03.


 こんな辛い思いをするくらいなら、あいつのことなんか好きにならなきゃよかった。もっと自分の感情を上手く抑制できていたら、誰か別の人間を好きになって幸せを掴むことができたかもしれねえ。
 キョンとの思い出の数々が頭の中を流れていく。それがあいつの結婚式の場面になった途端、寿命の来たテレビみてえに切れ切れの映像に変わった。そしてそれがぷつんと途切れた瞬間、俺は眠りの世界から目を覚ました。
 徐々に鮮明になっていく視界が見出したのは、俺の部屋じゃなかった。見慣れねえ壁紙に天井、それから横になっているベッドの感触も全然違う。それとなんだか背中がすげえ温かい。まるで何かに包まれてるみてえだ。
 そしてそれはあながち間違いじゃなかった。俺の身体は見知らぬ逞しい腕にがっちりとホールドされていて、どうやら背中に感じているのは人肌の温もりらしい。
 えっと、誰だっけ? 憂さ晴らしに掲示板で適当に男見つけてきたんだっけか? いくら酒を飲んだとは言え、ヤった相手の顔くらい覚えてるはずなんだが……。

『背中に乗れ。どうせ一人じゃ帰れないだろう? いまからホテルとるから、そこまで運んでやる』

 そこで急に思い出した声と台詞。そして一人の男の顔。俺を抱きしめているのはたぶんそいつに違いねえ。
 身体ごと後ろを向けば、予想どおりかつての担任だった岡部の男らしくて端正な顔立ちがあり、静かな寝息を立てている。互いに上半身裸のパンツ一枚姿で、しかも部屋の構造から察するにどうやらここはラブホテルみてえだから、岡部と何かヤっちまったかと焦る。いや、実際焦る必要なんてねえんだけど、かつては自分の担任だったわけだから、なんかすげえいけないことをした気になっちまう。
 しかし、ごみ箱の中に精液を拭ったティッシュもねえし、自分の身体に何の違和感もねえことが、俺らの間に何もなかったことを物語っている。

「――起きたのか?」

 いきなり鼓膜を叩いた声に、部屋を物色していた俺は飛び上がるような勢いで驚いた。
 振り返ると、ベッドの上で岡部が眠そうに背伸びをしている。

「本当はビジネスホテルをとってやりたかったんだがな、どこもいっぱいでラブホに寝かせるしかなかったんだ。変なことはしてないから安心しろ」
「俺のほうこそわざわざ運んでもらっちまって申し訳ないっす」
「他人だったら放っておくけど、さすがに元教え子となっちゃああのままにしておけないからな。寝る前にウコン飲ませたから、多少楽にはなったろ?」

 そういえばあれだけ酒を飲んだのに、頭痛も気分の悪さもねえ。ウコンの力ってすげえんだな。

「すんません。何から何まで……」
「気にすんな。それよりもう一回寝ようぜ? まだ夜中の三時じゃねえか。明日は仕事休みだろ?」
「はい」

 キングサイズのベッドとあって、体格のいい岡部が横になっていてもかなりスペースが余っている。俺はまたさっきみてえに岡部の隣に入り、身体を外側に向けた。すると逞しい腕が後ろから伸びてきて、岡部の身体が隙間なく密着してきた。

「せ、先生、ななななんで!?」
「いや〜、傷心の谷口くんを俺の体温で温めてやろうと思って」
「傷心って、俺別に何も……」
「嘘つくなよ」

 どうして俺が傷心なのを岡部が知ってるんだ? そんな疑念を視線に乗せて岡部を見れば、岡部は優しく微笑んだ。

「ここまで運ぶ間に、おまえ一人でいろいろぼやいてたからな。――キョンのこと、残念だったな」

 確かにあんときは完全に酒に飲まれていたし、岡部の背中で泣き言を言っていたとしても不思議じゃねえ。いや、むしろ俺なら言いそうだ。
 不幸中の幸いは聞かれた相手が岡部だったことだな。友達ならこの先の付き合いが気まずくなりそうだが、岡部なら今日別れたあともう会うことはねえだろうし、他人にべらべらと喋ったりするようにも思えねえ。

「キョンのこと、そんなに好きだったのか?」
「まあ……」
「そっか。じゃあ今日は辛かったろう? 結婚式、よく我慢できたな」

 結婚式というキーワードを聞いて、キョンの幸せそうな顔を思い出す。世の中には好きな人が幸せなら、そいつを誰かに盗られてもいいなんて言うやつがいるけど、俺にはさっぱり理解できねえな。たとえこの先キョンが幸せになれるのだとしても、いまはどうしようもねえくらいに悔しいし、寂しい。
 岡部の手が俺の頭を優しく撫でる。その瞬間、安心して気が緩んじまい、一粒ほど涙が零れ落ちちまった。それをきっかけに次々と涙が溢れ始め、あっという間に枕が濡れちまう。

「ごめ、先生っ、俺、止まんねえ」
「いいんだよ。いまは泣いていいときなんだ。気が済むまで泣けばいい」

 結婚式のときにしていた我慢が、涼宮と話しているときも決して見せなかった弱い気持ちが、爆発してもうどうしようもなくなる。

 好きだ。好きだ。好きだ。好きだ。好きだ。好きだ。キョンのことが大好きだ。

 嬉しいときも悲しいときも、どんなときもそばにいて、どんなことも共有したかった。たまには喧嘩もするかもしれねえけど、俺らならちゃんと足並みを揃えて歩いて行けたはずだ。
 でも、もうどんな思いも、どんな願いも叶うことはねえ。俺の人生最大の恋は、昨日永遠に失われたんだ。
 俺は岡部の背中に腕を回した。いまはこの温もりだけが、俺の消えちまいそうな心をなんとか現実に繋ぎ止めてくれる。

「先生、俺どうやったら諦められるんだ? いつになったら楽になれるんだよ?」

 死ぬまで辛いままなんだろうか? いつまでも泣いてばっかなんだろうか?

