美しいピアノの旋律と歌声が隆広たかひろの鼓膜を震わせた。さっきまでにわかにざわついていた会場が。その瞬間にしんと静まり返る。
“彼”のどこまでも柔らかく優しい声がピアノのメロディーに乗って場内を取り巻いた。サビに入るとそれは張りのある力強いものに変わって、切実な思いをストレートに訴えかけてくる。

“あなたの手は温もりを失っていた まるで愛を拒絶するかのように
 もう受け入れることができないのなら 背を向けて歩き出すといい
それがあなたの望む道ならば 僕はその手をそっと放すから”

 素人バンドのロック調の曲が続いていた中、歌われたのは壮大なバラード。流れ的には違和感があるものの、とても素人とは思えぬ歌唱力は聴く人すべての心を掴んでいた。――もちろん隆広の心も。
 やがて最初の優しい歌声と、尾を引くように小さくなっていくピアノで締めくくられた時、少しの間を置いて会場に大きな拍手が響き渡った。それまでの演奏で一度も拍手をしなかった隆広でさえ自然と手を叩く。
 魅了された。それが隆広の素直な感想だった。音楽に心を動かされることなど滅多にない隆広をもきつける“力”が彼の歌にはある。
 最後にピアノの前で深く頭を下げた短髪の少年の姿が隆広の目に焼きついて離れなかった。






 One Melody






 01. 忘れられない歌声


 ギター、バイオリン、フルート、通りざまに耳に入るいろんな楽器の音色――桜坂隆広さくらざかたかひろにとってそれらは雑音でしかない。決して下手くそな演奏ばかりというわけではないが、決して上手くもない。言うならば何の熱も感じない、ただ鳴らすだけの音が空気を振動させていた。
 最初は珍しいものだらけだったキャンパスも。三年目の秋ともなればもう見飽きたものだ。何度も見た景色に溜息さえつきながら、隆広は自習室のドアノブを握る。

「――はよ、隆広」

 この自習室が使われることは滅多にない。だから隆広は部屋の鍵を強奪し、半ばアトリエのように好き勝手に使っている。
 先に来ていた友達に「ん」とだけ返し、自分の名前が書かれた椅子にどっかと腰かける。

「やっぱし朝はきつい」

 朝に弱い正直な気持ちを口にすると、友達――秋葉康介あきばこうすけは軽く笑った。隆広とは対照的に小柄な体系をした彼は、ギターを専攻している。実力も結構なもので、たまにその手のイベントに出場しては賞をもらって帰ったりすることもだるほどだ。

「そんなきつい朝からこれ言うのもなんだけど、お前進路希望の紙出してねーだろ? 深谷さんが探してたよ」
「……忘れてた」

 この大学の進路希望調査は三年生の秋から執拗になってくる。しかもまだ先も見えぬというこの時期から曖昧な回答や未定出が許されない。
 将来のことなど真剣に考えたこともなかった。プロのドラマーになりたい、という漠然とした夢を持ってこの大学に入ったものの、ぶつかってしまった疑問――“それを職にしてしまって本当に幸せなのか?”
 ドラムには絶対の自信があるし、叩くことが好きだ。けれどそれを職にしてしまうと普段の自分には何も残らないのではないか? ドラムを叩くことがやがて楽しくなくなるのではないか? 急に浮かび上がった疑問の数々が隆広の将来を迷わせていた。
 進路希望のアンケートを出していないのは、本当に忘れていたからではない。担当の深谷が探しているのだって知っている。
 アンケートの紙が入っているバッグにチラッと目を向け、そのことを振り払うように隆広は首を横に振った。

「ああ、それとお前が知りたがってたピアノのあの子。少しだけ情報をもらったよ」
「マジか!?」
「マジマジ」

 先日ライブハウスにてピアノ弾き語りの素晴らしい演奏を聴かせた“彼”のことを、隆広は調べ回っていた。あのたった一回の演奏ですっかりとりこにされてしまい、ぜひとも本人にコンタクトを取りたいと思っていたのだ。

