忘れられない歌声-2
「――やっと見つけたわよ、桜坂」
凛とした女の声が自習室に響き渡った。出入り口の前、銀縁眼鏡の美女が眦を吊り上げて仁王立ちしていた。
「よう、深谷さん」 「よう、じゃない」
なんでもないように軽く挨拶すると、進路担当の深谷は持っていたファイルで隆広の頭をしばいてくる。
「進路希望の紙、いつまで待たせんだ馬鹿野郎」
一見して図書館の司書のような静かな雰囲気を思わせる深谷だが、その実口は悪いしさっきのように手を出してくる。見た目騙しもいいところだ、と心中で毒づいて、隆広は逃げるように椅子から腰を上げた。
「もう少し考えさせてくれ。いろいろと迷ってんだ」 「何を迷うことがあるのよ? あんた、ドラマーになるんでしょ? 一年のときから言ってたじゃない」
深谷はいつも秋葉が座っていた椅子に腰かける。
「あんたは実力がある。現に何度かお偉いさんに賛辞の言葉をもらってるし、だから大学側も押す。プロになるのも難しい話しじゃないわ」
実力を認めてくれるのは嬉しい。だがどんな言葉も隆広の不安を打ち消すには何かが足りなくて、結局前へ進めなかった。
「深谷さん、バイオリン弾くの好き?」
進路のことで話をしているも、深谷の本来の立場はバイオリンの講師である。講師になる以前は大きなオーケストラに所属していたらしい。いまでもたまにエキストラとして演奏に参加することもあるという。 初めて深谷のバイオリンを聴いたとき、あまりの上手さに呆然となったのを覚えている。音の伸び、手つきの繊細さ、ビブラートのかけ方、どれをとっても文句のつけようがなく、一講師として納まっているのが不思議なくらいだった。
「好きに決まってるじゃない」 「じゃあ、弾くのが嫌になったことある?」 「う〜ん……スランプなら何度かあるわよ。突然まるっきり弾けなくなってねえ、あのときはやめてやろうかと思ったわ。でもしばらくバイオリンと離れていると無性に弾きたくなって、手にしてみるとこれが気持ちいいくらい上手く弾けるのよね〜」
深谷は一度笑って、しかし何か思うところを見つけたのかすぐに厳しい表情をする。
「まさかあんた、スランプが怖くて進路決めかねてるんじゃないでしょうね?」 「まあ、似たような感じ。ドラムを職にして、それが嫌になったら俺には何も残らねーんじゃないかって思って」
深谷の大仰な溜息が室内に響く。
「あんたって身体大きい割に精神は極細なのね」 「うっさい」 「スランプになったときのことなんて、なったときに考えりゃいいのよ」 「俺はあんたみたいに精神図太くないんでね」
軽口を叩くと再びファイルでしばかれる。
「とりあえずアンケートにはプロ志望って書いておきなさい。路線はあとから変更することできるから」 「あれ? これって本決まりじゃなかったのか?」 「まだあと何回かあるわよ。それまでに決めておけばOK」
それならこうも提出に苦吟することはなかったな、と安堵した胸中で呟いた。
「悩むのが悪いとは言わないわ。でも私たちの頭まで悩ませるのはやめてよね」
へいへい、と適当に返事を返すと、深谷は立ち上がる。その瞬間、彼女の切れ長の瞳が隆広のバッグの上の物を捉えて首を傾げた。
「それ、私も持ってるわ」
深谷が目に留めたのは野木翼のCDアルバムだった。
「へえ、知ってんのか?」 「うちの生徒だったやつがバック演奏で参加してるから。甲斐栄一っていうんだけど」 「甲斐栄一? ドラムの?」 「そうそう」
ボーカルの野木翼はもちろんのこと、ドラムの甲斐栄一にも興味がある。CD音源からでも伝わってくる彼のテクニックは、同じドラマーとして素直に羨ましいと思った。どうせならその技能を生で堪能してみたい。
「あの人この大学の出身だったんだ」 「そうよ。あんたも十分ドラム上手いけど、あいつははっきり言ってそれ以上だったわ。賞も結構もらって帰ってきてたし、だから先生たちも結構押してたの」
それは自分だって同じだ、と隆広は言い返しかけたが、ぎりぎりのところで飲み込んだ。いまの自分の実力では、それは負け犬の遠吠えにしかならないだろう。
「顔はいいし、性格も柔らかいし、真面目だし……。族の総長みたいな面の上に不真面目でぶっきらぼうな誰かさんとは大違い」 「族の総長とか言うなよ。結構気にしてんだから」
そう言うと、深谷は軽く笑った。
「冗談よ。不真面目でぶっきらぼうなところはホントだけど」
今度は隆広が笑う。
「深谷さん、甲斐さんの連絡先知ってる? できれば直接会って話してみたいんだけど」
深谷はずいぶんと甲斐のことを知っているようだったし、個人的な繋がりもあるかもしれない。そう思って質問すると、深谷の表情が急に陰りを見せる。
「……ああ、連絡先ね……」
さっきまで和やかだった雰囲気が一気に冷め上がるのを感じた。深谷は声のトーンさえも暗くして、次には沈黙が二人の間に舞い降りる。
(俺、なんかやばいこと訊いたか?)
