02. 遭遇
そこにいたのは、間違いなく野木翼だった。
偶然というより奇跡という言葉のほうがふさわしい。捜し求めていた、どこにいるかもわからぬ相手にこうして同じ時間、同じ場所に居合わせたのだから。 立ち上がった瞬間緊張で足がすくむのがわかる。まるで大事な試験の結果が発表されるときのような気持ちだ。隆広は少し震える足を心の中で叱咤して、一歩踏み出し彼との距離を縮めていく。 あと一歩で手が届くところまで来ると、野木の大きな黒目が隆広のほうを向いた。近くで見るとさらにあどけなく見える顔が少し驚いたような表情を浮かべ、閉ざされていた唇が言葉を刻んだ。
「――ドラムの人」
出かけた言葉が喉に詰まり、今度は隆広が驚きに顔を歪める。
「俺のこと知ってるのか?」
知っている、と柔らかい声が答える。
「バンド名は忘れたけど、この間の横山のライブに出てたよね? ドラム上手かったから覚えてる」
まさか野木が自分をことを覚えているとは思ってもみなくて、どうリアクションをとっていいかわからず頭を掻いた。
(しかも上手いって言われた)
ピアノの腕と歌唱力はもちろん、曲を生み出す技術まで天才的なまでに優れている野木翼は、あまり他人を尊敬したことのない隆広でさえ見上げる存在だった。そんな人間から褒められては嬉しいのより驚きのほうが前に出てきてしまう。
「……あんたのほうが全然すごかったよ。一気にファンになっちまった」
そう言うと、野木はさも嬉しそうに笑い、隣りに座るよう手で促してくる。丸椅子に腰を下ろしかけたところでコーヒーとミルクレープをさっきの席に置きっぱなしにしていることを思い出し、一旦取りに戻ってくる。そうして野木の隣りに着くと、隆広はおもむろにバッグの中からアルバム“Freedom”を取り出した。
「これ聴いた。すげえよかったよ」 「ありがとう。えっと……」 「桜坂隆広っていう。そこの音大に通ってる」
そうなんだ、と野木は音大のあるほうに目を向ける。
「どの曲が一番好き?」 「“Fighter”かな。一番最後のやつ」
“Fighter”はアルバムを締めくくるにふさわしい壮大なバラードだ。人間誰しもが思い出したくない過去を一つや二つ背負っている。記憶から消してしまいたいと思うこともあるけれど、その過去に立ち向かい、打ち負かして初めて未来が開ける、という内容の曲だった。 野木の“過去”とはどうやら過去の恋愛を指しているらしく、不本意に終わってしまった恋にけじめをつけようとしている気持ちが鮮明に描写されていた。 伴奏はピアノとストリングスのみで構成され、そのシンプルな形が逆にメロディーのよさを前面に引き立てている。
「それ、俺の一番思い入れのある曲なんだ。だから一番最後に位置づけた」 「ばっちり締まってたな。他の曲もいいのばっかだったし」 「なんか照れる」
目を逸らしてはにかんだ笑顔を見せる様子は、あどけなさが残るのも手伝って、素直に可愛いなと思った。最もそれを口に出すことはしないが、つい見惚れてしまったのは相手が同性なだけに少し恥ずかしい。
「そういえば、あんだいくつ?」
中学生、というにはその落ち着き払った雰囲気は釣り合わない。では高校生か? 気になって訊ねてみると意外な答えが返ってきた。
「ちょうど二十歳だよ」 「そうだったんか!? てっきりもっと下だと思ってた」 「よく言われる。桜坂さんはいくつ?」 「一個上だ」
そうなんだ、と意外そうにした顔は、やはりたった一つ歳が下には見えない。
(でもまあ、高校生があんな曲の数々を作ってたら逆にびっくりだよな。それを思うと二十歳は妥当かも)
とは言え、年下でこんなに音楽の才能に満ち溢れているというのは少なからず嫉妬してしまう。恥ずかしながら実は隆広も昔曲作りに熱中していたことがあって、何曲かでき上がったものをいまも保管してある。ただ、野木と違ってそのどれもが不出来だったり、歌詞が異様に臭かったりして、結局いまは作ることをやめているが。
「そういえば俺、あんたのこと探してたんだ。ドラマー募集してるってのはホントか?」
