話か?」 「それもですけど。あの人が言ってた、その……先生が俺のこと好きっていうのです」 「ああ、それか」 おそらくキョンに打ち明けることなどないと思っていた、一方的な恋心。俺の口からではないが、その気持ちを知ってしまったキョンはどう思っているのだろうか? やっぱり男からの好意なんて気持ち悪いだけだろうか? たとえ気持ち悪がられるのだとしても、いろんな秘密を知られ、挙句目の前で犯されたいま、その恋心を隠す意味なんてないだろう。 「本当だ。俺はお前のことが好きだ」 静かに告げた言葉は、きっと俺の人生の中で三本の指に入るくらいの重さを持っていただろう。胸の中でもやもやしていた何かが、その台詞とともに身体から抜けていくのを感じた。 「気持ち悪いこと言ってごめんな。そのうち諦めるから、忘れて――」 「俺も好きです」 俺の台詞を遮ったのは、あまりに予想外な言葉だった。 「俺も岡部先生のことが好きです。すごく好きです」 そう言った声にも顔にも、ふざけるような色はない。まっすぐに俺を見つめる瞳はその台詞が嘘じゃないことを必死に訴えかけている。本来なら歓喜に咽び泣いてもいいシーンなのだろうが、このときの俺はそれよりも驚きのほうが大きくて、しばしの間呆然としていた。 「……それはマジか?」 ようやく出てきた台詞は、誰が聞いても間抜けと思えるようなものだった。 「大マジです」 俺とは対照的に、キョンの声ははっきりとしている。 「というか、あれだけよくしてもらって、惚れないわけがないでしょう?」 やがてキョンが浮かべたのは、照れるように少しはにかんだ微笑みだ。やべえ、すげえ可愛い。いますぐ抱きしめてやりたいくらいだ。――というか、いますぐ抱きしめよう。もうそういう行為に遠慮なんてしなくていいんだ。なぜなら俺たちは、両想いだから。 両腕を広げると、突っ立っていたキョンは迷いなく俺の胸に飛び込んでくる。素っ裸の身体に、キョンの体温とともにようやく嬉しさが満ちてきた。 「さっきすごく悔しかったです。あの人に先生を犯されて。――守れなくてごめんなさい」 「お前が謝ることじゃねーよ。油断した俺が悪かったんだ。でも嬉しかったぜ? キョンが俺のためにあいつを殴ってくれて」 短い髪を梳くように撫でると、キョンは嬉しそうに鼻を鳴らした。俺の背中を掴んだ手は、これでもかというくらい力が入っている。 「抱いてください」 ひとしきりして顔を上げたキョンが、静かに懇願してくる。 「ああ」 本当はもっとお互いの立場を考えて返事をするべきだったのだろうが、諦めかけていた想いが通じた嬉しさと、全裸で抱き合っているというちょっとえっちな現状に、身体は正直に動こうとしている。というか、友情以上の感情を抱けなかった辰雄と何度もヤっておきながら、大好きなキョンとのセックスを断るわけがない。 「キョン、好きだ」 おそらく“俺も好きです”と言いかけたのだろう。しかしその台詞を発しようと開いた唇を、俺は自分の唇でふさいでやった。 続く…… |