深谷のこんな顔、見たことがない。だから余計に不安になってオロオロと視線を彷徨わせる。
「甲斐ね、一年半くらい前に事故で死んじゃったの」
――胸が押しつぶされるような感覚がした。一瞬にして隆広の鼓動は跳ね上がり、呼吸さえも荒くなる。 ショックだった。顔も合わせたことのない相手ではあるが、彼のドラムに聴き惚れていただけにそれは大きい。声も出せず、じっと床を見つめていると、深谷の平手が隆広の尻を叩いた。
「まあでも、あんたならあいつを超えられるかもね。人生これからだもの」 「……だといいな」
壁は大きいが越えられないことはないはずだ。隆広にはそれに挑めるだけに才能があるし、何より長い時間がある。一つの目標として置くには妥当かもしれない。
その日一日の講義を終えた隆広は、帰りに大学近くのコーヒーショップに立ち寄った。蜂蜜のたっぷり入ったコーヒーミルクとミルクレープを注文して窓際の席に着くと、大仰に息をつく。 進路の話がひと段落つき、抱えるもののなくなった胸で飲んだコーヒーは実に美味しい。蜂蜜の甘味がミルクに包まれて口の中を満たしていく。顔に似合わないメニューであることはもちろん自覚しているが。
(それにしても甲斐さんのことはショックだったな……)
生で彼の演奏を聴きたい、という願望は一瞬にして消え去り、後には残念な気持ちが残るばかりである。でもきっと、隆広の胸の中にあるものより、深谷の悲しさのほうがずっと大きいだろう。いつも無駄に元気な彼女があんな沈んだ顔をするくらいだから。そして野木翼のそれはもっと大きなものかもしれない。
(結局、野木の情報は得られなかったな……)
一番有力なのは、この付近にたまに出没するということ。もしかしたらこの辺りに住んでいるのかもしれない。しかし張り込んだとしても出会える確率などかなり低いだろう。あとは康介の情報網を信じるしかない。 野木がドラマーを募集しているのは、おそらく甲斐栄一が亡くなってしまったからだろう。彼の穴を埋めるのに自分の実力では不足が大きいことはわかっているが、どんなに考えても野木翼と演奏したいという気持ちは変わらなかった。
(ライブが終わってからすぐに突撃するべきだったな……)
――そんな後悔を心中で呟き、何気なく視線を店の角に向けたときだった。
隆広の目は、そこに座っている人物を捉えて離れなかった。それがなぜだかわからなくて困惑する頭でそれが誰なのか認識しようとする。 短い黒髪に吸い込まれそうな大きな瞳。窓の外をじっと見つめる横顔は人形めいて端整で、どこかあどけなさを残していた。 真っ先に思い浮かんだのは、いつの日かライブハウスでピアノ弾き語りを披露した姿。いまはきちっと閉じられた唇が、あの日は情熱的なバラードを口ずさみ、隆広の心を一瞬で鷲掴みにした。
そこにいたのは、間違いなく野木翼だった。
★続く★
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