野木の情報を切に求めていた目的は、空いてしまった彼のドラマーの枠に立候補するためだ。出会うことができた嬉しさにそれを忘れかけていたが、ふと思い出して訊ねてみる。
「ホントだよ。ずっとやってた人がやめちゃったから」
おそらくそれは甲斐栄一のことを言っているのだろう。決して“死んでしまったから”とは口にしなかったから、隆広もそのことについては触れないようにした。
「でもちょうどよかった。実は桜坂さんにドラムお願いしようと思ってたんだ。だから俺もあなたを探してた」 「そりゃすげえ偶然だな。なんで俺にしようと思ったわけ?」 「上手いからに決まってるじゃん。さっきも言ったけど」
しごく当然のように野木は言う。
「他に立候補してくれる人もいたんだけどね。どれもイメージとなんか違ってて、結局ドラムの枠は空いたままだった。んでやっと理想のドラマー見つけたなって思ったのが桜坂さん」
実は、野木は先日の青山で行われたライブ以前に隆広の存在を知ったらしい。そのときから情報を集めようとするも、隆広と同様に前へ進めぬまま諦めかけていたという。
「今日出会えてよかったよ」 「お互い様だな。――ここよく来るのか?」 「来るよ。ハチミツカフェオレとミルクレープが好きでさ〜」
俺と同じかよ、と隆広は笑った。
「俺もよく来るんだけど、いままで一度も会わなかったよな?」 「そうだね。ホントすごい偶然」
まさに運命だな、と柄にもないことを心中で呟いて、ハチミツカフェオレを一口飲む。
「でもなんか、桜坂さんがハチミツカフェオレって意外だね。イメージはブラックなのに」 「よく言われる。なんせこの顔だからな。店員まで目を丸くしやがる」 「俺はその顔好きだけどね。男らしくてかっこいい」 . そんな台詞を躊躇いもなく言うものだから、リアクションに困ってついそっぽを向いてしまった。すると野木は笑う。
「もっと寡黙で取っ付きにくい人なのかと思ってた。でもなんだか話しやすくて安心したよ」 「俺もあんたのこと根暗で取っ付きにくいのかと思ってたわ。曲のイメージでな。でも普通に話せるやつで安心した」
自分の世界を持っていて、そこになんびとたりとも近づけさせない。そんな扱いの難しい人間とはどうやら全然違うらしい。
「桜坂さん、これから時間ある? よければ俺んちに来てほしいんだけど。いろいろ話したいこともあるし」 「うん、いいよ。明日は大学もないし、夜は何時でも大丈夫だ。でもいいのかよ、突然お邪魔したりして」 「全然OKだよ。どうせ一人暮らしだし。なんだったら夜御飯も食べて行くといい」 「う〜ん……じゃあ、お邪魔します。あ、そうだ。野木くんって酒飲めんの?」 「そこそこなら大丈夫だよ」 「なら出会った記念に飲もうぜ」
それでもっと割り切った話ができたりするといい。特に彼の過去の恋愛話には非常に興味があるのだが。曲という形に置き換えられてはいるも、その真相はいったいどんなものだったのだろう?
隆広は一旦自宅に帰ると、大学の荷物を置いて、外で待っていた野木と近くのスーパーに向かった。やたらチューハイばかりとかごに入れる野木に、イメージどおりだと笑ったが、その実隆広もビールよりチューハイが好きだったりする。
「結局チューハイとカクテルしか入れんかったな」 「だってビール不味いんだもん」
あの苦味を大人は楽しむとよく聞くが、本当にそんな日が来るのかと飲むたびに疑わしく思うものだ。
「そういえば、俺がレジに酒を持っていくと必ず年齢確認される」
さも不満そうに野木は言う。
「まあ、たしかにその顔じゃされるわな。逆に俺はまったく怪しまれねーよ」
軽く噴出した野木にデコピンをくらわし、買い物を終えた二人は駅まで歩き出す。 野木のアルバムを入手し、更に本人に出会うことも叶い、こんなにもいいことが重なる日などいままでにあっただろうか? 運命などという聞こえのいい言葉は信じていないつもりだったが、今回のことはその二文字に置き換えてもいいと隆広は思った。
★続く★
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