「実は俺も同じ経験をしたことがあるんだ」

 岡部は柔らかい笑みの中に少しだけ寂しげな色を浮かべて、自分の過去を語り始める。

「本気で好きになったやつが結婚しちまって、死ぬほど辛かった。いまのおまえみたいに毎日泣いて、毎日悔しさに苛まれて、いっそ消えちまいたいと思ったよ。いつまで経ってもそいつに対する気持ちはなくならない。諦めなきゃいけねえのに、諦めきれない。もしかしたら死ぬまで辛いままなのかと絶望した」

 けど、と岡部は一呼吸置く。

「そんなもんは新しい恋を見つけたらすぐに忘れちまうんだ。踏み出せねえって思うだろ? でも、そういうのってホント運命ってやつで、そいつに出会えたら気持ちも動くんだ。出会えるまでは辛いかもしれねえけど、絶対にそういうやつが現れる」
「先生はそれで吹っ切れたのか?」
「ああ。まあ、もちろんその新しい恋が上手くいくとも限らないけどな」

 新しい恋、か。俺がキョン以外の男を好きになる日なんて本当に来るんだろうか? でも確かに他に夢中になれるものができれば、敗れた恋を意識する機会も減って、いずれは心の中から消えちまうのかもしれねえ。

「なあ谷口、ちょっと提案があるんだが」
「なんっすか?」

 顔を上げると、岡部はなぜか少しバツが悪そうに――っつーか、恥ずかしそうに視線を逸らした。

「その、なんだ。どうせなら俺と恋愛してみないかな〜と思って」
「へっ!?」

 まるで予想もしていなかった発言に、俺は驚いて変な声を上げちまう。
 岡部が男もイケるっつーのはさっきまでの行動でなんとなくわかっていたからいい。けどまさか元生徒の俺と恋愛したいとか言い出すとは思ってもみなくて、まじまじと顔を見返せば照れくさそうにはにかんだ。

「そりゃ、昨日の今日ですぐに気持ちを切り替えるのは難しいかもしれねえけど、何もしないよりはきっと楽になるぞ? それともこんなおっさん願い下げか?」
「先生は全然おっさんなんかじゃないっすよ」

 三十を過ぎたはずなのに、岡部の顔は俺が高校のときとなんら変わりない気がする。当時はちっとも意識しなかったけど、こうして改めて見ると結構俺のタイプだ。

「先生こそ、俺のことイケるんっすか?」
「正直すげえタイプだな。俺の生徒だった頃、クラスの中じゃダントツで一番だったぞ? だからおまえが成績悪いの利用して、何度も面接したんだ」

 言われてみると、確かに俺だけ岡部に呼び出されることが多かった気がする。クラスで一番成績悪かったから仕方ねえと諦めていたけど、まさかそんな裏があったとはな。

「いまはまだおまえに対して恋愛感情を持っているわけじゃない。けど、もしおまえが俺のことを好きになってくれるってんなら、俺はそれ以上におまえのことを好きになると思う。そんで、一生をかけておまえのことを守っていくぞ。……って、うわ、なんか恥ずかしいな」

 たぶんいまの台詞に嘘偽りはないんだろう。もちろんその場の勢いとか、俺に対する同情もあったんだろうけど、岡部の目は至極真剣で、すぐに気持ちが引き込まれそうになる。
 正直、岡部の言葉はすげえ嬉しい。一生をかけて守るだなんて言われたことねえし、しかも言っているのがこんな男前で気分がよくならねえわけがねえ。
 キョンへの気持ちがそう簡単になくなるとは思えねえけど、それでもここで一歩踏み出すことで何かが変わるんなら、俺はそれに賭けてみたいと思った。だから返事をする代わりに、俺は岡部の唇に軽く触れるくらいのキスをした。

「ちゃんと先生のこと好きになれるかわかんねえけど、でも全然嫌じゃねえし、好きになれたらいいって思ってる。それにずっとこのまま何も変わらねえのはきついから」

 たぶんこの人のことを好きになれたら、俺はすげえ幸せになれると思うんだ。それこそキョンのことなんか忘れちまうくらいにさ。

「ありがとよ、谷口。絶対に惚れさせてやるから、覚悟しとけよ」

 お返しにと、岡部もまた俺の唇にキスをしてくる。啄むようなキスの応酬が、やがて深く噛み合って濃厚なものに変わっていく。絡め合った舌の生温かい感触と、太ももの辺りに押しつけられた硬い感触を感じて身体が熱くなってきた。

「やばい、勃ってきた」
「俺はとっくの昔にフル勃起してるんだけどな」

 指先で触れると岡部のそれはぴくりと反応し、それがおもしろくて擦っていたら、岡部も俺のチンコに触ってくる。

「せっかくラブホにいるんだし、いまからするか?」









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