「直接あの子と繋がってるやつがいなくてさ〜。友達の友達辺りからようやく入手できたんだよ。たしか名前は野木翼のぎつばさ

隆広自身は知り合いのバンドの助っ人として参加したライブで、他の出演者にも特に興味もなかったので彼の名前もいま初めて耳にした。

「あのときはピアノ・ワンマンだったけど、本来はバンドで活動しているらしいよ。あと、この辺で彼を見かけたってやつが何人かいたから、家はこの近くなんじゃないかな?」
「あとは?」
「そんくらいだ。あんまライブにも出てないみたいだから、情報少なかったよ」

 あれほどまでに印象深い演奏をするにも拘わらず、素人ライブにちょくちょく顔を出している隆広が知らなかったのだ。たしかにライブにはあまり出ないのであろう。

「その代わり、いい物手に入れたよ。――ほれ、翼くんの自主制作アルバム」

 康介が差し出したCDを手に取り、それをまじまじと観察する。グランドピアノの上に一厘の花が置かれた写真に“Freedom”と印字されたジャケット。彼のイメージにぴったりなそれと、満面の笑みを浮かべた康介を見比べて、隆広はうなった。

「でかしたぞ康介! ご褒美にジュース一本おごってやる」
「ジュースかよ! せめてマックとかにしてくれよ」

 康介の不満を軽く聞き流し、思わずCDを抱きしめる。今日から彼――野木翼の曲が聴けるのかと思うと興奮した。ライブでのあの一曲だけでも彼の持つ世界の壮大さが垣間見えた。その真意をこれで知ることができる。

「あともう一個大事なこと忘れてた」
「うっさい。お前はもう喋んな。俺はいまからこのCDをヘビロテすっから」
「ひでーな、おい。さっきは褒めてくれたくせに……。まあ、いいや。――その翼くん、ドラマー募集してるんだってよ」



 野木翼の自主制作アルバムは、しっとりとしたバラードで締めくくられた。綺麗なピアノの音が止むと、少しの間を置いて隆広の口から感嘆の溜息が漏れる。
 これが本当に素人の作ったものなのかと疑いたくなるほど素晴らしい作品だった。歌詞、メロディー、演奏、どれをとっても文句のつけようがない。中には首を傾げてしまうような曲もあったが、それはあくまで隆広の好みの問題であり、曲の質はやはり良かった。
 一曲目がバラードで始まったため、てっきりその手の曲ばかりなのかと思って聴いてみれば、意外にもロック調な曲もあったり、寓話のような不思議な曲もあったりする。そしてそのすべてが野木翼のセルフプロデュースによって作られたということに隆広は改めて感心した。一人の人間がここまで多彩な音楽を表現できるのか、と。

(にしても、このドラム……)

 ボーカルもさることながら、曲を彩る楽器の演奏も実力者揃いのようだった。その中でも隆広の心を掴んだのがドラムである。決して自己主張しすぎず、だからと言って存在が霞むのではなく、すべてのメロディーラインの土台をしっかりと作っていた。アップテンポな曲では複雑そうなタッチも滑らかに鳴らし上げ、一言に“上手い”と表すにはあまりに言葉が足りないほどだ。

甲斐栄一かいえいいち……聞いたことのねー名前だな)

 歌詞カードのクレジットを見ながら心中で呟いた。

(こんだけ実力あるのに新しいドラマー探してるってことは、この甲斐とかいうやつ、演奏できない事情でもできたんか? いや、もしかしたらプロになっちまって一緒に活動できなくなったとか?)

 まあ、理由はどうでもいいが。甲斐栄介には実力が及ばないかもしれないが、隆広はこのとき野木翼のドラマーに立候補しようと決めていた。彼の作る音楽に自分も携わりたい。そう思うほどに隆広の心は野木に対してベクトルを向けていた。

(しかし、問題はどうコンタクトをとるかだ)

顔の広い康介ですらわずかな情報しか得られない相手だ。ライブハウスの人間に訊いても個人情報のなんたらで突き返されるのが落ちだろう。
 どうしたものかと頭を抱えたとき、何の前触れもなく出入り口のドアが開いた。


★続く★







inserted by FC2 system